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文字数 5,262文字

 死が差し迫った頃、美咲に手紙を出していた。静流にとって遺言のようなものだった。美咲はこれからも命を狙われる可能性も考えて、比較的安全な町へ誘導した。静流が選んだのはナホトカ町で、この町には静流の日本の友人も住んでいた。ロシアンマフィアと取引をするヤクザだ。
 裏社会といったものを嫌っていた美咲にとっては、しばらくは耐え難い苦しみの日々だっただろう。
 デチュラへの通達をホロエに任せた静流は、霊扉(れいひ)(かく)と呼ばれる、旧人と人間が多く出入りした巨大な建造物に向かっていた。受付の男性に名前と自分の守吟神、それから緯度経度を告げ、何時頃帰ってくるのかを細かく記述。五界へ出向く理由を書く下の欄には、十条からなる約束事が書かれていた。五界令状と書かれていることから、約束事というよりは命令らしい。規則を破ったらどうなるかまでは無かったが、七界に売られでもするのだろうと簡単に想像しておいた。
 記入用紙を提出した静流は、番号の書かれた鍵を受付嬢から渡された。まるでホテルの自室を探すように、右側の廊下を歩き出した静流はすぐに目的の扉を見つける。一〇二の扉だ。簡素な木製の扉だった。特徴はなく、表面も平らで、中央の右寄りに銀色のドアノブがあるだけだ。
「なんでお前もついてきてんだよ」
 扉のドアノブに鍵を差し込みながら、静流は隣に立っているフェンに声をかけた。
「これでも七勝はしてるし」
「そうじゃねえよ。こういう時くらい一人で散策してもいいだろ」
「何をどうしようが私の勝手でしょ。ケチなこと言わないでさ」
 呆れるように首を傾げた静流は、扉を開けた。
 ミアンナから説明を受けていたから目の前の現象を難なく頭に刷り込むことができた。扉を開けると宇宙空間のような無が広がっていて、足を一歩そこに放り出すと、全身に鳥肌が立つ。大きな耳鳴りが鳴って、人間は反射的に目を瞑るが、恐怖といったネガティブなイメージには囚われない。
 五界に降り立つのは一瞬だった。
 目の前を親子連れが過ぎ去っていった。ここは一方通行で、車が一台通れば幅が無くなる小さな道だ。ウーリツァ・スポルチヴナヤという町で、ここに美咲が住んでいる。
 強かな雨が降っていた。粒が大きく、地面当たって跳ねている。雨粒はすり抜けていくから、傘をさす必要はなかった。
「美咲ってどんな人なの」
 ここに来る用事を簡単にフェンには伝えていたが、彼女はその情報以上を求め始めた。
「いい奴だ」
「それだけじゃ分かんないよ」
「会えば分かる。俺は説明下手なんだよ」
 道を歩いて街路樹が規則的に立ち並ぶ大通りに出れば、車道の向こうにコンクリの白と赤褐色のマンションが見える。
 少なくない車が行き交う中、静流は平然と車道を横切ってマンションに出向く。フェンは、車は自分を透き通ると分かっていても車道を横切るのが得意ではなく、おじおじしながら何とか渡りきった。彼女は早歩きで静流の後ろにつき、自動ドアをすり抜けて中に入った。
 ――五界へ旅立つのは、夢を見ているようなものです。
 霊扉の閣に来る前に、ミアンナが静流に警告を遺していった。
 物質界である五界において、地面を歩くという行為は人間の常識に基づいているものだ。だから地面はすり抜けずに歩けるのだ。この常識を疑ってしまえば、歩くことさえできずに浮遊することになる。ミアンナは常識という言葉を使っていたが、静流は「思い込み」と言い換えもできないかと考えていた。
 試しに静流は、目を瞑って自分が浮く姿を想像した。すると、いとも簡単に静流はその場を浮遊し始めたのだ。
 驚きの声をあげるフェンを後目に静流はゆっくりと上昇すると、黄土色の天井を抜けて二階が目の前に現れた。
「ちょっと待ってよ!」
 その場で飛び上がるが、フェンは静流のように飛べていない。仕方なく彼女は、外にある錆びた金属の黒い階段を使って上ってくるようだった。静流はフェンを放っておき、三階に足を下ろした。ちょうどエレベーターが目の前にある。
 長方形のマンションは左右に伸びていて、静流は三〇三の部屋を探した。これで部屋を探すのは今日で二度目だ。
 三〇三の部屋はエレベーターの右側に伸びた通路にあった。赤褐色の壁に包まれて、黒い無垢材の扉が見える。レバーハンドルを癖で掴もうとして、その必要がないことに気付く。すり抜けていけばいいのだから。
 ちょうど美咲が三階に上ってきたみたいで、扉を通り抜ける静流をフェンが追った。
 玄関を抜けると、少し歩けばすぐにリビングへの扉が見えた。木製で、縦に伸びた二枚の透明ガラスが扉を着飾っている。扉の真横には壁を綺麗に抉り取ったような棚のようなものがあり、その上には写真が乗っていた。その写真には、静流と美咲が二人で映っている。
 写真に撮られることを苦手としていた静流はそっぽを向いていて、背景は江ノ島だ。初めて美咲を日本に連れていった時の、旅行写真だった。
 ガラスの写真立ての横には小さな花瓶が置かれていて、中にはカミツレが綺麗に詰まっていた。中に入っている水は濁っていない。
「いい写真だね。美咲さん、いい笑顔してるよ」
 写真の中の美咲は、口を開いて目を瞑りながら大笑いしていた。撮りたくないって言ってるのに強引に写真を撮って、膨れ面になった静流を見て笑っているのだ。
「可愛いね、美咲さん」
 リビングに入るが、誰もいなかった。今は留守にしているらしい。
 リビングは至ってシンプルだった。扉を抜けるとすぐ右手側には寝室に向かう無垢材の扉がある。部屋の中央には一家団欒用の椅子と机が備わっていて、大きめなテレビが台の上に乗っていた。テレビの真横にはスピーカーがついていることから、大音量を気にせず楽しめることが窺える。防音効果があることは静流も知らなかった。
 椅子には座る場所にドーナツ状のクッションのような物が敷いてあり、テーブルの上は菱形のテーブルクロスが乗っていた。白色で、クローバーの模様が小さく敷き詰められている。
 部屋の大きさは十六帖であり、広々とした空間にソファやキッチン等が丁寧に置かれている。
 特徴のないリビングで、静流はすぐに寝室に移った。
 寝室はダブルベッドがあり、白い枕と赤い毛布が、まるでホテルのように律儀に置かれている。美咲は綺麗物好きで、布団も毎日のように整頓していることをふと思い出した。ダブルベッドを見なければ一生思い出さなかったかもしれない、細かな癖だ。
 トロフィー棚のようなものが立っていた。その中には金色のトロフィーもあり、名前も刻まれている。
「あれ、誰だろうこの人」
「俺も分からん」
 スタラニスラフ、それがトロフィーに刻まれた名前だった。ベッドの頭にある台の上には写真が飾られている。美咲と一緒に写っているこの男性が、スタラニスラフなのだろうか。
「プロレスラーなんだって、この人」
 寝室を歩き回っていたフェンは、大きめのキャビネットの上に乗っていた分厚い本を目にしてそう言った。
「この本、著者がスタラニスラフって人で、自称伝っぽい。プロレスのことが書いてあるから、多分プロレスラーなんじゃないかな」
「そうか」
 物を手に持つのは令状を破ることになるから、フェンは手に触れずに眺めるだけだった。
 美咲は、強い男に守られながら暮らしている。
 スタラニスラフは筋肉質な男で、体全身を隈なく鍛えていることが写真から窺える。美咲は、満面の笑みで。スタラニスラフは、爽やかな笑みで。幸せそうに写っている。
 強い男と暮らしているなら何も問題はない。
 幸せそうな写真だ。心臓に銃弾を食らって海に沈んでから、初めて見た美咲の笑顔だった。幸福に包まれていて、あどけなかった。
「ねえ、シズル。大丈夫……?」
「何が」
 少しぶっきらぼうな口調で静流は聞き返した。
「美咲のこと好きなんでしょ」
 全てを言わず、察してほしいと言わんばかりにフェンは黙った。静流も黙りこくり、その必要はないのに足音に気を配りながら家から出た。
 美咲の顔を見る前に、静流はマンションを離れることにした。三階から飛び降りて痛みもなく着地すると、後ろで悲鳴を上げながら地面に落下したフェンを差し置いて、どこへでもいいからと歩き出した。
 一足遅くなったからフェンは走り出し、静流の真横に付いた。
「過去の女だ。話すこともできなければ、守ってやることもできない。どうだっていい」
「顔を見るためにここに来たんじゃないの?」
「必要ない」
「強がらなくてもいいんだよ、シズル」
 自分がどこに向かっているかもわからず、時間切れまで歩き続ける。不思議と、歩いていても疲れを感じない。足が地面に当たる感覚も、雨に曝される感覚もあるというのに。
 寒さも、痛みも感じない。ただあるのは、胸の中にできた黒い雲が覆い隠した自分の感情だった。
「誰だって辛いよ。自分の好きな人が、別の人の物になっちゃうっていうのは」
 黒い雲を払おうとフェンは努力している。彼女は、自分の感情を誤魔化すことが最大の悪だと思っているかのようだった。
「私なら苦しいから」
「俺は死んだ。それから先、美咲がどう生きようが彼女の勝手だ」
「そうだね、私もそう思うよ。でもさ、自分が傷ついて悲しんじゃいけないなんてルールはないんだよ。どんな場合でも」
 頼んでもないのに、美咲との思い出が浮かんでくる。記憶の中で彼女はずっと笑っていた。それはどれも、掛け値をつけられない宝だった。彼女の元気そうな顔を見に来ることが、最大の罪だったのだろう。それ以前に、大事な彼女を残して旅立った事も罪だったのだろう。
 考えてみれば普通のことだったのだ。美咲も静流を愛していた。その愛の矛先が突然いなくなって、彼女は戸惑い、愛を誰かに預けるしかなかったのだ。
「じゃあ代わりに私が泣くよ」
 喧しい雨の音の中で、フェンの声は心臓に直接響くような強さがあり、静流の足を止め、振り返らせた。
「ごめん、今のは嘘。でもやっとこっちを向いてくれたよ」
 世界で唯一愛した美咲は、今は他の男を愛している。雨は幾千の針であり、様々な棘が体中に突き刺さる。慟哭は理由もなく感情を痛めつけ、絶え間ない。
 苦痛だ。際限のない苦痛が爪先まで押し寄せる。しかし、雨粒の向こう側に見えるフェンの顔は穏やかだった。
「俺は、散々人を殺してきた。家族や恋人がいる人間だって、構いはしなかった。これくらいの罰、安いもんだ」
「悪い人たちをやっつけてたんでしょ」
「悪い人っていうのは、誰かが作った偶像だ」
 空から鈴の音が鳴った。三界に戻る時間だ。
「なあフェン、俺は今でも美咲を愛してる。こうやって、見守る。それは間違ってないよな」
「間違ってないよ。私が言うんだから、間違いないですね」
 彼女は自然な笑みを見せて、静流もそれにつられて少しだけ笑った。彼女の存在が、少しだけ愛おしく感じた。いつもは小うるさい歳の近い妹とか、そういった身近に思えた。
 鈴の音が止むと、世界は一つの点に収束した。ブラックホールのように光というものが全て吸われていき、三界に戻るまでは一瞬だった。しかも、戻ってきたら目の前にミアンナの家があるのだから親切設計だ。隣にはフェンもいて、周囲を見渡して驚いている。
「すごい、こんなテクノロジーを持ってるんだ。三界の人たちって」
 これからすぐデチュラの所まで行く必要があるが、今すべきことは気持ちの整理だ。様々な逆境を乗り越えてきた静流でも、愛による痛みは簡単には癒えなかった。
 人間は愛に愛されている時は、どこまでも幸せだ。睡眠欲でも、食欲でも、性欲でも満たすことのできない唯一の至福が訪れて、世界の色が虹色に変わる。
 反対に、愛から見放された時は奈落に落ちる。無限の奈落だ。落ちている間は何をしても幸福にはなれない。目に見えるもの全てが灰色で、自分が息をしているのか死んでいるのかさえ分からなくなる時がある。
 フェンは、落ち着くまで側にいると提案したが静流は断った――にもかかわらず、彼女は後ろからついてきた。普段なら強い口調で付いてくるなと言えるものだが、今は気力もない。
 家の扉を開け、静流は真っ先に自分の部屋まで向かうと、椅子に座ってすぐに酒をあおった。
「ねえシズル、何も言わなくていいから聞いてほしいんだけど」
 窓枠に腰掛けながら、フェンは殺風景な外の風景を眺めながら言った。
「――やっぱいいや、なんでもない」
 次に戦いがあったら勝てるだろうか。戦う意義を見失って、戦いにすらならないような気さえした。ミオンを救うという信念が、今では崩れかけていた。
 酒が手探りで引っ張り出してきたものは、無力感や失望感といったものばかりだ。酒を飲めば楽になれると思ったが、今回ばかりは間違いだった。
 フェンは何も言わなくなってしまった。ただぼうっと、窓の外を眺めていた。静流はどう声をかけて帰らせようか思案していた。
 その時、どこからともなく銃声が鳴った。窓ガラスが割れて、フェンが仰向けになって倒れた。
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