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文字数 7,196文字

 紗季は竈に近寄って、大きな木の(へら)を使って中身を回し始めた。身長が足りずに背伸びをしている。
「私もね」
 一寸先の何かを見て、デチュラは言った。彼女は椅子の背もたれに寄りかかって、足を組んでいた。
「人間は嫌いじゃない。むしろ、好きって言ってもいい。だから三界に入れたくないの。私の好きな人間達のせいで、私の好きな旧人達が堕落していく姿は見たくないからね」
「何か策はあるのか。世界を変えるような」
「グノーシスコンツェルン。全ての元凶はそこなわけ。あの結社さえ無ければ人間は三界に運ばれて来ない。話は簡単、あの結社を潰せばいい」
 五界よりも話は単純だった。とある組織が憎くて自分にとって仇を成す存在でも、崩壊させるには一定のリスクを伴う。勝負を仕掛けて勝つ、負けるの話ではない。その組織も、社会にとって何らかの貢献をしているものだ。リスクを負ってでも崩壊させなければ、と判断した場合に静流はよく駆り出されたのだ。
 話は単純なのだろうか、静流は一抹の不安が過った。
「他の界層の住人はどうなるんだ。そして、今三界にいる人間達の処遇はどうするか。大きな問題点はここか」
 勝敗を考えるのは先でいい。勝った先のことを考えない勝負ほど、愚かなのだ。
「前者は簡単ね。代案を用意すればいいのよ。人間以外のもの。後者は、全員処刑?」
「処刑は名案に違いないだろうが、人間も黙ってないぞ」
「でしょうね。はぁ。なら、今いる人間達は暮らしていけばいいんじゃない? 三界で」
「それも問題がありそうな気がするがな」
 かといって他に考えられる処遇はあるかと問われれば、静流は回答を用意できなかった。難しい表情の静流を見たデチュラは、溜息を吐きながらこう言った。
「この話はここまで。別に差し迫った話じゃないし、ゆっくり考えていきましょ。それより、今あなたに大事なのはディーグへの報復でしょ」
 彼女は眼帯の位置を指で調節した。
「正直私も今回の一件で完全にはらわたが煮えくり返ったわ。今すぐにでも殺したいけれど、八界にいくのだけは御免なのよね」
 考えるべきなのは、ディーグを生から引きずり下ろした後の世界だ。何がどのように変わり、問題が発生した場合どう動けばいいのか。今まで静流はそこまで考える必要はなかった。属していたマフィアのボスにとって、ただの武器でしかなかったからだ。武器は敵を倒すだけの仕事だった。
 住処が分かって、倒すだけでは不足している。何よりも求められているのは情報だった。
「奴について、何か知っていることはないか。グノーシスコンツェルンに所属してるってことだけはクラッセルから聞いてる。偉い役回りをしてるらしいな」
「相談する相手を間違えたみたいだわ。クラッセルって、相手の心が読めるのよ、何を考えているかまで」
「おかげで説教されたよ」
「強引に止めにくるかもしれないわ。彼自身は大きなコネクションはないんだけど、彼の友人が大物なのよ。その大物が本気を出してあなたの計画を妨害しようとしてきた場合、まず計画は無駄に終わるわ」
 不機嫌そうに彼女は口をひん曲げて、組んでいた足を伸ばした。
「この話はここでおしまい。あなたがクラッセルに、その大物に話をしていないか聞きだしたら続きを一緒に考えてあげてもいいわよ」
「そんなに厳しいことなのか、話されたら」
「危険人物としてあなたは世界中からマークされるわ。それにディーグにも話が行き渡るでしょうよ。で、その時の勝算は? 五本指で数えられる確率かしら。小指を十等分に切り分けて、その一欠片にすら満たないほどの確率よ。そんな話に私は乗らないわ」
 地獄のような暴走車に乗って訪れて分かったことは、名前も分からない大物に知られた場合のリスクだ。成果があまりにも少なく、静流は失意に苛まれた。
 あれだけ力説していたクラッセルだ。友人にも話しているに違いなく、反逆はほぼ絶望的。危険人物としてマークされるならば、商店で武器や道具を買うことはおろか、外出さえ満足にできないだろう。ディーグのような男が来るのに耐えながら、死ぬまで過ごすのかもしれない。
「やるべきことは一つだな。すぐにでもクラッセルに話を聞きに行って、誰かに話したか聞くこと」
「旧人は絶対嘘を付かないわ。三界ではね、嘘の代償が半端じゃなく大きいの。大罪ってことね。だから七面倒くさい読み合いとか、そういうの一切ないから安心していいわ。ただし、旧人に限るけどね」
「俺が嘘ついても問題ないのか」
「ええ、そうよ。だって人間だもの。人間に嘘をつくなっていうほうが酷だわ」
 それは人間が愚かであることの証明か、妥協か。
 静流が返事をする前に、デチュラは立ち上がって静流の隣に立った。
「いいことを思い出したわ。実は、ホグウのことで私も反省したのよ。そこで、家事が大変になったと思うから、私からとっておきのプレゼントを用意したわ」
 なぜか、静流は胸中に臨戦態勢を敷かせるような緊張感がせり上がってきた。俗にいえば、嫌な予感だ。
 森の奥の魔女の家。紗季という人間を選ぶデチュラのセンス。得体のしれない液体が入っている窯。そのすべてが相まって、彼女の用意したプレゼントの中身が不安で仕方なかった。
「もういいわよ、こっちきて」
 デチュラの向いた家の左側には、三段ほどの小さな階段があり、向こう側には輪の取っ手がぶら下がる木製の扉があった。彼女はそこに声をかけたのだ。
 ゆっくりと扉が開かれて、中から現れたのは静流よりも身長の高い青年だった。
「待っていたぞ、シズル殿」
 黒い髪が左右に分けられた好青年といった印象だ。白いワイシャツを腕まで捲っていて、黒いチノパンにはシャツを閉まっていない。首からは金のネックレスを胸元まで下げていて、古時計のような形をしていた。実際に短針と長針があるから、時計を象っているのだろう。
 彼が微笑を浮かべると、眩しいくらいの白い歯が見えた。
「ちょっと、前邪魔!」
 扉の向こう側から今度は女性の声が聞こえてきて、青年が前に蹴られて地面に倒されてから現れたのは二十歳くらいの小柄な女性だった。クリーム色のカーディガンを着ていて、黒い髪は腰まで伸びている。勝気といった風貌を備えていて、現に灰色のカーゴパンツの先から繰り出された中段蹴りは鋭い一撃だった。
「痛いじゃないか、ホロエ。腰が痛い」
「あんたが扉の前で仁王立ちするからあたしが出ていけなかったんだよ、ノッポ!」
「ふう。やれやれ……困った娘だ」
 そう言って青年は立ち上がり、ホロエと呼ばれた彼女の方を向いた。ホロエの顔には影ができる。
「な、何よ」
「前も……蹴りなさい」
「は?」
「右の頬をぶたれたら、左の頬も差し出す。それが掟だった。後ろを蹴られたら前も差し出す。同じこと――」
 青年が全てを言い終わる前に、彼の腹に強烈なボディブローが繰り出されて、彼は再び地面で悶え始めた。どこか清々しい表情をしている。
「キモい、ウザい、最悪!」
 するとホロエは馬乗りになって青年の襟を掴んで持ち上げ、地面に叩きつけた。
「もっと、もっとだ!」
 嘘のように聞こえるが、今の言葉は青年の口から発せられたものだ。
「女だからって舐めんなよ、シャアララぁ!」
 静流はじゃれあう二人を無言で指差しながら、デチュラの顔に真剣に向き合った。デチュラは嬉しそうにこう言った。
「プレゼントよ」
「いらないんだが」
「ミアンナの家に足りないのはボケとツッコミよ。その要員を兼ね揃えることでもっと楽しくなるわ。ホグウの役割は満たせないと思うけど、同じくらいのキャパシティはあると思うわよ」
「どっちもいらねえよ。あの残念すぎる男と暴力女が家事できるとも思えないし」
「人を見た目で判断すべきじゃないわね。アレは七界で売られていたところを私がわざわざ買ってあげたのよ。セット売りされてたけど、結構値段は高かったんだから」
 善意で用意してくれたのだろう。その好意を無駄にするのは憚られることだが、いかんせん静流はあの二人を家に招き入れたら毎日が大惨事になりそうだと思えてならなかった。今さっきの嫌な予感は見事に的中したから、今発生した嫌な予感もきっと当たってしまうのだろう。
「次は上腕二頭筋を殴ってくれ! ああッ、痛いッ!」
 一瞬でも好青年だと思った自分を憎みながら、静流は交渉しようとデチュラに声をかけた途端、デチュラがいる方とは反対側の右手を紗季に掴まれた。
「一日だけウチの手伝いをしてもらったんだが、悪い奴らじゃなかったぜ」
「いや、そういう問題じゃなくなってきた。家事ができるできないっていうか、問題があり過ぎる」
「心配性だな、兄弟は!」
「兄弟?」
 紗季は拳骨で静流の太腿を叩いた。
「ウチが保証する。もし雇ってだめそうなら姉御も納得するだろうし、一回持ち帰ってみればいいんじゃねえか。まあ何より、これは兄弟へのプレゼントってよりかはミアンナの姉ちゃんへのプレゼントだからなあ」
 主人へのプレゼントを、従者が勝手に破棄するのはルール違反だろう。五界でも同じだった。
 コメディアン色の強い二人が突然現れて不安ばかりが募るが、決定権のあるミアンナに委ねるしかないだろう。万が一雇用が決まったとしても、関わらなければいいだけの話だ。
 何も問題はない。彼らが問題を起こさなければの話だが。
「分かった。ミアンナに任せよう」
「物分かりのいい子ね。それじゃあ、今日は大体の話ができたから、もう三人で一緒に仲良く帰っていいわよ」
「三人で一緒にって、聞いてないんだが」
「また爆走した車で帰るのと、まったりした車で帰るのだったらどっちがいい?」
 究極の二択を迫られているようだったが、疲れたと称して車内で寝ればいいのだ。関わらなくていい唯一の方法だ。車内で殴り合いの喧嘩になることはないだろう。
 静流は立ち上がり、玄関まで歩いた。浮かない表情だ。
「次から話し合いをする時はあたしが自分から迎えに行くわ。今日はコーヒーを飲みたかったから紗季を行かせたのよ」
「そうしてくれ」
 静流が扉を開けると、開いた音に気付いたホロエが最初に立ち上がり、静流の前まで小走りで歩み寄った。
「あ、あの、挨拶が遅れてすみません。あたし、ホロエ・ミズーリって言います。今日からよろしくお願いします」
 殴っていた時とは打って変わって、健気な姿勢と笑顔で自己紹介をしてくれたホロエに、静流は適当に挨拶を終えた。
 遅れて起き上がった青年はホロエの横に立つと、震える右手を差し出してこう言った。
「俺は、カミツナギという名前で生きている」
 静流は手短に彼の右手と握手をして、外に停まっている車まで歩き出した。運転はどちらかがしてくれるのだろう。五界でも静流は、車を運転したことがない。
「ホロエ、運転を任せていいか」
「はあ? 昨日はあたしが運転したんだから、今日はナギが運転すればいいじゃん。サボってないでさ」
 じっくり考えた後、カミツナギは「一理ある、か」と言って車の運転席に座った。助手席には静流が座っていて、今度はシートベルトで身体を固定している。
 運転席でカミツナギは周囲を見渡して、ステアリングやペダル、その他スイッチ等を確認した後にこう言った。
「シズル殿は、運転したことはあるのだろうか」
「ないな。悪いんだが、運転はできそうにない」
 震える両手でステアリングを掴みながら、彼は言った。
「そうか。私も車を運転するのは初めてなんだが、頑張――」
 愚かなカミナツギは、一六〇キロメートル近い速度で急発進したおかげで言葉を最後まで言うことができなかった。車内には絶叫がこだました。
 車内で寝て過ごすという静流のささやかな反抗は、無に帰した。
 ホロエが何度もあちこちに頭をぶつけながら、爆走し続けて三時間は経った頃だろうか。ようやく目的地に着いて、静流はドアを蹴って外に飛び出し、そのままうつ伏せになって倒れ込んだ。大理石の冷たい感触が頬に当たっていて、心地よさを感じる。ウッズマンに到着したようだ。
「頼むから、ここで吐くのだけはやめろよ」
 キャスケット帽をかぶったオヤジが、高い床から見下ろしながらそう言った。
 静流に続いてホロエが仰向けになり、胸を膨らませながら大振りな呼吸をしている。カミツナギはといえば、車の中で眼を閉じながら、清々しい表情を浮かべたまま気絶していた。
「新参者の兄ちゃん、乗り心地はどうだったよ。その調子じゃ、行きも帰りもすったもんだって感じだろうが」
「行きで脳みそが左右反対になって、帰りで元に戻った。そんな感じだ。だが心臓が足に移動したような気がしてなんねェ」
「あの車は最大五百は出るからな。そっちの嬢ちゃんはどうだ?」
 ホロエは喉奥から絞り出したような声でこう答えた。
「てんてこまい」
「その様子じゃ、当分は動けそうにねぇな。吐かなければ、そこでゆっくりしてていいぜ」
 感謝の合図として、静流は親指を彼に向けた。声を出すよりも簡単で、苦しくない方法だった。
 地獄の拷問に近い時間だったが、静流は一つの可能性を感じた。この苦しみをトレーニングに加えれば何かしらの役に立つのではないか。体中あちこちぶつけて痛みを感じているが、痛みに慣れるという点では活用できそうだし、重度の疲労感も体力を高める結果に繋がるかもしれない。
 ボールを腹に落として腹筋を鍛えるトレーニングがある。車の爆走は五界では不可能だが、三界ならばその腹筋のトレーニングと同様に良い鍛錬になるのかもしれない。勝手な憶測だが、希望的な考えだ。そうでも考えなければ今の三時間が無駄になってしまう。
 車から降りて三十分もすれば、静流はようやく起き上がるまで体力が回復した。
「オッサン、そういえばあんたの名前聞いてなかったな。俺は黒川静流だ」
「日本人か。小さく感じたが、それなら納得だな。俺はスナグ・ジャンベリン。このウッズマンのオーナーをやってる。店員も俺だけだ」
「この店は左右のビルと連結しているようだが、なんの店なんだ。ただの車貸しか?」
「貸しもやるし、売りもやる。左右のビルは車を使ったレースの会社でな。左が車の部品管理を主に、右が車や会場の製造、宣伝をやってる。そんで俺は、選手達が扱う車の管理だ。前は選手しか使わなかったんだが、車に興味を持った旧人や人間が乗りたいって言い始めてから選手以外にも貸すようになってきたって話だ」
 地面と仲良くしている三十分間、客の姿は一人もなかった。
 静流はスナグの話に相槌を打つとホロエの横で座り、彼女の頭を自分の膝の上に乗せながら横を向かせ、背中を擦ってやった。
「おい、大丈夫か」
 まだ手足を震わせ、生暖かい息を吐いている。
「シズル、しばらくその子は再起不能だな。近くにちょうどいいホテルがある。ガタイのいい兄ちゃんもつれて、そこにいったらどうだ」
「これからやる事があるってのに。面倒くさいが、そこまで運ばせてもらうさ」
「案内がてら、俺も運ぶの手伝うよ。俺は兄ちゃんを運ぶから、シズルは嬢ちゃんを頼んだ。変な気起こすなよ」
「そこまで落ちぶれてねえよ」
 時間をかけてカミツナギを外に出しながら背中におぶったスナグは、店を出て「休憩中」という看板を掲げると、静流の先を歩き出した。
 店を出てすぐ右方向に進むと、五分歩いた突き当りに立派な旅館が見えた。玄関前で浴衣を着た、若い男性が箒を使ってゴミを掃っている。旅館は和風で、天井は瓦になっていて、数奇屋造りと呼ばれる日本の建築様式になっている。五階建てで城のように大きい。
「おう、コウキ! 今日も頑張ってるじゃねえか」
 スナグが彼に声をかけると、コウキと呼ばれた男性は愛想のいい笑みを浮かべてお辞儀した。
「どうも、スナグさん。いつもお世話になってます――今日は、三名分ですね」
「おう。今回は俺が金を払う。とりあえず十時間くらい、三人分の部屋で。食事は無しでいい、食えないだろうからな。女将さんには、俺のとこのいつもの客って伝えといてくれ」
「分かりました」
 男性は引き戸の玄関を開いて、箒とチリトリを持って中に入った。
「手続きはコウキがやってくれるから、後は部屋に行くだけだ。部屋はシズルに任せるぜ」
「勝手に入っていいのか」
「もう客が入ってるところは見れば分かる。後は好きな部屋に入るだけでいい」
「鍵とか、面倒な受付とかもいらないのか」
「鍵はお前の存在自体だ。分かったら、とっととこの二人を運ぶぜ」
 上手に意味を掴み取ることができない返事だったが、スナグの有無を言わさない行進が、静流の口を止めさせた。
 ちょうど三〇一号室から三〇三号室までが空いていたからその部屋を借りることにして、二号室にホロエを置いた後に三号室に入った。
 部屋は全部同じで、十二畳の上に正方形のテーブルや掛け軸。広縁(ひろえん)からは町の風景が見渡せるようになっている。スナグは押入れの中から布団を取り出して手際よく床に敷いていくと、その上にカミツナギを乗せた。
「よし、後はお前さんに任せてもいいよな」
「何とかするさ。面倒欠けて悪いな」
「いつものことだから慣れっこだよ。初心者は大体操作を間違えてこうなる。分かりやすいように書いてるんだがなあ、操作方法」
「もう少し工夫が必要かもな」
 静流はスナグに別れを告げて二号室に行くと、同じように布団を敷いてその上にホロエを転がした。
 既に眠ってしまっているようで、口から雫がこぼれていた。さっきあったばかりの人間をどうしてここまで世話をする必要があるのか、もはや理屈では考えないようにして、静流は雫を指で拭き取り、流し台で指を洗った。
 スナグは帰ってしまったようだ。静流は自分の部屋に戻り、三階からの眺めを窓から堪能してから畳の上に寝転がった。しばらく彼も、部屋の中でゆっくり過ごすと決め込んだ。
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