20-3

文字数 6,852文字

 黒のルークとビショップが白のクイーンをスキュアしている。白のポーン、ナイト達はことごとく失われ、サラは引き分け《ステイルメイト》に持ち込むだけで精一杯の局面だった。
 全てを語り終えて、サラはクイーンを一歩だけ右に退けた。ルークの先にはキングがある。
「白のキングは私と、玲香の心臓だ」
 二時間の死闘の末、サラが選んだのは完璧なるチェックイトだった。静流は唖然とした顔で彼女を見ていた。
「授翼の王はお前を待っている」
「ふざけるな。お前はディーグに抗うため、全てを投げ出してでも戦ってきたんだろ。こんなところで諦めてんじゃねえよ。革命なんて無理だと知りながら、でも玲香と二人で精一杯生き抜いてきたんじゃねえか。そのために死んだ仲間もいる。七界に行って、そいつらにどう顔を合わせる気だってんだ」
 静流が声高に言うと、暖炉の薪が崩れた。灰になって、それでも火を尽くさずにいる。火という怪物に、骨の髄までを搾り取られている。
 笑っていた。サラは静かに笑っていたのだ。
「静流。お前の心臓は、まだ動いている。死んでいない。自由を手にする鷹のように、大空へ羽ばたこうと足掻いている。でもな、私はもう、全てを失ったんだ」
「全てを失ったなら、また取り返せばいい」
「もう、そう思えないんだ」
 彼女は、ポケットの中にしまっていた小さい瓶を取り出した。中に入っているのは白ワインだろう。彼女は満タンになっている瓶に口をつけて、舌を潤した。
 脈絡のない声が聞こえたのは、彼女がワインを飲んでいる時だった。
「サラー、そろそろご飯できるよ」
 最初、静流は幻聴を聞いたのかと思った。しかし、確かに静流の耳に届いたことを認識して周囲を見渡した。ここは闘技場だ。他の誰もいないはずなのだから、二人以外の声が聞こえるのことはあり得ない。
 聞いたことのない声だった。だから、静流は確信した。
「お前……」
「ああ、今すぐ行くよ。待っていてくれ、サラ」
 ワインをもう一口、多くの量を彼女は飲む。
 声だけしか聞こえないから、玲香がどんな料理を作って待っているのか、どんな表情をして待ってくれているのかは分からない。だが、これは彼女の記憶の中にある現実。日常。きっと彼女が、一番幸せだった頃の。
 瓶の中身が無くなったのと同時に、彼女は唇を震わせた。悲しみを堪えるように、最後に訪れる絶望を拒絶するように。
「撃ってくれ」
 震える声で、彼女はそう言った。静流は何も言えなかった。何もできなかった。
「同情はいらない。頼む。最後に、お前の手で私を終わらせてくれ」
 静流は人の殺し方を忘れた。どうすれば目の前の人間を殺せるのか、どういう理由で殺せるのか。
 するとサラは、もう一度笑った。先ほどよりも渇いた笑みだった。
「まだー? お料理冷めちゃうよ。今日は特製冷やし中華なんだけど」
「それはもう、冷めてるだろう」
 そう言った途端、サラの目から悲しみが溢れだした。大きな悲しみで、絶え間なく頬を伝って膝に堕ちた。そして何度もワインを口に含んで嗚咽を漏らした。
 最後の一滴を飲み干した時、彼女は激昂して瓶を地面に叩きつけた。
「早く殺せ! 躊躇(ためら)うな! 私は死にたいと願ってるんだ」
「俺だってもう疲れたんだ!」
 溜まっていた鬱積( うっせき)を晴らすかのように、静流もまた吠えた。
「俺のせいで仲間達が傷付く。なんだよ、俺は疫病神か? 人を苦痛に追いやる最悪の神様だよ。ああ最高だ! もしここでお前を撃って生き延びたら、また誰かが酷い目に遭うんだろ知ってんだよ。お前だって同じ気持ちなんだろ。自分のせいで玲香が死んだって思ってんだろ!」
「私はそんな思いで死にたいって言ってるんじゃない! 私と同じ志を抱いたお前に、託したいからだよ……!」
「そんな簡単に革命を押し付けんじゃねえよ。責任を押し付けんじゃねえ! 玲香はお前に生きてほしいんじゃねえのか。最後まで足掻いて、ディーグの忠実な(しもべ)になってでもいいから生き延びてほしいと願ってんじゃねえのか。俺は美咲に、死んでも俺のところに来いなんて言わねえよ、愛してるからッ!」
 互いに、心の中に住んでいるのは諦めだった。静流もサラもディーグの強さを前にして、革命を諦めて誰かに押し付けたい思いが募っていた。その気持ちを互いは否定しない。事実だからだ。
 だから綺麗事は言わない。革命とは人々が思うほど血生臭く、悪を倒す正義ではないから。綺麗な言葉で修飾できるほど、純潔な行いではないからだ。
「片足を失ったから俺は生を諦めた? ちげェよ。俺は、人を殺すことに嫌気が差した。お涙頂戴のクソったれなこの世界にいたくねぇんだ」
 その気持ちが痛いほど分かってしまうから、サラは口を閉ざした。
 エンドゲームを迎えたチェス盤の上にいる白のキングとクイーンは、どちらも孤立している。行き場を失った兵士と、守ってくれる兵士を失った王。
「もうサラ、遅すぎる――って、あら。お客さんがいたんだ」
 沈黙する二人。扉が開いて、エプロン姿の玲香が姿を見せる。その姿は、静流から怒りの感情を奪った。
 顔の半分が継ぎ接ぎの縫い目でできた人形のようで、髪の毛はない。衣服を身にまとっておらず、肌の色は全身に(あざ)ができているように、赤紫色をしている。人間と呼ぶにはあまりに、無謀な姿だった。きっと彼女を成しているのは、美しい緋色(ひいろ)の瞳だろうから、静流は唖然とした。
「来てしまったか。静流、タイムリミットだ」
 玲香は手に包丁のようなものを持っていた。実際にそれは包丁であったのだが、どうして彼女が包丁を持っているのだろう。理由が分からないから、包丁のようなものと言うしかないのだ。
「静流、お前にはまだ仲間が大勢いるはずだ。守吟神も、他の旧人も。私は違う。もう誰もいないし、作ろうとも思えない。きっと君も、私と同じように絶望しているのだと思う。だが私よりほんの僅かに、君の方が……生きる価値があるんだ」
 包丁を持った玲香は、静流がいるにも関わらず甘えるようにサラに身を委ねた。サラは優しく、彼女を抱擁(ほうよう)する。それは愛を持ったものではなく、(いつく)しむような抱擁だった。
 途端、玲香の様子が豹変(ひょうへん)した。泣き叫ぶような絶叫を上げ、サラの首を絞めて地面に押し倒した。
「お前のせいで! お前のせいで!」
 馬乗りになった玲香は、持っていた包丁を使ってサラの腹部を何度も切り刻み、差し込んでは切り裂いた。サラは悶絶することもなく、ただその痛みを受け入れている。
「お前が革命を起こそうっていうからッ! 私はお前のために頑張ってきたのに。なんでお前だけ生きて、私だけ死んだんだ! どうして一緒に死んでくれなかったんだ! お前の愛情なんて偽物だ。死ね、死ね! 人に何もかも押し付ける卑怯者は、ここで朽ち果てて惨たらしく死ねえぇ!」
 ナイフが脂まみれになって使えなくなり、玲香は自分の手でサラの腹部に手を入れ、中身をかき回し始めた。
 テーブルの上に銃が置いてある。静流は震える手でその銃を掴んだ。そして――玲香の頭に銃弾を食い込ませ、そして、彼女は倒れこんだ。彼女の姿によく似合う死体へと変貌した。変貌したというより、元ある姿に戻ったという方が的確なのかもしれない。
 散々臓物を傷つけられても、サラはまだ生きていた。静流は車椅子を動かして、横たわっているサラへ近づいた。彼女は静流を見ているが、何も発さない。言葉を出せないのだろう。
 再び銃を構える静流。
 室内にこだまする、一発の銃声。
「お前の意志を必ず告げられるかどうかなんて、俺には分からねえ。約束はしないからな。俺が七界に行っても、文句言うんじゃねえぞ」
「文句を言う立場でないことは、理解している」
 戦いは終わった。壁だった場所に、純白の扉が出現した。ところどころ金色の刺繍がされているから神秘的だった。
「最後に、一つだけ」
 出口の方へ向かおうとする静流を呼び止めるように、彼女はそう言った。
「生き残った授翼の王は、人間街にいる。場所は、花を売る少女に案内してもらえる。少女はその時に暗号を提示するように言うだろう。その時は、チェスで白のクイーンが動いた場所を答えればいい。エンドゲームから五つ前のターンからの、五文字だ」
「言っていいのか。暗号なんだろ。もしディーグに聞かれていたらどうする」
「知らないんだな。中継は、勝負がついた時点で切られる。今この会話は誰にも聞こえていない」
「DEACHか。この言葉に意味はあるのか」
「今となっては、枯れ果ててしまったから、もはや意味などない。その言葉に意味を見出すのは、君自身だ」
 純白の扉を開けると、向こう側から眩い光が漏れている。
「私と玲香が成し遂げられなかったことを、引き継いでほしい。君ならできると信じているから」
 死してなお戦い続けなければならない己の運命を、静流は呪った。本来ならば負けるのは自分であったはずの試合が(くつがえ)ったのだ。もう幕を下ろしてもいい頃合いのはずだ。それなのに、戦いは続く。
 挑もうとしている相手は、人知を超えた者。勝つ見込みがあるはずもなかった。人間が神を敵に回すのと同じだからだ。
 けれど運命は静流に戦えと命じている。勝敗が分かっている戦いに身を投じろと言っている。
「そうか、これが俺の贖罪(しょくざい)なんだな」
 キリストは十字架を背にして、全人類の罪を浄化した。
「行け、静流。もう私の出番は終わっている。今まで倒してきた人間達の分、それから私の想いを背負って、生き抜いてくれ。それが死者から君に送る願いだ」
 少しずつ光の眩きが多くなり始め、やがて静流を覆った。あまりの眩しさに眩暈(めまい)を感じた静流は、こみ上げてくる慣れない吐き気を耐えた。
 耐えていると、少しずつ明かりが消えていく。気付けば見慣れた部屋にいた。
 ミアンナの顔が目の前にあった。近過ぎる程だ。彼女の温もりさえ感じるように。
「奇跡が起きたのですね、シズル」
 彼女はそう言うと、本当に静流が帰ってきたのかを確かめるために手を握った。その手が温かいことを確認してようやく、彼女は現実を理解する。
「おかえり、シズル。こういう形とは思わなかったが、また再会できたことに俺は喜びを感じている」
 カミツナギも同室していた。静流でさえ信じられずにいる。またこうして二人と再会できたことを。そしてまた、人を殺めなければならないことを。
 感極まったのだろう。ミアンナは静流を優しく、その柔らかな肌で包んだ。
「よかった、本当に良かった……あなたが帰ってきてくれて。生きていてくれて」
 ミアンナの熱い涙が、静流の首筋に垂れた。
「泣くなよ。お前はいつも、俺に何かある度に泣いてやがる。泣き虫だな」
「失礼ですね。どれだけ心配したと思っているのですか。シズルが勝利を投げ出したり、疲れたといったりしちゃいました時は、本当に倒れそうになったんですよ」
「大げさに言いやがって」
 だが静流は、目線を下に向けた時に見えた粉々になったコップを見て理解した。
「ミアンナ様は、シズルが思いをぶちまけていた時に激しく動揺してコップを落としたんだ」
 柔らかな素肌が離れ、静流は息苦しさからようやく解放された。
 ミアンナは泣きながら笑っていた。もしくは、笑いながら泣いていた。
「私、シズルがそこまで思い詰めているなんて知りませんでした。だからいつも勝手なことを言って、帰ってきてほしいだなんて思ってしまって。自分が情けなく思えたんです。でもやっぱり、こうして帰ってきてくれると。私はとーっても嬉しいんです」
 カミツナギがミアンナを茶化すように小言を言うのと同時に、心の中の相棒が声をかけてきた。
(相棒、お前が生きて帰ってきたのは正解だったに違いない)
(どうしてそう思うんだ。正解なんていつだって分からないだろ)
(サラが生きて帰っても、涙を流して喜んでくれる人がいなかった。サラはそれを知っていたから、自分から死を選んだんだよ……)
 カミツナギの小言に反論するミアンナ。再会を喜んだ舌の根も乾かぬ内に、いつもの日常風景が広がっていた。
 それに加えて、天井から双子が降ってきた。二人は地面に着地すると、静流の身体にそれぞれ左右から飛びついた。
「お前ら離れろ、倒れちまうだろ」
 ケビンは静流の左半身を。
「僕が間違ってたよアイラ。本当に静流は戻ってきちゃった!」
 アイラは静流の右半身を。
「私の言った通りでしょ! 静流が負けるはずないんだもの。これはね、決まっていたことなんだから!」
 アイラとケビンは静流に甘えるように顔をくっつけあっている。ミアンナが離れたと思ったらすぐ次の刺客が送られてきて息をつく暇もない。
(でも悪い気はしねぇだろ、相棒)
 どこかに悔しい思いがあるが、彼の言う通りだった。
 サラは、この温かさを失ったのだ。静流が失ったのは右足だけ。義足さえあれば、すぐに取り戻すことができる。彼女が革命を託す理由がようやく静流にも理解できる。
 もう彼女は聞いていないだろう。それでも静流は、心の中で約束した。どんな結果になろうとも、やれるだけの事はやってみせると。お前が成し遂げられなかったことを、挫けてしまったことを達成させると。
 静流の心の中で消えるはずだった燈火(ともしび)が、再び明るくなっていく。ミアンナや、他の仲間達を守りたい。静流の胸の内にある想いを見届けた相棒は、誰にも見えない微笑をこぼすのだった。

 一人、部屋に取り残されたサラは無感情なまま天井を見上げていた。死んでしまったのだから首は動かせない。
 これで良かったんだ。彼女は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。先ほどまで静流と二人で激論を交わしていた室内は、今は静寂だ。薪が火で弾ける音だけが響く、寂しい空間だった。まがい物の玲香も、もう声を上げることはない。
 生きる者を見送った後、死者は一人で旅に出る。何日も。
 アラン、ドラコ、レーダ、シュン、アゾータ。彼らも孤独だったに違いない。仲間ができても、死んでしまえばそれまでなのだから。
「静流、私はお前に謝りたい。確かに私は、責任をお前に押し付けてしまった。自分が始めたことを、赤の他人であるお前に全て丸投げして一人だけ楽になろうとしている。許してくれなくてもいい。でも分かってくれ。私は戦う前から、既に死んでいたことを。分かってくれ」
 革命に失敗した戦士たちに、安らぎと幸福は訪れない。
 サラはバスティーユ牢獄に入る前、家を持たない路上暮らしの子供だった。貧乏だった家庭で双子として生まれ、金を得るためだけに体を売られた。最初から、両親からの愛情は全て偽物だったのだ。
 ティアという名前の妹が先に売られた。最初は売られたと知らなかったから、サラは助けようがなかった。
 偶然両親の話を耳にしたサラは、その夜に家を飛び出した。隣町の、更に隣町まで逃げた。十二歳だった彼女にとって、路上暮らしは過酷だった。その日からゴミ箱を漁って、まだ食べられる魚の頭を食べたり、雑草を食べて飢えを凌いだ。
 いつものようにゴミ箱を漁っていると、パンをくれた優しい老母と出会う。老母は戦争で息子を失ってから、子供に優しくしているのだと語った。サラは老母に懇願した。家に住まわせてくれないか、そう言って。老母は悩む暇なく、最初からそのつもりだったと言う。サラに、初めての家族ができた瞬間だった。
 だが暫くして老母は病に倒れ伏す。サラは薬を調達するために城の中へ入り、何人かの兵士を殺めて薬を得るも、老母の病気に効果がなかった。やがて闖入者(ちんにゅうしゃ)が出たと騒ぎになり、城の兵士たちが調査に乗り出す。
 もし自分が盗んだと言えば、老母の命も危ういかもしれない。そう思ったサラは町を出ようと老母に提案するも、既に動ける体ではなかった。
 薬が違うと思ったサラは、もう一度城に侵入した。だが以前と違う警備体制を前にサラは呆気なく捕らえられ、老母のその後を知ることもなく牢獄に放り込まれた。
「死んでからも、走馬灯って見るものなのだな」
 不思議と、恐怖心はなかった。ただ孤独で、寂しいだけ。この後は七界に送られて魂ごと食われるか、異形の物の奴隷となるか。そのどれかになるだろう。親切な旧人や、他の世界の住民と幸せに暮らせるなんて夢は、最初から見ていない。
 とても見られない。それが叶わなかった時、とても恐ろしいだろうから。
 サラは覚悟ができていたから、迷いはなかった。自分の運命を、時の流れに任せることに決めた。
 足音が近づいてくる。きっと七界に連れていく使者だろう。それか、もう誰かが買ったのだろうか。サラは視界の片隅に映った影が、醜い何かであることを願った。
「サラ、サラ」
 彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。知っている。サラは、彼女のことを知っている。
「でも、そんな……はずは」
「サラ。迎えに来たよ」
 体の底から叫ぶように、掠れてでも、目の前にうつる人影に届くように。サラは溢れ出す涙を止められずに、こう言った。
「おばあ、ちゃん……?」
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