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文字数 8,248文字

 沈鬱とした、無力感に苛まれながらフェンは帰路を歩いていた。彼女の家はカッヘルバフの中にある一戸建ての広々とした家だ。今は紫色の空の下を歩いている。ここがどこで、どういう名前なのかは教わっていない。紫色の空だから、ヴァイオレットロードと名付けられるだろうか。
 無力感は、静流に敗北したことが原因ではなかった。突然彼の家に入り込んできた、家荒らしのような男達に静流の親友を連れて行かれた時、部屋の中で縮こまっていることしかできなかったことこそ、悔しさたる最もの原因だった。一番最初に静流の家に運ばれた時に、ホグウは初対面のフェンでも手厚く保護して、作ってくれた卵巻きは、味に馴染みが無かったが甘かった。焼かれた卵に、チキンライスの詰まった円形の食べ物だった。名前すら分からない料理だった。
 荒らし達は双子とフェンのいた静流の部屋にまで入ってきて、備蓄されていた酒と壁に掛けられていた日本刀までもっていった。あの刀は、静流が大事そうにいつも持ち歩いていたものだ。
 壁から刀が無くなっていると気付いた時、彼は憤りに顔を歪めて、壁を何度も拳で殴った。手が赤くなってもやめず、小さな血の染みが壁にこびりついた。そうしてただ一言、フェンに「帰ってくれ」と告げた。途端に怖くなったフェンは、アイラに見送られて家を出ることになるのだ。
 家を出る時、アイラは悲しそうにしていた。涙の筋と、赤くなった目でフェンに手を振っていた。
 ミアンナはどこにもいなかった。
 他人の家だというのに、フェンは拳を握り締めて今の悔しさという感情に対抗しようとした。皮膚に爪が食い込んで、痛みが彼女の理性を呼び起こした。ただでさえ、自分の命さえ危ういこの世界で他人に気を使っていられるほど余裕はないのだ。
 この一件を忘れようとした。三歩歩いたら忘れられるかと思って、一歩目は今日の夕食のことを考えた。二歩目は、明日の学校をサボろうと考えた。三歩目に、ディーグの名前が頭に浮かんだ。
 力無く笑って、立ち止まった。そうして静流から貰ったペットボトルに口をつけて、水を飲んだ。
 後ろを振り返ると、多くの時間歩いていたはずなのにまだ静流の家が見えた。不思議だと感じた。人差し指の爪と同じくらいの大きさだが。
 カッヘルバフの門が見えて、フェンは境界線を越えた。町が顕現して、少なくない人数の中、石の道を歩いた。帰り際に雑貨屋に寄り道して、無くしていたイヤーピースを買い、再び帰路についた。
 歩きながらイヤホンにイヤーピースを装着し、スマートフォンと接続し音楽を聴いた。流れているのは、デミ・ロヴァートのスカイスクレイパーだった。生きる力に希望を持てなくなった時や、自分を奮い立たせる時にフェンはよく聴いていた。女性ヴォーカルの力強い歌声と、何を失っても立ち上がろうとする歌の物語は、フェンに勇気を与える。
 音楽の持つ力というのは、いつの時期でも絶大だった。古来から音楽という要素が受け継がれてきたのには、そういった感情的な理由があるのだろう。
 何度か音楽をシャッフルして聞きながら、フェンは自分の家が近付くとイヤホンを耳から外した。
 二階建ての三角屋根で、煙突のついた家屋だ。木の柵に囲まれていて、芝生の庭は広い。木の根で作られたアーチ状の入り口から家にかけては、直線の石の道が作られている。家の前の石段を三段上る。家は円形の形をした原木のステージの上にあり、ここにも木の柵があるが、足で簡単に超えられる庭の柵と違ってフェンの胸の高さまで伸びていて、色も黄色の混ざった白色だ。
 鍵のかかっていない扉を開けて中に入ると左にガラスの靴箱があり、フェンはそこでスリッパに履き替えて廊下に上がる。五歩歩けばすぐ右側に半螺旋の階段があり、規則的に正方形の窓がある。普段ならフェンはすぐに二階の自室に向かうのだが、今日はそのまま廊下を直進して左側の壁にある書斎の扉をノックした。
 返事が無かったから、突き当りのリビングの部屋を開けると、ソファに座るミオラ・ウェルディの姿があった。
 彼はフェンの守吟神だ。白髪で、左に髪を靡かせて右側は目元まで伸ばしている。整った顔立ちで、人間の年齢で例えれば三十台といったところだ。黄色い紐を胸の前で結んだ黒いマントのようなものを羽織っていて、蘇芳色(すおうしょく)のシャツを着ている。
 ティーカップを口につけていた彼は、扉に顔を向けてからカップを置いた。
「おかえり。珍しいな、飯以外の時にここに来るとは」
 綻んだ笑みがミオラに浮かんでいた。彼の前の机を見れば開かれたままの本が置いてある。
「読書中だったんだ。じゃあ、また後で出直す」
「構わない。何か話したいことがあったんだろう」
 常々、フェンは不思議に思っていることがある。
 日常において、ミオラへの態度は自分でも褒められるものではなかった。純粋に彼のことが嫌いだから。食事を一緒に食べようと言われても断るし、買い物に出掛けるなんてもってのほかだ。こうして自分から話しかけたのも、初めてのように思う。
 だというのに、ミオラは彼女に対してまったく変わらぬ姿勢を取り続けるのだ。嫌われていると知りながら、今のように親身に話を聞こうとする。フェンは疑問だった。理由が分からなかった。
「ディーグって誰?」
「ああ、彼のことか。どこで聞いたのか知らないけど、気になるか」
 静流の家で起きた惨事をありのまま口にした。詳細を語りながら、フェンは段々と腹が立ってきた。ディーグという男の暴君加減は、度が過ぎている。苛立ちを交えながら語るフェンに、ミオラは相槌を打ちながら顎を手で包むようにして、前を向いていた。彼女が語り終えた時、ミオラの第一声はこうだった。
「ディーグとは深く関わっちゃいけない。この町の闇みたいなものなんだ。貢物を捧げるなら喜ばれるだろうが、逆は違う。彼のことを知ってどうするつもりか知らないが」
「あんまりだと思うよ。人の物勝手に盗っていって。ちょっと酷いんじゃないの?」
「地位が低い者は、ほぼ人権がないようなものなんだ。僕だって経験してきたさ。だが、ミアンナもいずれはその地位から這い上がる。シズル君は立派な戦士なんだろう」
「ミアンナさんだけじゃないよ。他の人たちも同じ被害受けてるなら、なんで野放しにしてるの?」
 構造が人間界のそれと似ていた。五界では、金のない物は虐げられる。法律は守ってくれない。法律とは、作った者達やそれを崇拝する高位なる人々のためのものであり、一般市民のものではないのだ。その証拠に、時に法律が敵になることさえある。
 三界ではいくら金があろうとも、身分が低ければ物を盗られても仕方ないのだろうか。
「まず勘違いすべきでないことがある。この格差で遊ばれているのは、ホリエナという国だけだ。他の国は安全で、平和に暮らしている。争いは全くない。だから三界を嫌いにはならないでほしいと思う」
 ミオラはもう一度顔をフェンに向けていた。
「ディーグがあの地位に着くまでは、この国も今のように荒れてはいなかった。正直、今は暗黒時代とも言えよう」
「全てはディーグのせいなんだよね。じゃあ潰せばいいじゃん」
「高い地位の物を失墜させるのは至難の業だ。審問官という大いなる職に加え、彼には……名前すら口に出してはならないほどの裏組織がある。審問官の座から引きずり下ろすだけなら、努力すれば可能だ。だが裏組織の存在が全ての国民の枷となっている。彼よりも偉い旧人は存在するが、その人物さえも裏組織のせいで動けずにいる。計算されていたんだ」
「じゃあ銃で頭を撃てばいいじゃん。簡単だよ」
「最も危険な行いだ。三界で人を殺せばどうなると思う。その者の魂は八界に送られ、二度と三界に戻っては来られない。永遠に」
 八界、聞き覚えのない階層だった。フェンはそのことを尋ねると、ミオラはこう答えた。
「言うなれば、魂の刑務所だ。人間という不完全な存在は人間を殺しても八界に送られることはない。だが、旧人という完全な生物において罪を犯せば、魂ごと閉じ込められる。脱獄は不可能。周囲からの干渉もできない。永遠と孤独であり、その空間には一切愛がない。考えてみてほしい。真っ暗で音もなく、狭い空間に永遠に閉じ込められる様を」
 初めてフェンは、怖いという感情が生まれた。五界にいた頃は、赤ん坊の時はおそらく恐怖で泣いていたのだろうが、物心がついてからは恐怖という感情は生まれなかった。人間は死を恐れるが、フェンはむしろ死を望んでいたからだ。電車にひかれようとも、戦車に押しつぶされても構わなかった。
「人間がさ、旧人を殺めたらどうなるの」
「人間は八界には送られない。七界で売られるのが関の山だが、それでも人間にとっては苦痛だろうし、そもそも人間で反旗を翻した人々を見たことがない。三界で人間の寿命は短いし、人間同士のコミュニティなんて裏組織に比べたら足元にも及ばない。守吟神も命を張ってでも反逆を止めるだろう」
 争うべき相手ではない。そう知れただけでも十分だろう。静流もまさか、いくら大事な物を盗られたからといって革命を起こすとは考えられない。
「でも、野放しにするなんて」
「気持ちは分かる。お前は優しい子だから。だが、いずれ時が解決する。彼が椅子から降りる時を待つしかない」
 旧人が旧人を殺してはならない、ということが明確になった。ディーグやその部下も、守吟神を痛めつけるだけで殺害はしないということだ。物も、試合に勝てば同じような武器も取り戻せるだろう。ミアンナの家はお金に困ってはなさそうだから、フェンは安堵した。
 気持ちが焦っていたことをおかしく感じた。
「色々分かった。ありがと」
「――そうだ、今日の晩御飯はどうする。美味しいのを作ってやりたいんだが」
「じゃあ、ハンバーグ」
「分かった。美味しいものを作ってやるからな、楽しみにしているといい。ああ後、腹はしっかり空かせておくといい」
 いつもはウザったいと感じる余計な一言は、今日は何も感じなかった。フェンは今までの態度を謝ろうかと思ったが、気恥ずかしくて何も言えずリビングを出た。
 きっと心ではミオラを嫌いではないのだろう。何かが突っかかって、嫌いと思いたいだけなのだろうか。フェンは階段を上りながら、彼を嫌いな理由を考えた。真っ先に出てきたのは、父親気取りの態度だ。今までの苛ついた時を思い起こして、またぞろ頭に血が上りかけたが、それ以上は考えないようにハンバーグの事で頭をいっぱいにした。

 クラシックな風貌の、二十人分の席しかない喫茶店。ガラス張り壁が隣にある木製の丸テーブルの前で、横に伸びた丸太の上にデチュラは座っていた。机の前には食べかけのフレンチトーストがあり、その横には白いコーヒーカップが置かれている。中身はモカ・コーヒーで、半分飲まれていた。
 指についたバターを柔らかな色をした舌で舐め、退屈そうに両手に顎を乗せて肘をついた。
 昔に比べ、暇になったものだ。いざホリエナで高い地位の一般市民になると昔のように楯突くマヌケ共は一切来なくなり、努力する価値も失った。毎日喫茶店に来て美味しいものを食べては、家に帰って映画を見ては寝る日々。紗季が戦いに駆り出される時もあるが、彼女に勝てる人間はほぼいないだろう。
 男は、いくら相手が強かろうが子供だとまともに手を出せない。女は、程よい手加減で試合としては成り立つが、紗季も自分が女だから同性の弱点はすぐに見抜く。上層部も段々と紗季の特別性に目を付け、試合にならないと判断して闘技場に出されること自体が稀になりつつあるのだ。
 特に思い起こす理由もなくガラスの外を見ても、名前も知らない人々が歩いているだけで代わり映えはしない。しいていうなら、右から左に歩く人間は野菜等が入った買い物袋を提げているが、左から右に歩く人間は荷物は少ないという変化があるだろうか。
 今日は市場があったはずだ。デチュラも見学にはいったが、大した商品は売っていなかった。フリルのついた可愛らしいドレスはあったが、サイズが大きく買うのは断念。ミアンナのために買っていこうとしたが、派手なドレスは着ないだろう。
 大きくあくびをした後、彼女は再びフレンチトーストを口に運んだ。
 彼女の退屈そうな目に、走ってくる紗季の姿が映った。楽しくて走っているというよりは、慌てているように感じる。好物の飴でも切れたのだろうか。紗季は一直線にデチュラに向かって走り、ガラス壁を手で破壊しながら喫茶店の中に入ってくると、焦ったような声で言った。
「大変だ、ホグウが誘拐された」
 激しい破裂音を鳴らして床に散らばったガラス壁は自動で元に戻っていった。デチュラは、紗季の言葉に唖然とした。
「どういうこと?」
「さっき、ディーグの集団に連れられて歩くホグウを見た。何かあったに違いねェ。こいつはぁ……やばいぜ」
「ミアンナが簡単にホグウを手放すって考えづらいわね。だとするなら。私のミアンナに、あいつらが手を出したってこと?」
「そういうことだ姉御。どうする」
 サングラスを指で上に押した紗季の額から、一筋の汗がこぼれ落ちた。
 ホグウの手料理はデチュラの一番の好物だった。好物を食べられなくなるということだ。問答無用でデチュラの怒りを買ったことは明白だ。その証拠に、彼女は手のひらを拳にして机に叩きつけた。机の上のカップと皿が小刻みに揺れた。
「分かったぜ、姉御。だがどうするんだ。この国の連中ときたら、誰一人としてディーグに立ち向かうやつはいないぜ。さすがにいくら姉御が強くても一人じゃきついだろうし」
「正面から潰すなんて考えてないわ。ジワジワと、毒を塗りたくって崩壊させる。まずはそうね、手始めに奴の家にネズミをばら撒いてやるわ。毎日。そうして精神的に追い詰めながら、寝てる時に大音量でヘヴィメタを流して睡眠不足にして、庭にミントを植えてやるのよ」
「姉御、やってることはしょっぱいのに恐ろしい奴だぜェ……。分かった。じゃあウチはミントと食用のネズミを買ってくればいいんだな」
「さすが紗季、話が分かるわね。ボスがいなくなれば組織も自然崩壊の道を辿るだろうし。やっぱりあたし、天才のそれよね」
「天才だぜまったく! じゃあウチは早速買い物に行ってくる。また後で!」
 デチュラが手を振ると、紗季はガラス壁を手で崩壊させて再び道を走っていった。デチュラの腹にたまっている苛立ちは、嫌がらせ程度で収まるものではなかったが、多少はマシになる。もし八界というものさえなければ、真っ先にディーグの頭をハンマーでかち割っていただろう。
 コーヒーを堪能していると、髭面の三十台くらい半ばの店主が頭を掻きながらこう言った。彼は灰色のエプロンをしていて、胸にケビン・ナゴと名前が刻まれている。
「おいデチュラ。あのガキはいつになったら普通に出入口から入って来れるようになるんだ」
「あら、いいじゃないケビン。このガラス、割れてもすっかり巻き戻しされるんだから」
「毎度毎度爆音がなって他のお客さんもビックリしてならねえんだよ。次割ったら出入り禁止だ。分かったか」
 ケビンを宥めるように分かったと告げたデチュラは、食事を終えて彼に代金を支払うと、店を出てミアンナの家に向かうことにした。泣き顔を拝めるならば、まずは嘲笑してやり、その後は優しく声をかけてやるのだ。ホグウを失った憤りはデチュラも感じているが、それ以上にミアンナは悲しいだろう。
 道を歩きながら彼女は、どうやってミアンナに声をかけるべきか悩んだ。頭の中でミアンナを思い描きながら、言葉を一つ一つ試して彼女の反応を妄想した。馬鹿だなと罵れば悔しそうに下を向くし、大丈夫かと優しく声をかければ、泣きながら抱き着いてくるのだ。
 ただ、ミアンナの家の玄関前についてからも結局は第一声の声は決まらなかった。大事なものを失った時、彼女はどんな顔をするのか想像できなかったからだ。
 玄関扉の前で強くノックした。
「ハロー、デチュラ様よ。開けなさい」
 返事はおろか、音さえ聞こえてこない。二階には窓があるというのに、誰も顔を出さない。家自体が死んでしまったかのように、息さえしていないように思えた。何度もノックして呼びかけているが、段々とデチュラは不気味に感じ始めた。
 五回目のノックの時、ようやく扉が開いた。顔を出したのは静流だった。彼はドアを半分開いて、取っ手に片腕を乗せながらけだるげに酒瓶を持っていた。
「なんだ、誰もいないかと思っちゃったわ――」
「帰ってくれ」
 デチュラが言い終わる前に、静流が冷たく言い放った。黒い海の底から吐き出したような、黒い声だった。
「何があったの?」
「知らなくていい」
「それはないわ。ミアンナは私の物だもの。ミアンナに何かあったなら、私が知っておくのは当然の権利よね?」
「なら、事実を告げてやる。お前のせいで、ホグウが連れていかれた」
 声に抑揚を漬けずに、今の言葉を出発地点として静流は一連の流れを案内した。ミアンナを襲おうとした強姦魔が殺された。それはディーグの部下であり、補填としてホグウが連れて行かれた。
 話を聞いていくにつれて、デチュラの心の支柱が崩れ始めた。
「全部、あたしのせいだっていうの? ねえ」
「そうだ。お前が感情的にならずに、部下を殺してなければこうはならなかった」
「殺してないわ。ちょっと使い物にならなくしただけよ」
「部下を亡くしたって言ってた」
「奴は簡単に嘘を付くのよ。人の物を奪うためならね。だから、私のせいじゃ」
 痛めつけたのはミアンナを助けるためだった。手と足を折って、再起不能にまで叩きのめした。その中に感情が含まれていたことは認める。
「だけど、ミアンナを助けるためにやったのよ」
「その結果、どうだ。ミアンナは部屋に閉じこもって出てこなくなった。ホグウを奪われたんだ」
「結果論でしょ! こうなるって知らなかった。それに悪いのはあたし? 発端は私かもしれないけど、悪人はディーグでしょうが!」
 自分の過ちを認められず、デチュラは喚くように言葉を吐き捨てる。何度も地面を足で踏み、必要のない怒りを静流にぶつける。彼がディーグのように錯覚する。
「――帰れ。ミアンナは顔を出さないし、俺も疲れた」
「待ってよ。あたしが悪いの?」
 無秩序に扉が閉まった。デチュラは何度も扉を両手の拳で叩いた。
「あたしは悪くない! ミアンナを助けただけよ。誰も助けようとしなかったから! 周りの奴らは皆見て見ぬふりよ? だから助けたのに、どうしてあたしが悪い奴扱いされないといけないわけ?! あんたさ、もう周りの奴ら全員が憎いんでしょ。憎まないと感情の矛先が見えないから、無鉄砲に私が悪いって決めつけてるだけなんでしょ」
 向こう側に静流がいてもいなくても、デチュラは言葉を続けた。
「あたしはミアンナを傷つけてない! あたしは悪くない!」
 手が痛くなってきて、デチュラは扉から離した。そうして家に背中を向けて、道を走り出した。
 理解したくないのに、頭が勝手に静流の言葉を飲み込んでいた。発端は自分にある。あの時、男を見過ごせばホグウが連れ去られなかった。際限のない後悔の念が、津波のように押し寄せてくる。だからデチュラは叫びながら、誰もいない一方通行の道を走り続けた。
 走っていると、途中で疲れて、そのまま前のめりになって倒れてしまった。息が切れて、もう歩けない。仰向けになって、雲った空を見上げる。その彼女の手を、誰かが握った。
 紗季だった。小さな手だ。軽々しい鞄を見るに、買い物は終えられなかったようだ。それもそうだろう。彼女は財布を家に置いてきてしまって、家の鍵はデチュラが持っているのだから。
 彼女はどんな応酬があったのか知らなかった。それでいて、両手でデチュラの手をしっかりと掴んでいた。
「大丈夫だ、姉御。ウチがついてる。ウチだけは、何があってもずっと姉御の味方だから」
 声を押し殺して、デチュラはついに泣き出した。紗季は両手でデチュラを抱き寄せた。
 肩が震えるのが分かる。口を閉じようとしても、自然と開かれる。涙を抑えようとしても、止まらない。悲しみの歌がずっと響いている。紗季はその歌の楽器を一つずつ取り除くように、大丈夫だと何度も口に出した。歌が鳴り止むまで、紗季はずっとデチュラの側にいた。
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