8-3

文字数 4,996文字

 左正拳を肩で受けた静流は、伸びきった腕を前手で掴んで前に引き、フェンのバランスを崩して右裏打ちを斜めから肋骨に打った。大きく後ろに引いて間合いの攻撃から外したフェンは、基本構えの姿勢を取り戻して、一気に接近してきたかと思えば、膝を大きく曲げて静流のボディ目掛け左で突く。左手を引くと同時に腰を回しながら立ち上がり、右正拳を静流の顎に打つ。
 やや怯んだ静流には隙ができたが、顎を打つ右手に重苦しい痛みが走る。
「顎を打つ時は掌底だ。拳で打ったら痛いぞ、慣れない内はな」
「そんなの、知る由もなかった」
「初心者なら仕方ない。ほら、もっと来い。疲れたってわけじゃないんだろ」
「まさか。勝負は始まったばかりだよ」
 近接範囲に入り込んだフェンは、前蹴りで静流の顎を狙い、静流は上半身を後ろに動かして回避した。彼は前に体勢を戻すと同時にボディアッパーでフェンの肝臓付近を打ち、フェンはその場で膝をついた。喘ぐように呼吸をした後、引きつった表情で立ち上がり、速度の落ちた左正拳を直線に繰り出す。静流は左で弾き、右掌底で頬を殴打する。
 すかさずフェンは腰を丸めて横を向きながら、体全体で静流に短く突進する。後ろに押された静流は後ろ足を踏みしめて、右裏拳をしゃがんで回避すると同時に、右手でフェンの膝を突く。痛みで下を向いた彼女の両手を掴んだ静流は、そのまま上に持ち上げ、顔を近づけた。
「視線。俺から目を離すな」
 そう言ってから右手を放して、力強い右正拳でフェンの額を突いた。上を向いたフェンはゆっくり後退り、地面に仰向けに倒れた。開きっぱなしの口で息を整えながら胸を前後に動かしている。
 勝負がついて、静流はベッドに腰かけた。
「初めてにしては、そこそこできてたんじゃないか」
「もうちょっとマシなお世辞が言えたらよかったのに」
「本音だ。筋は悪くない。狙う場所が顎っていうのはよかったし、基本的な体勢に問題はなかった。左正拳から始動したのも評価する。素人は強い攻撃をまず最初に当てたがるからな」
 距離によっては強い攻撃から入るのも間違いではない。タイミングによるから、例えばストレートや後ろ回し蹴りといった隙の大きな技を一番最初にするのは達人と呼ばれた者でなければ、すぐに鎮圧されるのだろう。達人は行動の全てにおいて、速さが桁違いなのだ。
「私はまだやれるよ。続きやんない?」
「これ以上はお前の身体に、無駄に負担をかけるだけだ。俺もだいぶ手加減したが、それでもキツそうだしな」
「そう。じゃあさ、私にアドバイスするとしたらなんだと思う?」
「最初、左で打った時に俺に腕を掴まれたろ。攻撃は打ったらすぐに引け。腕を掴まれないためだけじゃなく、引きが早いと相手のボディや顔に当たった時にダメージが残りやすい。お前は引くのが遅かった」
 理屈は分からないが、静流の経験則だった。
 冷蔵庫の中から二人分のペットボトルを取り出し、静流は片方をフェンの顔の真横に置いた。中身はいたって普通の水だ。毎日ミアンナが補充してくれるもので、ペットボトルにはマジックペンで補充した日付が書いてある。六角形の平面の形をした透明のペットボトルだから、黒い文字がよく目立つ。
 起き上がったフェンは、口をつけて中の冷たい水で口内を潤した。
「肝臓、それから脳にダメージがいった。六時間くらいは安静にしてろ」
「手加減したって言ってたけど、結構痛かったよ」
「どこをどう攻撃されたらどう痛いのか。人間それを知る必要がある。肝臓が痛いっていうことが分かって、次から回避するためにどうすればいいのか、人間は無意識にも学んでいくもんだ。痛みによる記憶と学習もトレーニングの一環だぜ」
 人間の基本的な感情として、痛みや苦痛を嫌う方向にある。これは、戦いにおいて一番重要な感情だ。痛みを全く感じないとは、内臓を常に曝け出しているのとまったく同じ状況なのだ。痛いから避けるとは当然に思えて、致命傷を避けるための最も合理的な手段なのだ。
 気づけば扉に隙間ができていることを知り、静流は扉の方向を見た。上下に一つずつ、小さな目が見えた。ケビンとアイラだ。
 目があった二人は扉をゆっくりと開け、中に入ってから音をたてないよう慎重に閉めた。
「やけに畏まって、どうしたんだよ」
 二人は目を合わせて、アイラがこう言った。
「ディーグが、来てるわ」
 弛緩していた空気が、氷ってしまったかのように緊張していた。フェンはディーグという名前を聞いても心当たりはないようだ。幸運なことだが、表情の変えた静流を見逃さなかった。
 酒を飲んだ静流は、アイラに返事もせずにフェンに言った。
「お前は一歩もここから出るな。分かったか」
 怒り。静流の持ち合わせていた感情で、最も適当な表現が怒りだった。
「どういうこと? ディーグって誰なの」
「知らなくていい」
 上着を着た静流は、壁にかかっていた銃のホルダーに二丁の拳銃を入れて腰に巻いた。扉を開けると、逃げ込むようにアイラとケビンが室内に入ってきて、横を通り過ぎる静流の手をケビンが掴んだ。
「何をするの?」
「話をつけてくる」
「話をするだけなら銃はいらないよ。シズル、やめたほうがいい。酷い目にあうのはシズルなんだよ」
「上等だな」
 怒りに任せてケビンの手を振りほどいた静流は、扉を閉めて廊下を歩いた。すると、すぐに声が聞こえてくる。前回と同じように、静流は階段の上から耳を澄ました。
 聞き慣れた、聞きたくもない声が室内を闊歩している。
「考えたんだ。俺はもう少しで過ちを犯すところだった。愛しいホグウを失うのはやっぱり辛い。だから引き取ることにした」
 様子を窺い見た時、静流は息を呑んだ。三十人もいるだろう、男達がミアンナとホグウを取り囲んでいるのだ。二人に近付くことはおろか、中央にいるディーグにさえ拳は届かないだろう。ここでディーグを倒せれば話は早かったというのに、それができずにいる。
 部下を一人は倒せるだろう。だが、ディーグは部下を贔屓目に見ていることは分かっている。部下を失ったから、代わりにホグウを補充する男なのだ。下手に倒したら、今以上に状況は最悪になることも考えられるのだ。到底、一人で三十人を相手にするのは不可能だ。
 ディーグと目が合った。彼は勝ち誇ったように、笑った。
「それでいいよな、ミアンナ。うん?」
 奥歯を噛みしめるように、ミアンナは頷いた。
「賢明な判断だ。命を奪うのは簡単だが、生かすのは非常に難しい。正しいことをした自分を誇ってもいい」
「いつ、返してくれるんですか、ホグウは」
「使い物にならなくなったらすぐに返す。前と違ってやさぐれるかもしれないが、些細なことだ。じゃあ、もらってくぜ。他にも、俺への供え物をお預かり」
 今の言い方が合図だったかのように、部下たちは蜘蛛の子を散らすように家の中を歩き始めた。ミアンナは拳を作って、ディーグを睨んでいた。
「ほら、仕事だお前ら。キビキビ動け」
 一言も発せず、悔しげに立ち尽くしていた。
 階段を登ってきた部下たちは、その場で壁に腰かけている静流の横を通り過ぎて、鍵のかかった部屋を銃で壊して中に入り込んだ。三人ほどの男達は、絵や菓子袋を持って出てきた。あの菓子袋の中に入っているのはおにぎりだった。
 十分ほど作業をしていた男達はディーグの口笛に引き寄せられ、再び玄関ホールに集まった。
「いい仕事をしたな。それじゃ、ミアンナ。良い一日を」
 男達が持って行った荷物の中には、ミアンナの部屋にあった水槽も含まれていた。中身は空っぽだった。
 玄関扉を開けて、ディーグはホグウの手を掴んで外に歩いて出て行った。静流は銃のグリップに手を置いたが、最後の部下が扉を潜るまで、ついに抜くことができなかった。
 慎重と言えば慎重だった。だが静流は、自分の不出来を弱さと言って呪った。
(相棒、今は何も考えるな)
(六龍……何が六龍だよ。戦いもしないで見ているしか能がなかった)
(しょうがなかった。怒りに身を任せず、下手に出なかっただけでも相棒は偉い)
 茫然としていたミアンナは、ずっとその場に立っていた。まだ男達に囲まれているように、微動だにしなかった。静流は階段を下りて、彼女に近付いた。
 泣いているでも、怒っているでもない。ミアンナの肩は微かに揺れている。彼女の背中は、何よりも寂しそうにうつった。彼女にとってホグウがどんな存在だったのかは分からない。だがホグウがどんな性格だったのかは静流はよく知っている。
 真面目で、いつも笑顔だった。毎朝挨拶はしてくるし、妙に格闘技について知りたがっていた。人懐っこい一面もあった。ホグウの代わりが務まる者はいるのだろうか、それさえ不明だった。完璧とは呼べないが、心を温めてくれる執事だった。
 二人は付き合いも長かったのだろう。
「悪い。何もできなかった」
 ゆっくりとミアンナは振り返り、前を見た。
 そうしてもう一度、今度は身体ごと振り返って、静流の側まで来ると両手で腕を掴み、俯いた。
「旧人に選ばれる条件というのが、あります」
 涙を押し殺すような声だった。
「五界で限りなく多くの徳を積み、認められた者だけが旧人として三界に召喚()ばれるのです。ですから、基本的に三界に住む人々は温厚で、争いなんてものは生まれません」
 悲しい気持ちは、静流も同じだった。そこまで長い付き合いではなかったというのに、もう十年も付き合った親友が死んでしまったかのように心臓が重たかった。
「ですが、人間同士を戦わせるゲームが流行ってからというもの、ディーグのような旧人が増え始めました。私は、心底失望しています。旧人も、結局は人間でしかなかったのかと。五界にいた頃は、天国があると信じて生きてきました。神様を信じて、毎日祈りを捧げ。苦しい現実から逃れながら、精一杯生きてきたつもりです」
 彼女がどの時代に生きてきたのかは検討もつかない。大昔に生きてきた人間なのだろう。そして、大昔も今も現実が厳しいという事実は変わらないのだ。
 毎日捧げている祈りだけが、天国が彼女の心を支えてきたに違いないのだ。
「苦しいだけの時間を超えて老いて死に、着いたのが三界でした。私以外の旧人も、ほとんどが同じような境遇を辿っていたでしょう。徳を積むというのは、それだけ辛く厳しいことなのです。私は天国を信じて、苦しい道を生きました」
 彼女は静流の腕を強く掴んだ。
「それが、この有様はなんですか。五界にいた頃と変わらず、旧人に階級があり、上は下を虐げる。法があり、ルールがある。本来なら、旧人に法律は必要ないのです。私が悲しいのは、ホグウを奪われたからでも、家具を持っていかれたからでもない。同じようなことが、毎日平然と行われていることです」
「無理すんな。お前がホグウとよく喋っていたのは知ってる」
「――それじゃあ、私はただの駄々っ子みたいじゃないですか」
「無理してカッコつける必要はない。我慢しすぎると、本当に悲しい時にも泣けなくなるぞ」
 人間の持つ感情は、本来ならば抑制すべきではない。男なら泣くなと静流はよく父親に言われて育った。だが、レオナルドの死に立ち会った時に静流は泣くことができなかった。友人に涙を捧げられなかったことが、静流にとって後悔として刻まれたのだ。
「私は、毎日が不安です。この国に来てからずっと。だから強くあれと言い聞かせてきました。今更、その誓いは破れません」
「泣かないことが強いのか? 違うだろ。大事なお友達のために泣いてる女を見て、泣き虫だなんて言う奴のほうが、よっぽど弱いさ……」
 ミアンナは片腕で自分の目元を拭いて、前を見た。
「そうかも、しれないですね」
 そう言ってほがらかに笑みを浮かべてみせると、彼女は玄関から表に出て真っ直ぐ歩いて行った。静流は後を追わずに、階段から自室へ戻ることにした。
 まだケビンもアイラも、ホグウがいなくなってしまった件を知らないだろう。いつかは知ることになる。きっとアイラは泣くだろう。
 雨が降ってきた。窓に打ち付けるほどの大雨だ。陰鬱な雨だ。
 自室へ戻り、扉を開けると三人とも人形で遊んでいた。ケビンは、やや照れながら人形に声を当てていた。静流が戻ってくると、ケビンとアイラは立ち上がった。静流は顛末を告げた。
 家の中にも雨が降り出した。二人分の、大雨だった。
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