19-1

文字数 4,503文字

 空はずっと変わらぬ黄土色だから、晴れているのか曇っているのかさえ分からない。太陽もなければ、星も見えない。天体というものがないのだろうか。もしもないならば、今自分達が住んでいる場所は惑星なのだろうか、それとも。静流は上半身を半裸にしてガン・カタの会得に勤しんでいた。
 フェンに教わった防御と攻撃の構えともう一つ、新たな構えを見出した。銃を持っているから近距離戦だけではなく、中距離の構えも必要になってくる。その場合に必要なのは防御ではなく回避だ。しかし中距離の場合の構えは非常にシンプルで、修練もすぐに終わった。いつも通り、銃を撃つだけなのだから。
 修練が一段落ついていつものように壁に凭れ掛かりながら外を見ていると、見慣れぬ人物達が歩いていた。遠くに見えていた影は近付くにつれ、一人の大人と二人の子供が歩いているのだと分かった。
 アイラとケビンだ。二人は鎖のようなものに繋がれ、黒い布で目隠しをされ、前を歩かされていた。奥にいるのは仮面を被ったニムロドだ。前と同じ、ダイヤモンドの目をした仮面と黒いワイシャツ、腰から下げている赤褐色のマントの姿をしている。
 ニムロドとの決着の時が来たようだ。
 扉が開いて、デチュラとミアンナが入ってきた。デチュラは勝ち誇ったような顔をしているが、ミアンナは対照的に不安という重圧に潰されてしまいそうな色で表情を染めている。
「私の言う事、しっかり守れるんでしょうね? 苦労したんだから水の泡にしないでよ」
「努力する」
 静流は軍隊用の、指先が外に出る黒い手袋をはめた。打撃時、拳への負担を軽くするためだ。
 黙って生唾を飲み込むミアンナの肩に手を置いた静流は、静かな笑みを見せた。そうして酒を少しだけあおってから扉から外に出る。階段を下りる時、玄関にいたのはフェンだった。彼女は落ち着きがない。外に行ってほしくないかのように扉の前に立っている。
「本当に大丈夫なの? いくら静流が強いとはいえ、送り出すのは辛いよ」
 フェンが喋っている間に、カミツナギとホロエまで見送りに現れた。
「お前らちょっと大げさ過ぎだぞ」
 カミツナギは静流の前に跪ひざまずくと、彼の手の甲をとって口付けをすると次に額にくっつけた。
「我らが主君の加護が、シズルにありますように。シズル、今回の相手は今まで戦ってきた人間とは違う。本物の悪と戦うことになる」
「俺は根っからのワルだ。そこらの雑魚には負けない程のな」
 マフィアの道に進んだことで非人道的な行いを数々こなしてきた。言葉にするには残酷過ぎるほどの苦痛を相手に与えてきた。その度に静流は、自分が悪だと自分自身に暗示をかけていた。
「今までの戦いが生温かったってことを教えてやるよ」
 静流の目に宿っていたのは、人を食らう龍だった。彼は口角を吊り上げながらフェンを横に退かし、扉を開けた。
 数メートル先で、ニムロドは立って待っていた。双子達は怯えていて、足が震えている。アイラは涙を流し、そのアイラを慰めるようにケビンが手を繋いでいる。静流の姿を見たニムロドは、静かに双子の鎖を解いて目隠しを取った。
「シズル!」
 ケビンとアイラは同時に叫び、走り出して静流に左右から飛びついた。静流は左手でアイラを、右手でケビンをそっと抱いた。傷はない。ただ監禁されていただけのようだ。
 子供にとっては一日監禁されるだけでも十分な地獄だろう。だが静流はニムロドを睨むわけでも、蔑さげすむこともなく、ただ笑った。双子達を家の中に入れて玄関の扉が閉まると、暖かい風が吹いて沈黙の時間が流れた。
「僕の名前を教えておこう」
 チェスのオープニングでポーンを進める時のように、ニムロドは切り出した。
「ロビーだ。僕の名前はロビー。これから君を殺す名前なのだから、しっかり頭に焼き付けておくといい」
「断る。お前はロビーでもなんでもない。ニムロドだ」
「困るなあ。せっかく自己紹介をしたのに。まあいいさ、さっさとおっぱじめようか。殺し合いを。それとも大人しく処刑されてくれるのかな」
 静流は前に歩き、ロビーと肩を並べた。静流は左に立って前の道を、ロビーは右に立って家を向いている。
「その目は、僕を楽しませてくれる目だ。良い心掛けだよ。ここまできてただの処刑で終わったら面白味もないからね。それじゃあ、始めよう」
 静流は目を閉じ、風の音を聞いた。二人の様子を二階から見守るミアンナとデチュラは、デチュラですら緊縛するほどの空間の中で立っていた。ミアンナのカップを握る手に力が入った。
 一階の食堂の窓からはフェンが見ていた。どちらが先に動くか、検討もつかない。フェンはいるかどうかすら分からない神様に祈った。神様にここまで強く祈るのは、三界にきて初めてのことだった。
 影が動いた。
 先手を掴んだのは静流だ。静流は反時計周りに回転しながら大振りのフックを素早く繰り出した。フックを片方の肘で受け止めたロビーは一歩後ろに下がり、腰からナイフを持ち出して右手で横に薙ぎ払った。切っ先は静流の喉に向けられていたが、静流は即座に半歩下がって回避すると、同じくナイフを取り出して右手で持ち、ロビーの心臓目掛けて一突きを入れた。ロビーは空を舞っていた右手を顔の前に戻し、瞬時に逆手持ちにして先端で静流のナイフを地面に向けさせた。右横に両足を動かした静流は同じくナイフを逆手持ちにし、回転しながら右足の踵をロビーの頬に打った。だが当たったのは頬ではなく腕で、そのまま流れるように元の姿勢に戻った静流の連撃は止まらず、上段突きのフェイントをかけた後に腰を丸め、体を横に向けながらナイフを腹に向けた。
 ロビーは刹那の判断で静流の手を上向きに蹴り、胸に向かって伸びてきた手を左手で掴むと脇に膝の強打を一撃、頬に再び膝の一撃を食らわした。次に額に向かってきた膝を静流は左手の手のひらで受け、左腕でロビーの足を巻き付けるように締め付け、前に体重をかけてロビーを押し倒した。
 馬乗りになった静流は、拳の槌を落とすように、上空から顔面に向かって手を振り下ろした。
 雄叫びをあげたロビーは、静流の槌が落ちるより前に頭を前に突き出し、額で拳にダメージを負わせた。静流の怯みを見逃さず、ロビーは腿ももで静流の首を挟みこみ締めると、大きな力を使って後方へ投げ飛ばした。跳ねるようにその場で起き上がったロビーは再びナイフを構え、立て直している静流に接近する。
 静流は龍の型で構えを取り、ロビーが牽制で繰り出したナイフの突きを左手の手刀で、手首に垂直に小さなダメージを与えて軌道を逸らして次の攻撃を待った。ロビーは上がっていた右手をおろして構えをとった。ロビーの構えは膝を軽く曲げ、つま先は二つとも前を向いている。左手に軽く拳を作り、右手でナイフの切っ先を前に向ける軍隊向けの構えだった。
 静流のナイフはロビーの奥にある。静流は右手を下ろし、服の中からウィスキーの固いガラス製の瓶を取り出した。中にはまだ半分ほどウィスキーが入っていて、再び構えに戻ると中身が揺れた。
「その場にあるものは何でも利用する。なるほど、殺し屋スタイルとしては悪くない。だがそんな子供だましが通用するのは、五界だけだ。今この瞬間、お前の敗北は決まったようなものだ。残念だったな、黒川静流」
「お前の決めた運命に流されるほど、俺は弱くない。負けるのはお前だ、雑魚が」
「ほお、言ってくれるじゃないか。いいねェ、本当に愉快だ! 弱い狼ほどよく吠える。いや、お前は龍だったか。残念ながら調子に乗るのもここまでだ。一時間以内に倒してボーナスを得たい。最高の悲鳴を聞かせてくれよ!」
 ロビーは腰を勢いよくしゃがませ、ステップを踏むように右足を前に出して静流の懐に踏み込む。姿勢を戻すと同時に地面から空へナイフを突きあげる。静流は首を後ろに反らし、ロビーの左手が放ったジャブを右ダッキングで回避し、構えに戻ると同時に酒瓶でロビーの脇腹を殴打した。それは命中し、勢いが加えられた方へ少しだけよろけたロビーの膝にローキックをした。ロビーはナイフを構えながら右回りに旋回した。刃を瓶で防御し、静流は左手刀でロビーの鳩尾を突く。防弾ベストを着ているのか、大きな手応えはない。静流はすぐに左手を退き、ロビーの次なる一手、左後ろ回し蹴りを右腕で受けた。
「デチュラ、シズルは勝てそうですか?」
 ミアンナには、最初に感じていた不安はどこか遠くの感情に思えていた。彼女の素人の目から見ても両者は互角どころか、静流が優位にすら思えたからだ。ニムロドに備え、静流は勝利のための鍛錬を怠らなかった。
 全てのパターンを彼は一人で、時にフェンと、時にカミツナギと考えていたからだ。相手がナイフを持ち出したらナイフを、自分がナイフを失ったら酒瓶を。相手は以前、銃弾を食らったら特殊な粘液を出す能力を見せてきた。通常の鉛玉を使うことは絶対に避けたい。
 だがそれは相手も分かっているだろう。ならば裏の裏を読む。
「まだ分からないわ。私の調査は絶対で確実だけれど、情報は戦力の増強に過ぎない。勝負っていうのは時の運も味方につけなければならない。特に肉弾戦はね。ただ言えるのは、もし今にシズルが慢心しているようならば、確実に負けるということだけ」
「シズルはそのような慢心は絶対にしません。私が一番よく知っています」
「だといいけど」
 腹部に向けられたナイフの突きを咄嗟に反応し、左手刀を解いてロビーの手首を掴んだ静流は、その腕に酒瓶を二度叩き込んだ後に右中段蹴りで腹部に強烈な一撃を与えた。ロビーは腹を押さえで片膝を突き、静流は追撃――。
(相棒、止まれ!)
 静流の頬を、鉛玉が掠めた。ロビーは腹を押さえるフリをして、腰から銃を抜いていたのだ。隙ができた静流の左胸にロビーの掌底が衝突し、むせる静流の左足が刈られ、静流の体は宙に浮いた。その瞬間を逃さずにロビーは彼の腹部に肘を打ち、脇腹にナイフを差し込んだ。静流の着ていた防弾チョッキを貫通して肉を切り裂き、体内へ入り込む。
 苦痛を伴い、静流は呻きざるを得なかった。そのまま地面に伏せ、喉をロビーの靴底で圧迫されている。静流は左手で足を掴んで抵抗するが、ほとんどの体重がかけられている足に為す術もなく苦しみへ追い込まれていく。
「言っただろ。お前の敗北は決まったってな。お前の唯一の欠点を教えてやるよ」
 静流は瓶で何度もロビーの足を殴打した。しかし、些細な抵抗でしかなかった。
「お前は対戦相手に敬意を払いすぎてる。そんなんでよくここまで生きてこられたな。だが、ここまでだ。次生まれ変わったら戦士じゃなく、ケーキ屋になるのを薦めるぜ。あそこは女どもがこぞってくるから、男からしたらこれ以上ない場所だ。ああ、お前は女に生まれ変わるかもしれねぇか。それなら、これ以上ない職場だと思うぜ、お似合いだ!」
 狙いを定めるように、ロビーは銃を動かしていた。照準が静流の額に向いたとき、ロビーは醜悪な笑みを見せた。この瞬間を待ち望んできたかのように、勝利への確信をようやく手にしたときのように。
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