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文字数 5,721文字

 二回目の登校も、決められた町の通りを太陽の下、歩いて帰路を辿っていく。ディーグのことを一つ知れただけでも上出来で、次はグノーシスコンツェルンというものを詳しく調べる必要が出てきた。一介の人間がどう調べれば良いのかは材料に事欠けているが、まず最初にミアンナに尋ねてみれば良いだろう。
 ディーグのことを訊かなかったのは、ミアンナに計画を悟られないためだ。勘がいいのか悪いのかは掴めていないが、今ディーグのことを調査するとするならば、鬼退治に出掛ける小さな狩人くらい誰でも想像はつくだろう。ただ、鬼ヶ島について知るだけならば察される可能性は極めて低い。
 純粋な好奇心として物を訊くのだ。極めて冷静に。かといって、装うという不自然さを表に出さず。静流の得意技だった。殺し屋にとっては必須事項とも言えた。
 石ブロックのストリートを歩いていると、見慣れた顔が二人見えた。フェンとリーンだ。フェンは灰色の生地であり、二つの指輪が胸に描かれる上着を着ている。
 彼女は太い街灯の柱に背中をくっつけていて、リーンは上からの目線で見下ろしている。仲の良い友達、とは到底思えない光景だった。周囲を歩く旧人達は、二人の様子に構うことなくそれぞれ革鞄を持ちながら通り過ぎていく。様子が気にかかった静流は、二人の声が届く距離まで近づいた。灯りのついていない街灯の反対側で静流は背中を柱にくっつける。二人にはまだ気づかれていない様子だった。
「お前、生意気なガキだな」
 二人の顔が見られないせいで想像でしか物事が語れないが、リーンの声の調子は怒りに傾いていた。
「底辺のザコのくせして、私にくたばれって言ったか?」
「言ったよ。何か問題でもあった」
「問題なんて一つもねぇ。だがな、弱い奴が生意気抜かしてると無性に腹が立って仕方ねえんだよ。お前に教育してやる」
「単細胞なあなたが、どうやって教育するの? 無理だと思うよ」
 二人の性格が合わないことは、カウンセラーのように人間の心理を知っている者でなくとも分かることだ。リーンが単細胞というところに静流は同意し、反対にフェンは考えすぎる。どういう経緯から口論が始まったのかは不明にしても、登校二日目から喧嘩となると、今後の関係修復は絶望的だ。
 場合によっては、むしろ仲良くなることも考えられるが二人次第だ。
「簡単だよ。私は女だから、女がされて屈辱的なことは知ってる。五界でもさんざんな目にあってきたしな。お前も同じようにしてやる。あまりにも辛すぎて、壊れちまうかもなあ」
「いいよ別に、壊しても」
「はあ?」
「あなたの言った通り、私はクラスの中で一番弱いよ。だから誰にも必要とされないし、見向きもされない。友達もできない。唯一話しかけてくるエメージュは、父親気取りでウザいだけ。ああ、ごめん。ダメだやっぱ、私。こういう時でも自分のことばっか喋って」
 静かになったから、二人の表情がさらに分からなくなった。小さな子供達の群れが、サッカーの活躍について語り合いながら通り過ぎていった。
 ひっそりとした声が聞こえてきた。リーンの声だった。
「――壊していいとか、気安く言うんじゃねぇよ。壊れるって、要するに死ぬってことなんだぞ。フザけんな」
「いっそしにたいよ。こんな惨めな思いするくらいなら」
「だからさっきから言ってんだろうが。周りの奴らにザコ扱いされて、悔しいだろ! なら強くなれよ。死にたいって思うくらいなら、強くなれよ!」
「もう悔しくもないよ。弱いなら弱いままでいいじゃん。何がダメなの」
「あたしが気に食わないんだよ。弱いやつを平然とバカにする連中を見てるこっちが最悪な気分なんだ」
 単細胞に拍車がかかったような女だ。だがたった一つしかない細胞は、清らかな細胞だった。
「あたしも、五界ではイジメられてたよ。それがマジで悔しくて、鍛えて強くなって相手をボコボコにしてやった」
「じゃあリーンが私をからかってくる連中をボコボコにすればいいじゃん」
「あのクラスの連中をボコボコにできるのはシズルくらいだろうよ。それに、人に任せても意味がない。お前が強くなんないと、どこにいっても同じ目に遭うだけだ。本当に助けるっていうのは、周りの障害を取っ払うことじゃない。お前自身を強くしてやることなんだよ」
 静流は中学から通わなくなったから、学校のイジメ問題に静流は疎かった。それでも耳にはしていた。イジメとは、弱肉強食の世界ではない。多くの弱が、一の弱を食う世界だ。しかも伝染する。標的を周囲が知れ知るほど規模は大きくなる。規模が大きくなれば、行為もエスカレートする。リーンは知っているのだろう。だから、二日目にしてフェンを強くしたいと考えているのだろう。
「っていうか、ゴメン。正直お前がそこまで病んでるとは思わなかった。大変なんだな」
「弱いだけだよ、私が。私よりも辛い人はいっぱいいるから」
「そんなことねぇよ……。じゃあ、その。明日は道場でな。あたしが特訓してやるから」
「気が向いたらいくよ」
 リーンはぎこちない返事をした。どちらかの足音が遠ざかっていった。
 殴り合いの喧嘩になるならば止めに出る予定だったが、お役御免だと知れば静流も足を横に向けた。
「いつ出てくるのかと思ってたけど」
 静流に向けられた言葉だと分かり、彼は足を止めて空を見上げた。
「俺もプロとして失格だな。バレてたか」
「リーンの話を聞いてる時、よそ見をしてたらたまたまあなたを見たんだよ」
 二人は柱を背中に、互いの顔さえ見ずに話していた。
「喧嘩になるかと思った。雰囲気からな」
「別に、喧嘩になったところであなたにとってはどうでもいいことじゃない? もしかして、止めに入るつもりだったの」
「酷い殴り合いの時はな。なんか、放っておけなくなった」
「そう。じゃあ、私は帰るから。バイバイ」
 彼女はバイバイと口にしながら、足を動かさなかった。気配はまだそこに残っていて、静流もまだ歩き出せずにいた。
 何をどう言葉に表せばいいのか分からなかった。小説家なら、百の言葉を用いて状況を打破する発想力があるのだろうが、静流は今の自分の気持ちを表現する文字さえ分からなかった。風が幾度となく吹き抜けていく中で、沈黙だった。
 女性の扱い方は分からなかった。だから子供と女性は苦手なのだ。誰もが恐れるマフィアのボスと話すだけなら簡単だというのに。相手を怒らせない論理的工夫は染み付いていた。しかし女性においては、その論理的工夫を駆使しても機嫌を損ねることがある。数学の方程式を求めるよりも難しいのだ。
 これは女性に限った話ではなく、人間全般に言えることだ。ある時はX=Aの式で上機嫌になっていた男が、次の日にX=Aの式を唱えても不機嫌になる。人によっては怒りだすことがある。人間とは変則的なものなのだ。
 無口でいても、フェンは一向に帰ろうとしなかった。彼女から喋り出しもしなかった。
「俺の家、来るか」
 自信なく、弱々しく静流が言った。するとフェンは、上機嫌な口ぶりで「行く」と言った。
 先に静流が歩き出し、半歩遅れてフェンが続いた。ふと彼女の表情を窺い見ると、のろけたように口角は持ち上がっていた。目が合うと、静流は照れ臭そうに視線を逸らした。
 今の状況に違和感を覚えていた。静流の描いていた六龍という像は、他人を決して簡単に家に招き入れるような目をしていなかったからだ。現に、家に来るかと聞いた時には静流は誰かに言わされたように感じていた。白昼堂々と年齢的にはあまり離れていない男女が隣を歩く状況というのが、絶妙な違和感だった。
「明日、リーンと道場で稽古か?」
「うん。一応、行ってはみるつもりだよ。正直、家にいるより楽しいと思うし」
「なら少しでもマシな稽古になるように――今日は、組手に付き合ってやる」
 とぼけたように口を開けたまま横を向いたフェンは驚いている様子だったが、それ以上に静流も驚いていた。誰かに身体を乗っ取られたような感覚に襲われるが、紛れもなく精神は自分そのものだった。
「どうしたの」
「俺に聞くなよ。当の本人が一番よく分かってねえんだから」
「どこか頭をぶつけたか、今日は機嫌が良いのかどっちかだよね。口にしたからには付き合ってもらうけど、本当にいいの?」
「言っちまったもんは仕方ないだろ。ただ、あんまりにも付いてこられないようなら失格だ」
 当然だと言わんばかりに、フェンは胸を張って頷いた。
 今朝の失言を、やや後悔しているのだろう。静流は自分にそう言ってみせた。友達になるって言いながら、結果的には嘘になった。そして彼女を傷つけたことに、少なからず意識を奪われているのだろうと。であるならば、今日の組手は償いだ。
 街を出て、紫色の雲の下を歩きながら静流は家を目指した。フェンはスマートフォンを触りながら、無表情でモニターを眺めている。
「なあ美咲、そういえば――」
「うん?」
 最初、静流は自分の誤りに気付かなかった。フェンが何食わぬ顔で見上げてきたからだ。もう一度美咲という名前が喉から引っ張り出されようとした時に間違いに気付いた。
「悪い間違えた。組手の時のための着替えはあるんだろうな」
「うん、あるよ。いつものやつ」
 家に近付くやいなや、玄関扉が開かれてミアンナが出迎えた。「おかえり」という挨拶を豪快に、口を大きく開けて上機嫌に――ややマヌケにも思えるが――だしぬけに言ってみせた途端、ミアンナはフェンを見て何度か瞬きをした。頬を紅くして、口元で手を押さえたミアンナは、そっと扉の後ろに隠れた。
「どうした」
「いえ……、あの、フェンさんでしたよね。こんにちは。どうぞ、中へ入ってください」
 主人が恥ずかしそうにしているから、つられて静流まで気恥ずかしくなる。ミアンナが小走りで家の中に消えてくれて安堵した。
「ミアンナさんって、いつもあのテンションなの?」
「そういうわけじゃないんだが。何かいいことでもあったんだろ、多分」
 玄関を跨いだ二人は、ホグウの用意していたラム肉の燻製が入ったサンドウィッチを頬張り、水を飲むと静流の部屋に向かった。部屋のメイキングは完璧で、埃一つない仕上がりとなっている。静流は身に着けていたコートを脱ぎ、ワイシャツを脱いで、肩まで出た白のインナー姿に着替えた。フェンも黒いトレーニングウェアの姿になると、二人は互いに準備運動を始めた。両手を真上にあげなら、静流はこう言った。
「五界では、お前は何してたんだ。あー、つまり、どんな戦い方だったんだ」
「銃だよ。基本、銃だけで生きてきた。だから武術なんて知らない」
「どこで銃を学んだ」
「友達から」
 静流の身体は切創が至るところにできていた。まだ傷が痛む。ベルとの戦いでの傷は当然のことながらまだ癒えてはいない。
「パパを殺すために学んだの」
 二人の準備運動は終わり、向かい合って並んだ。静流が深呼吸をしていると、フェンは基本的な空手の構えを取った。足を後ろに引き、利き手である右手を後ろに両手を胸の位置に下げている。
 構えを見た静流は、簡単な物言いで告げた。
「足を開きすぎだ。もうちょっと縮めていい。後、膝をもう少し伸ばせ。曲げすぎだ――よし、その構えで前後に腰を動かしてみろ」
 言われた通りに、フェンは全身を使ってリズムをとるように、前、後ろと身体を動かし始めた。
「今までより動かしやすいだろ」
「うん。不思議な感じ」
「後、後ろ足は踵を浮かせてみてもいいかもしれないが、これは人による。さて、組手に入る前に戦いにおいて大事な要素は三つある。時間を与えるから、それらしいものを答えてみろ」
 腰の動きを止めながら、フェンは構えを解いて時間をかけた。そして彼女は三つの要素「力」「技術」「忍耐」と答えた。
「なるほどな。どれも間違いじゃないが、残念ながら強くなるには不正解だ。プロレスごっこをするならその三つがあれば問題ないんだが」
「ふうん。じゃあ、答えは?」
「呼吸、視線、それから円だ」
 武術の教科書に載っているかは静流は知らない。ただ、戦いの中で生き抜くために必要な三つの要素を静流はあげてみせた。
「円って、どういうこと? 他二つはまだ分かるんだけど」
「武術っていうのは、人為的な力と自然的な力二つに分けられる。ボクシングで言うところのジャブは人為的な、直線的な力で相手にダメージを与えるが、これは大したダメージにはならない。フェン、さっきの構えをもう一度」
 言われた通り、膝を曲げすぎず足を開きすぎず。フェンは構えを取った。
「その状態で、左正拳を打ってみろ」
 前足一歩踏み出すと同時に、息を吐きだしてフェンは左拳を前に突き出した。
「よし、次は右足を前に踏み出して右で打った後、時計回りに腰を動かしながら左でもう一度打ってみるんだ」
 後ろに引いていた右足を前に出し、フェンは右正拳を打ち、同時に左足を前に踏み出しながら回転し、左で突いた。
「腰の入った攻撃を与えるだけでも十分なダメージを与えることはできるが、そこに円を描くような動きを交えて拳で突けば、回転時に生じた自然エネルギーが加わり、そこまで大きな力を使わなくてもダメージを与えることができる。回し蹴り、後ろ回し蹴り、胴回し蹴りという言葉があるように、円を描く回転からの攻撃は大いなる打撃となる。この前の組手を見ていて、お前に圧倒的に足りなかったのは円だった」
「何となく理屈は分かった。けど、これで本当に強くなれるかどうかって言ったら、分からないよね」
「いいか、今教えた三つの要素は直接的には試合とあんまり関係なさそうに思えるが、厄介な相手はこの三つをしっかり守ってくる。武術の基礎を守る戦士が、一番厄介なんだ」
 竜の型、静流は構えをとってフェンと視線を合わせた。
「後は実戦だ。どんな時でも相手から目を離さない。呼吸を止めない、効率のいい円の攻撃。この三つを教えたうえで実践だ。先手はお前が取れ、かかってこい」
 らしくないと自分を演じながらも、静流は目の前の戦いに真っ向から向かい合っていた。フェンは微笑みを浮かべてから顔を引き締め、前足で床を踏んで左正拳を静流の胸に打った。
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