文字数 5,484文字

 時計の長針が刻むのは過去の音で、短針が刻むのは未来の音だ。では秒針が刻むのは現在の音かと言えば、違う。秒針は生を刻んでいる。現在(いま)を刻んでいるのは人間自身なのだ。一人一人の人生で、現在は進んでいく。生きてこそ。
 あの日の夜、ミアンナが帰ってきた時はいたる所に傷がつき、服は破けていた。どんな扱いをされたのかホグウが尋ねても、彼女ははぐらかすばかりで喋ろうとはしない。
 日常を壊された失望感と、主を守れなかった悔しさ。様々な人間らしい感情が融合して発現した怒りは、静流の闘志に灯を宿した。
 復讐心だけで生きた人間は、三途の川に花は咲いていない。荒れて、脚を踏み入れれば奈落の底に落とされるような酷い川だ。人を苦しめた分だけ自分も苦しむ、それが復讐者としての、世界が創り上げた掟だ。罪を憎んで人を憎まず。右をぶたれたら左も差し出せ。この世には、平和を謳う様々な文句がある。掟は破るなというのが、神の言わんとしていることだろう。
 ――それがどうしたというのか。
 目の前で主人が連れて行かれ、友を滅多打ちにされ。掟の意味を見出すことが、どうしてできようか。静流の中に潜んでいるのは、紛れもない復讐心だった。
「俺は、平和に事を終わらせるつもりはない」
 頭から右目にかけて包帯をまき、ベッドに座るホグウに静流は言った。
「会ってから一ヶ月も経ってないお前らだが、二人とも俺に尽くしてくれていた。そんな奴らが酷い目に合って、黙ってられるほど俺は腐っちゃいない」
「よくないですよ、静流」
 覇気の失われた声で、ホグウが制した。
「復讐なんて、私は望んでいません。こうして生きていられるだけでも、私にとっては幸せなことですから」
「そうやって自分ごまかして逃げるのか。七界の怖さはお前がよく知ってるんだろ」
「知ってますよ。そして、ディーグさんの怖さも。あの人は旧人の中でも、コミュニティを形成しているんです。その組織の規模といったら、到底……。敵いませんよ」
「相手が百人いようが千人いようが、ボスは一人だ。あのディーグってやつがボスなんだろ」
 力なさげにホグウは頷いた。顔を動かした時、痛みを感じたのか顔が引きつっていた。
「喧嘩を売れば間違いなく静流は負ける。そんな死地に送り込むことを、私はしたくありません。友として」
「あのディーグってやつは、ミアンナにだけあんな態度をとるのか。それとも、他の奴らにも?」
「ええ。ミアンナ様のように、地位の低い旧人には容赦……ないですから。市民税と称して、なんでもかんでも家の物を持っていったり、人の執事やメイドを奪ったり。でも、誰も逆らえないんです。強いから……」
 少ないながら、現世にも同種の人間はいる。弱い地位から物や金を奪い取り、理不尽を与える者共が。大体の場合組織化されていて、弱者は抗えない。抗う術さえ奪われているからだ。
 静流は、奪い取る側の組織に属していた。生前だ。
 弱肉強食は当たり前だと思っていた。強い者が統治することに、静流は疑問を抱かなかった。自然の摂理だったからだ。ライオンはシマウマを食べるのと同じように、魚がプランクトンを食べるのと同じように。だが、ある時ふと、静流は自分の世界の間違いに気付いた。
 力と金だけでは、名誉を得ても豚に真珠。真の意味での秩序は訪れない。
「強いから逃げるのか」
「皆だって悔しいんです。でも、七界にいくよりは、今のままでいた方が数倍もマシって皆知ってるんですよ。五界の住民……人間はまだよかった。死んだら、どこにいくか分からないんだから。でも私達は違う。シズルだって……戦って死んだら、より苦しい世界にいくだけなんです。怖いんですよ……!」
 優雅に紅茶やコーヒーを淹れるようなホグウが、今は別人のように虚ろな目をしている。堪えきれない感情も表に出ていた。
「いつか変わるかもしれない。ディーグが寿命でいなくなるか、病気でいなくなるか。私達は皆そのように期待しているのですよ。誰があの暴君を止められます? シズルでも無理です。彼は、強いだけじゃない。知能もあるのですから」
「酷い問い詰め方をして悪かったな。ありがとう、お前の本音が聞けたよ」
 椅子から立ち上がり、静流は窓枠に腰かけた。ここはホグウの部屋だ。
 オールドファッションといった言い方がよく似合う部屋で、ブルーのカーペットが部屋の中央に敷かれていて、長方形の本棚が壁の間に挟まっている。姿見が壁に立てかけられていて、ベッドを向いている。
 床を足で踏むと、木製の音が鳴る。
「俺は誰も巻き込まない。俺一人で、ディーグを倒す」
「シズル、私は本気で」
「久々にキレたんだ」
 窓の外は今日も薄暗い。太陽もなければ月もない、殺風景な景色だった。平坦な道に、木が不規則に立っているだけだった。
「俺は生きてる頃も見せかけの正義感だけに動かされなかった。今もだ。俺の中にある復讐心は、大事に育ててやらなくちゃならないんだよ」
「無謀ですよ。相手は選ぶべきです」
「何年、この世界で生きてきてると思ってる」
 死んだら元も子もない。ミアンナは悲しみに暮れるだろうし、更にディーグは支配を進めるだろう。今後静流のような反逆者に似た真似事をさせないために、過激になる可能性もある。様々なリスクが伴っていた。ホグウの言う通り、無謀なのだろう。
 一つだけ確実なことが言える。時計は永遠という時間を刻まない。宇宙は無限に伸びていくと思われるが、いずれは尽きる。膨大な時間をかけて、滅んでいく。宇宙ですらそうなのだ。ディーグという旧人がいかに尊厳のある人物であろうが、永遠という概念が存在しない限り終焉を与えることができる。一パーセントの、粉々に散ったガラスの破片のような可能性でも。一パーセントもないのだろう。
 人間という生命が、古代に生まれた時と同じ奇跡が起こらない限り。
「シズル、一つだけ約束してください。絶対に破ってはならない約束です」
 ホグウは力強く言った。静流は黙っていた。
「負けた時は自分のために死に、勝った時は自分のために誇ってください。シズルがどれだけ頑固か、ようやく分かりました」
「だからもう引き留めないんだな」
「そうです。少し嬉しくもあります。シズルが、私とミアンナのために動いてくれることが。私は弱いから、何もできません。シズルの言う通り逃げてきました。だけど、新しい英雄が誕生するなら、止める権利は私にはないのです」
「勝てば英雄、負ければ狂人。だが、俺に英雄なんて言葉は似合わねェ。俺が勝つ時までに、良い称号、考えといてくれよ。負けた時は狂人のまんまでいい」
 その言葉がどこまでも静流に似合っていて、微笑を浮かべたホグウは「仰せのままに」とだけ告げて、目を瞑った。
 ベッドの横にあった机の上からウォッカの入った酒瓶を取り、静流は扉に向かって歩き始めた。ホグウはゆっくりと呼吸していて、胸のあたりの服がかすかに動いている。
 カラエナからの餞別、日本刀の白梅雨は鞘に収まっているが、歩く度に揺れるせいで時折物にぶつかる。今も、扉付近の冷蔵庫に当たって音が鳴った。刀を持ち歩くことに慣れるまで、多少時間がかかりそうだ。
 大それた目標ができてしまったと、静流は自覚していた。ディーグがボスの組織がどれほど大きいのかはイメージをする段階でもなく、計画が立ったわけでもない。まずは情報を集める必要があるだろう。ミアンナに聞けば分かるだろうが。
 情報網として彼女を使うことは憚られた。一人でディーグを打ち倒すと言えば、彼女は真っ先に止めてくるだろうことが分かるのだ。せっかくできた駒を簡単に手放すのは、主人として最も愚かな選択肢なのだから、戦いに投じることを止めるのは自然だ。
 これから先の未来図を頭に思い浮かべながら、静流はミアンナの部屋に向かっていた。改築したばかりの彼女の部屋だ。ホグウの部屋の真反対側にある廊下を渡れば彼女の部屋となり、静流は軽くノックした。
「いますよ」
 どんよりとした曇り空の下で立つ少女。ミアンナの声には、そういう物語を感じた。
「調子は良くなったかって、そんなわけないよな」
「シズル。入ってきてください」
 扉を開けて、静流は中に入った。壁にかけられている絵画には変わらず、幻想的な絵画が描かれていた。元気そうに魚も泳いでいるし、部屋は綺麗だった。
 大きなベッドの上で、ミアンナは寝転んでいた。枕に頭を乗せて、静流とは反対側に身体を向けていた。
「こっちに来てください」
 扉を閉め、静流は言われた通りに枕の横に、片脚を立てて座った。
 ミアンナは身体の向きを変え、静流の腰に顔を埋めた。
「悪い、守れなくて」
 まだ体中が痛む。戦いの傷跡が引きずっている。心臓を突き刺されたのに治してくれたのは、どんな技術力だろうと考えを巡らせもしたが。
 壊れかけた心臓は元に戻せるのに、ミアンナに突き刺さった黒い棘は抜けないというのだ。
 鼻を啜って、ミアンナは声を殺して泣き出した。静流の体温を感じているからだろう、優しさの含む暖かさに触れているからだろう。静流は片膝の上に手を置いて、真正面を見ていた。
 変える必要があった。強者が弱者を貪る世界を。
 ミアンナはまだ嗚咽を漏らして泣いていた。
 いつまでも泣いていい。曇った目で見上げる夜空より、涙で濡れた綺麗な目で夜空を見上げた方が、幾分も綺麗なのだから。
「シズル、私は。悲しいから、泣いているのではありません」
「ああ」
「悲しいって思うために、泣いているんです」
 人間は度を越した辛さを味わった時に、涙を流す。だが、涙が流れることでようやく悲しいって気付く人間もいるのだ。辛いことに耐えて耐えて。そして生きて。
「泣けよ。お前が悲しんだ分だけ」
 とめどなく溢れる涙を、ミアンナは何度も拭った。肩を震わせて、静かに泣いていた。
 外では雨が降り始めた。ひたひたと、雨音がそれぞれの音を奏で始めた。ピアノのように、優しい音色だった。

 通り雨だったようだ。雨はすぐに止み、窓には雫が滴っていた。
 ミアンナは目を腕で拭ってゆっくりと起き上がり、頭を押さえて横に振ってからベッドから立ち上がり、部屋の奥、窓の近くにある木の机から一枚の紙を取り出し、静流に差し出した。
 泣き止んだと思えば、突拍子もない行動をしてくる彼女に、静流は呆れ顔を見せながらこう言った。
「もう元気になったのか」
「いえ。思い出したんです。静流にこれ、教えてあげないとって思って」
 差し出されたのはカードキーのような物が付着した、羊皮紙のような紙だった。大文字で「生徒募集中」と見出しがついている。
「君立(くんりつ)アズライト学園の募集紙です。紙を見てくれれば分かりますが、ここは戦士となった人間を集い、より良い戦いにするための指導が行われる学校なのです。シズル、行きたいかと思って」
「わざわざこれを言うために泣き止んだのか。器用だな」
「さすがにずっと泣いていられませんよ。自然に泣き止んで、思い出しただけです。はぁ、頭が痛いです」
「泣きすぎだ」
 短いやり取りの間で、静流は考えを巡らせた。普通に考えれば、学校は行く理由がない。強弱関係なく、学校に通うより家で練習していることが有意義だからだ。次の試合までに白梅雨の扱いも整えておければ、尚良いのだから。だから最初、静流は「行かない」と答えるつもりでいた。
 寸前で言葉を思いとどめたのは、ディーグの存在だった。
 計画には情報が一番だ。学校というのは情報の宝庫でもあった。この世界のことや、町、国のことを知れるチャンスなのだ。であれば、利用するのが一番手っ取り早いだろう。
 行くとすぐに答えれば良いのだが、静流の中に抵抗が芽生えていた。学校というのは、同じ空間に多くの人間が集まり、人の話を聞いて勉強をする場。静流はどうも、人に教わるのを苦手としていた。戦いの指導となれば尚更だ。教え通りに身体を動かして、一体どんな成長が望めるというのだ。
 戦いとは常に自分自身で考え、工夫し、成長していくものだ。プロレスラーのように、演技力を磨くというのならば話は別だが。
 人とのコミュニケーションも苦手意識が強いものだ。静流には親友らしい親友が、レオナルドくらいしかいなかった。
「分かった。行く」
 自分の中にある抵抗感を最大限押しつぶして、静流は決意した。
「よかったです。たくさん友達作ってくださいね」
 すっかり泣き止んで、目を腫らしているというのに、ミアンナの調子は元に戻っていた。
「できたらな」
 学校は明日に向かうとミアンナから説明を受け、静流は自室に戻った。白梅雨を手に持つ。傷の痛みのせいか、日本刀がやけに重く感じた。
 両手で柄を握る。右手が上、左手が下。刀身はやや斜めにし、右腕が少し前に出て、身体は横を向く。膝は軽く曲げ、目は正面を向く。正面には幻想の、武者の姿があった。武者は刀を縦に振った。
 剣を横向きにして受け止めた静流は右手を剣から離し、外向きに回転しながら肘で武者の顔面を打つ。怯んだ武者の刀を、白梅雨で上向きに弾き、機敏な速度で下から上に斬り上げる。武者の胴は無様に裂かれる。
 現段階では、下手に刀を試合で使えば確実に敗北するだろう。白梅雨に使われているような動き方だと自覚があるからだ。
(相棒、精が出るなあ)
 語り掛けてくる相棒にところどころで相槌を打ちながら、静流は白梅雨を使った訓練に努めた。しばらくしたら学校に通うようになり、今の生活よりも少し忙しくなるだろう。少しでも多くの時間を鍛錬に費やすのだ。
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