20-1

文字数 4,765文字

 戦場に送られる前、ミアンナはいつもと変わらぬ調子で静流と向かい合っていた。いつも通り、車椅子に乗る静流を後ろから押して彼女の部屋に着く。部屋には誰もいなかった。それもそのはずだ、時間は夜中の三時なのだから、誰もが寝ているだろう。
 いつもは昼間や夕方だったのに、今日に限って夜中だった。その仕組みについては、ミアンナに問う気にもなれなかった。どの時間帯であろうとも、結果は同じなのだから。
 車椅子の動きが止まった。ミアンナは後ろに立ったまま、前に来ようとしない。顔が見えないから、彼女が何を考えているかも分からなかった。この沈黙が嫌だったから、静流はこう言った。
「叶いもしない希望にしがみついている内に、俺は本来の目的を見失ってた。上ばかり見ていたから、足元に咲いている花にも気づかなかった。今思えば、それが俺の、最大の罪だったのかもしれない」
「どうかしましたか、シズル」
「いや、どうも。ただ疲れた。戦うことに疲れたんだ」
 戦う必要がないのだから、試合前にウィスキーを飲んでも文句は言われない。今では相棒も、黙って身を潜めている。彼ともお別れの時間だ。長い長い時間を一緒に過ごしてきたというのに、別れに悲しみは感じない。静流の胸にあった闘志は、今は見る影もない。
 人間の心を折るのは簡単なことだ。井戸の中に落とした子供にロープを投げ、上っている最中にロープを切ればいい。今までの努力や苦労が、その瞬間に無駄となり、少年は次第に暗闇を受け入れるようになる。井戸の中が心地良いとさえ思うようになる。
「俺はどんな逆境の中でも、ディーグが座っている椅子から奴を引きずり下ろすことだけを考えて戦ってきた。俺なりに必死だった。だが簡単なんだな、諦めるのって」
 瓶の中が空になると、静流は笑った。だがその後、すぐに激高して瓶を地面に叩きつけた。
「くそったれ!」
 砕け散ったガラスの破片。ミアンナは彼女の持つスキルで破片を一纏めにして、綺麗なガラス玉にした。
「シズルはよく頑張りました。親友も、お父様も倒しましたね。心苦しかったと思います。シズル、私は約束します。シズルが七界に行ったら、必ず私が連れ戻しにいきます。約束します」
「できない約束は、するもんじゃない。七界ってところも、住んじまえば天国かもしれないぜ」
「別れるのが、私はこの上なく寂しいのです。どうか、約束させてください」
 ガラス玉を静流の膝上において、彼女は静流の片手を握った。両手で、温めるように。
「最後に聞かせてくれ。フェンはどうなった」
「あの子は、意識を取り戻したそうです。担当医が人工舌の移植の準備を進めていて、しばらくすればまた話せるようになると聞きました」
「そうか。死ぬ前に聞く話がグッドエンドで良かったよ」
 繋がれていた手から白い光が漏れだす。夜の世界に目が慣れているから眩しさを感じた。静流は目を閉じた。その間に、色々なことが頭を過った。
 結局、一人の男が革命を起こせるのは奇跡の力があってこそなのだ。静流には奇跡を起こす力は持ち合わせていない。ただの殺戮マシーンでしかない男に、世界を変える力は最初から無かったのだ。この後に静流は敗北し、バッドエンドを迎える。三界に来た時点で人間は全員七界送りなのだから、バッドエンドになってしまったのは必然とも言えるだろう。
 その必然すら変えようとしていたのだ。最後の最後で絶望し、孤独に死んでいく。今まで築き上げてきた道筋が崩壊し、ひび割れていく。
 眩い光と耳鳴りが終わろうとしていた。静流は目を開けた。目の前は、どうやら屋内のようだ。暖炉には炎が勢いづいていて、木の燃える音が聞こえる。窓の向こう側は真っ暗だが、どうやら森の中の室内のようだ。
 部屋の中央にはそれぞれが向かい合うように三つのソファがあり、ソファの中心地には木製で長方形の机があった。机の上にはチェス盤があり、一番最初の形で駒が並んでいる。チェス盤の奥にはチェス・クロックがあり、今は動いていない。
 ところで、部屋の広さは戦える程の場所ではない。今までと違って狭く、戦うというよりもむしろ、団欒をする場所のように思えた。
「やあ、君が今回の相手か」
 優美だが、憂いを帯びた低い声でそう言ったのは女性だった。彼女は窓の外を見るように立っていて、短い後ろ髪はうなじのところでウェーブになっていた。前髪はまゆげの位置で均一に揃えられており、色は黒だ横髪は肩まで真っ直ぐ伸びている。黒いネグリジェを着ているだけで、武器は何も手にしていなかった。蝶の形をしたピアスを両耳にしていて、彼女が振り向くとピアスも気まぐれに揺れた。顔立ちは、二十台前半の若々しさがありながらも疲弊していた。
「その足はどうしたんだ。誰にやられた」
「お前には関係ない。さっさと俺を殺せ。まだお前の方が、きっと未来があるからな」
「未来か。私にも、きっとあったんだろうな。そんな美しい物が」
 彼女はソファに座った。勿体ぶられることに腹を立ち始めた静流は、腰から抜いた銃を机の上に放り投げた。彼女はその銃を手に取った。
「さっさと俺を撃て」
 酔っているから、死への恐怖は和らいでいた。
「その膝の上に乗っている、水晶のような玉。綺麗だな」
 憤慨した静流は、もう一丁の銃を抜いて自分の頭に銃口を向けた。そして間髪入れず、その引き金を引いた。最初から自分の手で終わらせるべきだったのだ。だが銃声が鳴っても、自分の頭から血が流れる感触がなかった。まだ手足の感覚があったのだ。
 静流の持っていた銃は遠くの地面に落ちていた。女性が、静流の銃を撃ったのだ。
「この戦いで命を落とすのは私だということを、言っておきたい」
 静流の中から、怒りといった感情が消え失せた。
「どういうことだ」
「君は、足を失ったことで最初から勝つのを諦めた。何か事情があってのことなのだろう。普通の人間なら、足が失っても銃があるなら私を撃とうとする。そういう人間しかいなかった。私は心理カウンセラーでなければ、過去を視ることもできないから君の道筋は知らない。だが私は、五体満足でありながら死ににきたんだ」
 彼女はおっとりとした話し方だった。だが、瞳の奥に見える底知れぬ闇が静流を喉を麻痺させてしまって、声が出しにくかった。
「足が無いなら、私に勝って取り戻せばいい。もしそれで君がまた新たに戦えるようになるなら、私は嬉しいよ。最後の最後で、役に立てたんだ」
「あんた、何があったんだ」
 二人の様子を上から見守っていたミアンナのところへ、カミツナギが本を持ってきた。人間名簿だ。ミアンナは女性を探し、時間をかけてようやく見つけた。
 彼女の名前はサラ・アリアンテ。一八〇一年に死去。彼女はフランス革命の真っ只中で生きてきた女性であり、元々はバスティーユ牢獄に囚われていたところ、一七八九年のバスティーユ牢獄襲撃にて脱獄し、その後は歴史に名前を残さなかったシャルボーンという暗殺組織に加入し、フランス革命戦争に携わっていく。
「そもそも、なぜ牢獄に囚われていたのでしょう。それまでの経緯が書かれていませんね」
 カミツナギはそう言って、テレビモニターを見た。彼女の浮かべる慈いつくしみの目が、どうにも人間名簿と書かれていることに手違いがあったと思えてならないのだ。
「三界に送られるだけのことをした、ということが分かれば良いのですよ。人間名簿は」
 サラはソファから立ち上がって戸棚まで歩き、中で眠っていたワインを取り出した。コルクで丁寧に抜き、栓が解かれると彼女は瓶に口をつけて飲んだ。豪快な飲みっぷりに、静流は少しだけ見惚れた。
 不思議な感情に晒されていた静流は、今から紡ぎだす言葉が正解なのか不正解なのか分からず口ごもっていた。
「私は、ずっと戦士だった。五界に産まれ落ちて、死ぬまで。そして死んでからも戦士だった。一八〇〇年のマレンゴの戦いの最中にヘマをした私は、組織から追放され十分な医療も受けられないまま死んだ。その後、ナポレオンの時代を見ることはできなかった」
「フランス革命か。あの時代、女性が戦う権限を持っていたとは考えにくいんだが」
「ヴェルサイユの行進で国王が動いたのは、少し歴史を勉強すれば分かるだろう。女性にまったく権限がないわけではなかった。無論、正規軍に入ることは叶わなかったが、アサシンとして活躍できたのは事実だ」
 そう言うと、次に彼女は静流を困惑させる一言を放った。
「少し、チェスをしないか。どうして私が負けるのか、君に知ってもらいたい。どういった経緯でここに来て、どういった理由で負けるのか」
 幸いにも静流はチェスの知識があった。チェスの名手であるボビー・フィッシャーとボリス・スパスキーの戦いを見たことがあるからだ。当時は静流は生まれていなかったが、父親から盤面を教わった。まだ静流が七歳だった頃だ。その頃にチェスに興味を持ち始めて勉強していたが、相棒の茶々入れが煩わしくてチェスをやめてしまったのだ。今では戦術や、局面の単語こそ覚えてはいないがルールは分かっていた。静流は頷いた。
 静流が立ち上がろうとした時、サラは静流の肩を支えて歩行を手伝った。静流が黒の駒側に座ると、彼女は反対側の席に座った。サラは机と椅子を動かしてお互いに向かい合う状態を作ると、ポーンを一つ手にとって語り始めた。
「私がこの世界に訪れた時、真っ先に思ったことは理不尽という言葉だった。私は心臓が止まった時、緩やかな死ではなかったが戦いからの解放に安堵していた自分がいたのだ。永遠に戦い続ける人生よりも、地獄で罰を清めていたほうが、よっぽど幸福だと思っていた。けれど三界のルールや世界観を知った時に、私はひどく絶望した」
 白のポーンを二歩前に進ませ、静流も同様に、白のポーンの目前に来るように黒のポーンを進ませた。
「それからはしばらく戦い続けた。理不尽だと思う中で、私にも新たな家族ができ始めたんだ。家族や仲間、人間の男からも好かれた。最初は理不尽だと思っていたが、私の居場所ができてしまった。だが人間達はみな、仲良くなってもいつかは、近いうちにいなくなる。私はその喪失に耐えられなかった」
 サラは次に、ポーンの隣にポーンを並べた。この形はギャンビットと呼ばれるものである。静流は彼女の誘いに乗るように、彼女のポーンを取った。彼女は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「グノーシスコンツェルンに目をつけるまでは早かった。この組織を壊滅させる。フランス革命が成功したように、私たち人間も立ち上がるべきだと思った。私は有志を集い、同じ思いの仲間たちを揃えていった。だがこれは、私達人間側が圧倒的に不利であると分かっていながらの集いだった。いつ、誰がいなくなるのか分からないのだから」
「仲間同士で戦場に出される場合もあるんだからな」
 次にサラは、彼女から見て右側のナイトを黒のポーンの前に置いた。
「その時は、どちらが組織に貢献できそうかを互いで話し合って試合が進んでいた。グノーシスコンツェルンの連中に気付かれないように八百長をするのは、私からすると心が痛かった。もっと他に良い方法がないかと、私はその時のリーダーに尋ねてみたが、大儀のための犠牲だと耐えるしかなかった」
「組織の名前、なんて言うんだ。お前達の」
「フィロ・ディ・ポジア。イタリア語で雨の糸だ。名前の由来は私には分からない、ただイタリア人だったリーダーが昔の映画に影響を受けてつけたそうだ」
 チェスの盤面は次々と進んでいく。五手目になると、静流はオープニングの形を思い出すことに苦労をし始めた。彼女は、ここから先どうやって負けるのだろう。そして、どのような理由を持っているのだろうか。
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