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文字数 5,211文字

 白い光が小さくなり、人間としての感覚を取り戻していく。
 波の音が聞こえた。海水が何かに打ち付けられてはねる音だ。次に磯の香りがした。間違いなく、ここは海の上だった。
 今までと同じように、円形のステージだ。木でできた船で、周りはどこを見渡しても海の地平線。まっさらな青空と、王のように佇む太陽。観客は、帆の上に乗っていた。もしくは、他の船から見ていた。
 海上だというのに、不思議と揺れは感じなかった。カモメの声が聞こえてきた。つくづく、ここは地球だと錯覚しそうになる。テレポートさせられる先は一体どこの世界なのかまだミアンナから教わってはいない。説明もないということは、知っても知らなくてもいいと了解を示している。
 ただ一つ聞かされているのは、毎度舞台は異なるということだけだ。似たようなステージは幾つもあるが、同じステージにあがることは二度とないのだという。
「あれ? 龍ちゃん?!」
 この舞台にいて、人間の声が聞こえてきたということは、今回の敵対者はこの声の主だということになる。彼は、静流の真正面に立っていた。
 彼のことをよく知っていた。知り過ぎているくらいだった。
 生まれも育ちもイタリアで、二十八歳で戦死。レオナルド・ワトゥレーというのが生涯つけられた名前で、怖いもの知らずの殺し屋だ。静流が六龍と呼ばれているならば、彼は獅鬼(しき)と畏れられていた。
 彼の殺しに一切、銃火器は使われない。依頼人は銃の用意をする必要はないのだ。
「死んでも呼び方は変わらないもんなんだな。レオナルド」
 銃を持たないながら、銃弾の嵐を駆け抜けてなぎ倒していく様に獅鬼と名付けられたのだ。
 様々な達人がいる世界で、レオナルドはジークンドーの達人だった。ただ彼は、型に嵌るのは嫌いだといつも口にしている。空手や柔道、ブラジリアン柔術も試したが、どれも退屈だと彼は投げ捨てたのだ。最終的に落ち着いたのがジークンドーのコンセプト派だった。無形武術に惹かれたのだ。
「龍ちゃんがここにいるってことは、なんだよ、死んじまったのか。引退生活は合わなかったのかよお」
 レオナルドは仕事着を着ていた。茶色い毛皮のジャケットに、黒いワイシャツ。ベルトで固定されている黒いジーンズに、白い手袋をつけている。手の甲にある鎌の烙印まで、生きている頃のまますっかり残っていた。
 黒い髪をオールバックにしていて、年齢よりも高く見えるような顔つきだが、皴一つない顔だ。彼は毎日のようにバーでジョーカーという銘柄の葉巻を吸い、葡萄酒を嗜んでいた。仕事終わりはその後に娼婦の町に出掛け、優雅でジャジーなワンナイトを過ごす男だ。
「語れば長くなるし、語れるほど上手じゃない」
「可哀想に。ミサキを、置いてきたのかい。一人で」
「――ああ。死んだのは俺だけだ」
 波が打つ音が聞こえた。レオナルドは、どこからか葉巻を取り出して、マッチで火をつけた。
 甘ったるい香りが、磯の香りと混ざって静流の中に入り込んだ。
 彼とは長い付き合いだった。同業者なのだから、当然よく知れた仲だ。
 静流と違うことと言えば、彼はフリーランスの殺し屋だった。静流はマフィアの傘下だ。だから、時に二人は敵対しあうこともあれば、協力しあう事もあった。ただ、どんな夜でも「グラベラス・バー」での乾杯は欠かさなかった。彼の吸う葉巻の香りが、静かな記憶を呼び起こしていた。
「どうだった。ミサキは幸せな生活を送れたか?」
「俺が人生で、たった一人だけ愛した女だ。尽くしたさ、そりゃ」
「そうかい。長い間じゃなかったけど、ミサキも龍ちゃんと一緒にいられて嬉しかったはずだ。俺は、互いが互いを求めている、そう見えたからなあ」
「女一人残して、死んじまった自分が情けない」
 諦めを含んだ静流の苦笑に、レオナルドはこう答えた。
「ミサキを守って、死んだのか」
「そうなるな」
「なら、愛する女を守って死んだ男ってことだ。誇れよ。女ってのは過去の男は引きずらないんだぜ。俺が言ってるんだ間違いねえ!」
 これから戦うというのが、嘘のようだった。これからバーにいって、もしくは今は既にバーにいて、グラスが軽快な音を立てて鳴るような気さえした。
 一際大きな波が打ち寄せてきて、隙間のない木の柵を飛び越えて入ってきた。
「俺はこれでニ十試合はやってるんだが、龍ちゃんと当たってよかったと思ってるぜ。だって、久々に本気でぶつかり合えるんだからな!」
「今までは本気じゃなかったのか」
「考えてもみろよ。倒す必要もない相手、友達でもなんでもない相手に本気なんて出してらんねーぜ。龍ちゃんだってそうだったろ」
 一つ前の試合、相棒が出てくるまで追い詰められたことは、あえて話題に触れないでおくことにした。
「龍ちゃんだったら本気でやってもいい。今までも何回か戦って、本気でぶつかり合うことが最高に楽しかったんだからな。だから龍ちゃん、手加減はなしだぜ」
「はなから手加減するつもりもねえよ。新しい主に失礼だろ」
「いつもの龍ちゃん節が出てきたな! 自分の主には忠実な男。うんうん、いかにも殺し屋って感じがするねえ!」
 レオナルドは仕事中も、いつだって口数の多い男だ。
 プロの殺し屋として名を馳せる彼だが、仕事の目的は快楽のためではない。純粋な強さのためだと、いつだったか星空の下で教えてくれた。彼が奪われたのは、他でもない、町だった。町が襲われて崩壊していく様を、見ていることしかできなかった。
 家族は無事だったが、何人かの友人を失った。友人たちは皆強かった。町一番と恐れられていた暴君でさえ、テロリストを相手に手も足も出なかった。
 生きてこられたのは、ひどく臆病だったからだと言う。
「さて、そろそろ始めるか。龍ちゃんと酒を飲みながら語るのもいいが、やっぱ、漢なら拳だよな」
「いつでもいいぜ」
 旧友に会えたことの嬉しさを、静流はひた隠しにしていた。
 膝を軽く曲げたレオナルドは、右手と右足を前に出して口角を吊り上げた。
 型に嵌るのが嫌いだと豪語する彼は、ブルース・リーの熱狂的なファンだ。子供の頃に見た「燃えよドラゴン」に格闘技を育てられたといっても過言ではない。ボクシングを例にとると、利き手は後ろに引かれているものだが、レオナルドは前に出すのだ。
 構えをみたホグウは瞬時に、相手のスタイルを理解した。カモミールティーを嗜み、いつもの席に座るミアンナの肩を叩き、細い目を開いてモニターに注目していた。
「これは……ほう。ミアンナ様、実に興味深い相手が出てきました」
「え、そうなのですか?」
「はい。どうやらお二人はお知り合いだったようですが、そのはずです。シズルのご友人は、大きな可能性を秘めている人物です。あの両手、両足の位置。攻撃を防ぐだけではありません。利き手を前にすることによるメリットは、ははあ、勉強させられます」
「まだ勝負は始まっていないのですが」
 興味津々で画面に食いつくホグウに疑問符を浮かべた顔を向けたミアンナは、彼の中に潜む情熱が語りだすのを待った。
「レオナルドの織り成すジークンドーは、どうやら手数の多さです。利き手、効き脚を前に出すことによって、相手の行動を阻止する速度を速めます。この行動に大きな力は必要ないのです。ここまでは、分かりますね」
「ええ。素人ながら、なんとか」
「ご友人の狙いは、シズルの攻撃を防ぐだけでなく、そのまま攻撃に移行することでしょう。試合を見ていてください、おそらく私が見てきた中で、最も白熱する戦いになることは間違いないでしょう」
「――意外とホグウって、オタク気質なところありますよね」
 静流は虎の型を作り、レオナルドと向かい合った。互いに息を整える。
 緊張の電撃が走る。交わる視線の中で、譲歩の気がないことを確かめ合うと、静流とレオナルド、同時に右の拳を突き出した。
「ミアンナ様、ここです、見てください!」
 静流の攻撃はそのまま横に流され、レオナルドの拳は一撃を頬に与えた。
 右腕を巻くように戻した静流は、流れるような連撃――レオナルドの左裏拳をバックステップで回避した。
「ホグウ、今は何があったのですか。シズルの手はしっかり彼の顔面に進んでいました、それなのに、なぜシズルだけダメージを受けるのです」
「見るべきは拳ではなく、肘です。シズルは拳を突き出す時、肘は外側に向いていた。それに対し、彼の肘は下に向いていたのです。腕の力を使ってシズルの拳を逸らし、自分の攻撃だけ通す。お見事だ……」
 間合いを攻めたのはレオナルドだった。静流の左手首を右足で蹴り、浮いたその手を左手で掴みながら手前に引き、体勢を下げ、ボディに肘打ち。静流は即座に体勢を立て直し、離された左手を手刀の形に変えた。レオナルドは体勢を元に戻した時の勢いを使って、下から上へ手を振り上げた。二人の拳はぶつかり、即座に攻撃に転じたのは静流だった。構えを崩さなかった右腕を伸ばし、空いた胸元に拳を叩きこむ。
 衝撃で後ろ向きに力がかかるレオナルドは、追撃を殺した。顎に伸びる静流の右腕を足で弾き、同時に左手に蹴りを入れ、静流の両腕は大きく外側に開かれた。その途端、レオナルドは片脚を振り上げて飛び、足刀を横に振り回した。
 耳の真横で手を交差させた静流は辛くも回避し、足を押し退け、回し中段蹴りで反撃しようと足を動かした直後に、空いたレオナルドの脚がその足を制するように打撃を与え、両足が宙にある彼は地面に受け身を取り、側転し、立ち上がった。
 静流は追いかけるように上段蹴りを放ち、レオナルドは頭を後ろに逸らして回避する。静流は勢いを殺さず、前に歩み出てもう片方の脚で回し蹴りを放つが、その足は裏拳で返され、空で遊ぶ。
 すぐに虎の型に戻した静流は、目の前に迫る正拳に頭突きを食らわした。次に飛びかかる右上段蹴りを左手で薙ぎ、一歩前に出てレオナルドの懐に入り込むと、右肘を上向きにして腰を下げた。次に迫る攻撃を防御するため、彼は顔の下で手の盾を作る。だが静流は腹に肘を当て、当てたまま彼を押し、左手で防御の片手を掴み、バランスを崩してから足を刈った。腕全体で彼を押すように力をかけると、簡単に躯体は倒れた。
 受け身ですぐに立ち上がったレオナルドの顔面に迫っていたのは踵だった。静流は片脚だけ伸ばして前転していたのだ。顎に一撃を食らわせられたレオナルドは片膝をついた。
 目の前に陰ができ、再び迫るのは拳だ。眉間に正拳を食らい、レオナルドは仰向けに倒れた。
 静流は彼の上で跨り、トドメを刺すべく掌底を見せた。目を瞑っている、今がチャンスだ。
 上から下へ、息を大きく吐きながら手を下ろした。
 トドメの手は、しかし、届かなかった。当たる寸前で、レオナルドはその手を、手で弾いたのだ。
 静流は何度も手を振り下ろす、振り下ろす度に拳同士が叫ぶような音が聞こえる。レオナルドは、全ての攻撃を防いでいるのだ。それも、片手で。
 二十度目の攻撃の時に、静流の手は止まった。防戦一方だった腕が、攻撃に転じたのだ。肘が捕まれ、静流は前のめりに引っ張られた。意図しない力の働きに従うしかない静流は前に倒れた。その時、レオナルドは両腕を素早く手前で構え、静流の右肩に一発、ボディに一発、左腕の関節に一発、胸に一発、全ての攻撃を一秒以内に終え、彼が完全に倒れる前にレオナルドは横に転がって下敷きを避けた。
「やるなあ、龍ちゃん。引退したから鈍ってるかと思えば、なんやら前より強くなってるような気さえするわ」
 心臓と肝臓、同時にダメージを受けた静流は息をするのがやっとであり、起き上がると息を整えながら拳を向けた。
「お前もな」
「なんだよ。褒めてくれなんて頼んでないぜ。それとも、オーダーメイドでオマケを付けてくれたのか?」
「死んだら変わると思ってたんだが、お前のよく分からん洒落は健在だな。むしろ安心した」
「洒落を売るのが趣味なもんでね! お前は良い取引相手だったぜ。物の良しあしを明確に言ってくれるからな。さて、続きだ続き。ヒュゥ! 楽しいぜ!」
 リズムを取るように前後に揺れるレオナルドは、前に出るや否や、左右に大きく揺れ、右腕を上げた。そのまま静流は顔の前で防御を取ったが、拳が直線の攻撃をする寸前で足に痛みを覚えた。狙いがフェイントだと気付き、静流は一歩引いた。
 次に繰り出されたのは右回し上段蹴りで、一歩引いた静流に更に足の突きが迫った。肩を前に出してガードを固めた静流の腕と肩に三連打の蹴りが与えられ、反撃で伸ばした静流の腕は肘で弾かれ、そのまま彼の顎にレオナルドの掌底が当たった。両手を前に構えた静流の両方の関節を、レオナルドは片脚で退かすように当て、静流の胸に高速の徒手による連撃が与えられた。
 レオナルドの手を掴もうとした静流の手は、むしろ掴まれてしまい、手前に引かれて足刀が頬に激突した。
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