19-3

文字数 6,213文字

 喪失した右足を見て、静流は虚無感と戦っていた。見慣れたベッドの上で、右足には包帯が巻き付けてある。ディーグが去ってからカミツナギが静流を担いでベッドの上に乗せ、彼が一人になりたいと言って、部屋からは誰の姿も無くなった。包帯はところどころ黒くなっている。
 虚無感と戦うのはこれが初めてではなかった。だが毎度、打ち勝つ方法が分からずに苦労するのだ。
 ニムロドとの戦いの後にディーグが来ることは、想定しておくべきだった。今の自分では敵わない実力であると自分に言い聞かせ、どんなにミアンナに罵声を浴びさせても耐えることこそ、正しい道だったのだ。もし人間が理性だけで生きているなら、瞬時にそれを理解していたはずだ。
 後頭部に、枕の重みが乗る。
 足が痛くないのは、担当医が努力しているからだろう。だが、明日に控えている戦いまでに右足が治ることはない。義足をつけたところで解決にはならない。静流は義足をつけたことがなかったし、扱いこなす時間は用意されなかった。定められた敗北の運命にどう抗えばいいのだろうか。
 片足が無い状態で車椅子に乗り、みっともなく負けていく。高性能な、相手を圧倒できる技術が備えられている車椅子なら勝利へのチャンスはあっただろう。だが、時間がない。ミアンナが心血注いで作り出すスキルを使っても、互角になるかどうかすら分からない。
 ミアンナが気を利かして、波の音とピアノミュージックといったヒーリングの曲を流し始めた。家中に流れていることだろう。生きている中で最後に聴ける名もなき曲にしては、少し寂しい気はする。ただ心地が良かった。今はその心地よさが、何者にも代えがたい精神安定剤だった。
 だがこうも思った。フェンを救えなかった自分には、あまりにも優しすぎるメロディーだと。
 扉の奥から、ずっと人の気配がする。見張り番をつけた覚えはない。静流は向こうにいる何者かに声をかけた。入ってきてもいい、と許すと、声に呼応して健気に扉が開いた。
 ケビンとアイラ、二人だった。
「ごめんなさい」
 二人は揃ってそう言った。煩わしいと感じていた元気さは、今はどこにもなかった。煩わしくも、活力を与えてくれた元気さだ。双子がその様子だとどうも、違和感を覚えてならない。
「来いよ。二人とも」
 静流はベッドの端に体を寄せて、自分の隣を手で叩いた。そしてふと思い出した。これは、よく美咲が自分にしてくれていたことだと。
 飼い犬が飼い主に似るのはどうしてか。それは、飼い主を愛しているからだ。
 ケビンとアイラはベッドの横に座って静流を見下ろした。アイラは静流の手を握って、こう問いかけた。
「シズル、いなくなっちゃうの?」
「どうしてそう思う」
「右足がないまま、戦えないわ。でも明日は試合なんでしょ。こんな状態で戦っても、負けるだけよ」
 飽きるほど自分の中で正当化してきた事実を、アイラは言語にした。ミアンナも、誰もかれも触れなかった事実だ。
「勝つかもしれないぜ。人間は銃で撃たれれば、誰でも死んじまうからな」
 力無く静流が言うと、ケビンはこう返した。
「励まさなくてもいいよ……。シズル、僕たちにしてほしい事はない? なんでもする。むしろ、させてほしい。今までシズルと暮らせて、本当に楽しかったから」
「そんなこと言わないで!」
 アイラの手と声に力がこもった。
「まるで、明日お別れみたいじゃない! シズルがまだ負けるって決まったわけじゃないわ。私達はお別れを言いにきたの? 違うでしょ。シズルを励ますために来たんじゃない!」
「分かってるよ、アイラ。でも。じゃあどうすればいいんだよ。どうやってシズルを励ませばいいんだよ」
「絶対勝つって、祈ってあげるの! 信じれば奇跡は叶うって教えてくれたのはケビンだよ?!」
「でも僕は、むやみに希望を与えなくない! 奇跡を信じていいのは自分だけなんだよ。自分達だけなんだ。奇跡は起こると言うだけじゃ、足りないんだから……」
「私達は起きたわ!」
 三界にいるうちに、住人に毒されてしまったらしい。今は双子やミアンナ、フェン達との別れが必要以上に静流の心を痛めつけていた。ディーグへの憎しみは薄れている。
 人は目標や夢を持つ生き物だ。だがその目標の達成が絶望的になった時、復讐心ですら窶(やつ)れていく。花が枯れてしまい、乾燥した花びらが地面に落ちる。人間はその時、最も死に近付いている。
「ねえ、シズル。私は信じてるわ。明後日になってもシズルと一緒にいられること。シズルが居なくなるなんて、考えられないんだもん」
「アイラ……シズルも困っちゃうよ」
 アイラは、瞳に雫を浮かべながら言葉を続けた。
「今までどんなに絶望的でも、シズルは勝ってきたのよ。今回もそうでしょ、ね?」
 懇願するような目で、アイラは静流を見ている。自分は奇跡を信じている、静流は勝つという信念。アイラの表に出てきているその感情は、そう信じたいと願う心の弱さからくる感情だった。アイラも分かっているのだ。勝ち目のない戦いに静流が駆り出され、明後日になったらこの家から一人、人間が消えることが。
 静流は、ゆっくりと起き上がってアイラの顎が自分の肩に乗るように抱きしめた。
「ごめんな」
 揺れていた積木が、音を立てて崩れていく。崩れる音がした後に、アイラの目から大粒の涙が溢れだした。溢れ出して止まらなかった。やがてケビンも肩を震わせて、静かに泣きだした。
「ケビン、さっきなんでもするって言ったよな」
 顔を下に向けていたケビンは、赤い目で静流を見上げて頷いた。
「なら、ホロエやカミツナギと仲良くしてやってくれ。二人とも、良い奴なんだ」
「分かった。約束する」
「良い子だ」
 人は涙を流すほど強くなる、という言葉がある。悲しみを乗り越えた先に、本当に強さが待っているのならば、二人はホロエ達と仲良くできるはずだ。
 泣き止むまで、静流は二人の背中を撫でていた。少しでも一緒の時間を過ごしてやりたかった。ミアンナはどうしているだろう。自分の飼い犬がいなくなると分かって、顔を合わせる気もないだろうか。もっと有意義なことに時間を使うだろう。明日死ぬと分かっている人間に時間を割けるほど、彼女も愚かではないはずだ。
 この国を出て、別の平和な国で暮らしていけばいい。そうすればディーグによる悪意も、この国で行われている差別もなくなるはずだ。
 たくさんの人間達を、五界でも三界でも殺めてきた者の罰だ。明日は惨(むご)たらしく逝ければいい。七界での苦しみも、存分に味わうべきだ。静流は全ての覚悟を終えていた。恐怖がないかと問われれば、ないわけではない。七界という未知なる場所、魂を食われるという未知なる痛み。それらは怖い。
 しかし静流は、その恐怖心に対抗するのではなく受け入れた。自分の犯してきた罪を償えるのならば、恐怖心は些細な感情の一片でしかないのだと。戦士なら、戦士らしく最後まで在りたいのだ。
 気付けば、周りは静かになっていた。アイラとケビンが鼻を啜る音だけが聞こえる。アイラは静流と顔を近付けた。彼女の暖かな吐息を感じる。
「どうした、アイラ」
 静流がそう問いかけると、彼女は意外にも微笑みを顔に描いてみせた。
「なんだか、またシズルに会えるような気がするの」
「七界に売られてる俺を買うほど、ミアンナは金を持ってないぜ。デチュラもな」
「それでもまた会える気がする」
 アイラはケビンの手を取ってベッドから降りた。
「今、するべきことが分かったわ。ホロエ達と仲直りしてくる。シズルのために、パンケーキを一緒に作ってくるの!」
 ケビンは面喰った顔をしたが、呆れたように苦笑して静流を見た。
「行ってこい。俺はちょっと外に出るから、完成した頃に戻ってくる」
 半ば強引にひかれるようにケビンは連れていかれ、二人は部屋を後にした。静流はサイドテーブルに乗っていたジンの酒瓶を持つと、ミアンナが用意してくれた松葉杖をついて歩き始めた。
 向かった先は、霊扉(れいひ)(かく)だ。フェンと一緒に美咲の家へ行った時に通った場所である。静流は記入用紙に座標や決まりごとの承諾等を了承するとすぐに扉へと向かった。
 前と同じように扉の先には五界があった。慣れた土地を歩くのはやはり、心から安心できるものだった。幽霊であっても。静流はジンを飲みながら、少しずつ美咲の家を目指していた。夕暮れになっていて、赤い太陽が周囲を映し出している。雪解け水が道路を流れている。
 美咲の家に向かおうとすると、買い物袋を提げて厚着を羽織っている美咲が横を通り過ぎていった。静流は追いつこうとして、少し早めに両手を動かした。
 肩を並べて歩いていると、今も自分は五界に住んでいて、美咲と一緒に買い物を行った帰りだと錯覚する。もし戦いで右足がなくなったなら、美咲はどうしてくれるだろうか。想像はし難かった。美咲がどんな風に喋り、笑い、悲しむか。記憶の中でしか笑わない彼女。静流は自分の想像力の無さに何とも言えずにいた。
 家に着き、美咲は鍵を開けて中に入る。中に入ったら靴を脱いでスリッパを履き、冷蔵庫の中に買ってきた食材をしまう。息つく間もなくすぐに料理に取り掛かる。リビングにテレビはあるが、美咲はテレビではなく大きなスピーカーからクラシックの名曲を流していた。今流れているのは、アヴェマリアだ。
 名曲を聴きながら、静流はソファに座った。机の上には、システマというロシア武術の教室のチラシが置かれている。それ以外にも、小さな本棚の中には格闘技に関する書物が詰まっていた。
 酒が進むにつれて、だんだんと静流の視界はぼやけ始めた。いつもより酔うのが早いのは、右足が無くなったことと関係があるのだろうか。
 美咲に会いたくない気持ちと、会いたい気持ちと。二つの矛盾した心が揺れ動いている。包丁で玉ねぎを切る音を聞きながら、静流は頭を抱えた。会っても話ができないし、触れることも、キスをすることさえできない。それどころか、美咲は他の男と繋がってる。
「一人になるには、これ以上ない場所だよな」
 淡々とした料理風景を眺めていると、玄関の扉が開いた。ただいま、と野太い男の声が聞こえてくる。
「おかえりー、スタラ。今日は早いんだね」
「契約先の事務所とちょっと色々あってさ。これがまた大変、お堅い爺さん相手なんだわ」
「はあ。大変そうね」
 姿を見せたのは、写真に写っていた男と同じだった。それから二人は他愛もない会話を楽しそうに話しながら過ごしている。とある家庭のなんの変哲もない日常の風景だ。静流は、さっきよりも多くの酒を飲んだ。
 自分でもどうしてここに来たのか分からなくなるほど、飲んだ。
「あ、ごめん。そういえば帰りに牛乳を買ってくる約束してたよな。完全に忘れてた」
「くす、そうじゃないかと思ってね。私が買っておいたの。だから心配しなくていいのよ」
「美咲、もしかして俺が買い忘れること分かってて朝言ったの?」
「だって買い忘れて謝る時のあなたが可笑しいんだもの」
 静流は黙って立ち上がった。
「ごめんな」
 静流はそう言って、二人の何気ない日常を邪魔しないように三界へ帰ることにした。
 テレポート装置が働いて、ミアンナの家の前だ。前回はこの後にフェンがロビーに撃たれてしまった。だが今は、そんな荒々しい出来事に備える必要はないだろう。ディーグはそんな刺客を送らずとも、明日で芽は摘み取られるのだから。
 中に入ると、ミアンナが待ち受けていた。ミアンナの両手には、静流のために用意したであろう義足があった。
「これで、少しでも……」
 ただ、静流は柔らかな眼差しをミアンナに向けた。
「もういいんだ。俺が間違ってたんだ。ディーグを倒し、この国を変えようとした俺が間違ってた。明日はその罰を受ける」
「シズルは間違えましたが、だからといって居なくなったら私が悲しいです」
「俺の代わりはいくらでもいるだろ。それか、俺が居なくなったらこの国を出られる。俺が枷になってんだろ」
 ミアンナは首を横に振った。
「あなたの代わりはいません。私はこの国を出ません。私だって、シズルと同じようにこの国を変えたいと思っています、心から。だから、受け取ってください。お願いします」
 静流は義足に手を伸ばして、しかし途中でやめた。
「――悪い、もう疲れた」
 家の中で鳴っていた波の音は止まっていて、代わりにホロエとカミツナギ、そして双子の楽し気な声が聞こえてきた。早くも約束を守っているようだ。リビングからカミツナギが顔を出し静流を見ると、一目散に駆け寄ってきた。
「シズル、皆でケーキを作ったんだ。思った以上に美味しいものができてしまった。ぜひ食べてほしいのだが、どうだろうか」
「ああ、頂くとしようか」
 静流はミアンナを見た。彼女は義足に目を落としていた。
「お前はどうするんだ」
 呼びかけられると、鼻を啜ったミアンナは二人を見るなり、目を細くして微笑を作ってこう言った。
「食べます」
 いつもは諦めの悪いミアンナが、今日に限ってはいやに素直だった。彼女も覚悟を終えているのであれば、その素直さは静流を納得させるに値する。
「ですが、少しだけ自分の部屋に戻ります。すぐに行くので、待っていてください」
 カミツナギに連れられてリビングに向かう静流を見送ってから、ミアンナは階段を上って自分の部屋へ向かった。
 リビングの中はパーティの雰囲気に包まれていた。ふわりと浮く風船がどこかに飛んでいてもおかしくないほどに、ぬいぐるみが手を繋いで踊っていても違和感のないほどに。机の上には三段にも積み重ねられたケーキが乗っていた。カミツナギが料理の腕を、ここぞとばかりに披露したのだろう。
「二段目は全部私が作ったんだよ」
 ホロエは、静流にそう自慢してきた。静流は「すごいな」とだけ淡泊に返すと椅子に座った。
 もしこれが、自分のために催された最後のパーティならば。静流はそう考えて、やめた。自意識過剰だと思えたからだ。自分は所詮、犬に過ぎない。飼われただけなのだ。このケーキは、アイラとケビンのために作られたケーキだ。
(相棒、前を見てみろ)
 俯いていた静流は、心の中の声に諭されて前を見た。すると、静流の目の前にあったケーキの一段目には長方形のチョコレートが乗っていて、そこには文字が書かれている「シズル、ありがとう」と。
 バカだな――誰の声にも聞こえないように静流は小さく呟いた。頼んだわけでもない優しさが、無常にも静流の胸を締め付けた。一ヵ月と少ししかいない世界だというのに、思い出ができすぎた。
 静流は、楽しそうにケーキの飾り付けをし始めたホロエ達を見た。
「ここにあったイチゴ、誰か知らない?」
「それなら僕が知ってるよ。そのイチゴは、アイラのお腹の中にあるんじゃないかな」
「ちょ、ちょっとケビン! なんで知ってるのよ?!」
「見えちゃったもんは仕方がない」
「それなら、私がイチゴの代わりに餃子をのっけておこう。きっと、これは何かの役に立つはずだ」
「餃子は! イチゴの代わりに! ならないのよ!」
 静流はそっと、一段目のケーキを摘まんで食べた。それは美味しいという感想以上の味を誇っていたが、それ以上に四人の応酬が静流の顔を綻ばせた。
 最後に見る景色にしては、これ以上ない絶景だ。自分の好きな人々が、楽しそうに話しているのだから。
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