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文字数 5,115文字

 五界を覗きにいく静流を見送ってから、ミアンナは自室に戻って片手でカスタードパイを頬張りながら、新たな問題について考えていた。椅子に座り、足を組みながら買ってきたばかりの綺麗な本を広げる。本のタイトルは「これだけ知っておけばいい育児法!」と大見出しがついていて、この本がいかに母親向けであるかを小さな文字で語っている。
 今更育児方を学ぶ必要が出てきたのは、カミツナギとホロエが原因に相応しい。
 ホグウが居なくなり、デチュラの提案で新たな執事とメイドを二人雇うことになった。ミアンナは家が賑やかになることに不満はなかったが、送られてくるのはホグウと同じ人間だということを不安視していた。ホグウとは目を見て話すまで一ヶ月は要したせいだ。
 ホグウとは全く種類の違う性格である二人と最初に挨拶を交わした時、カミツナギが一番最初にしてみせたのはミアンナの、手の甲への口づけだった。何を隠そう、人見知りであるミアンナにとっては驚くべき挨拶であり、妙に興奮した。自分を主と無条件で認めてくれる嬉しさとその場から逃げ出したい感情が合わさって、走って静流の所へ行った。自分でも驚くほど足が速く感じた。
 普段、旧人も人間も頭の中で即興で台本を作って話すものだ。今日のランチはどうしようか、それじゃあレストランに行こう。この二人のやり取りに関しては、頭で考えて言葉を発したものと考えていい。だが、ミアンナが静流に言った彼らを雇うという言葉に関しては、頭で何も考えていなかった。
 静流の困惑した顔を見た後は、ミアンナはもう一度階段を下りて深呼吸をしてから、改めて挨拶をした。
 彼らに部屋を案内した後、ミアンナは高鳴りの収まらない旨を片手で押さえ、自分の部屋に入り、今と同じ椅子に座って机に突っ伏していた。
 本を読みながら無意識にもその時の情景を思い出し、頬を熱くしてしまうくらいには脳裏に焼き付いている。
 問題が起きたのは二人が家に来てからすぐだった。突然の来訪を認めなかった者達がいたのだ。
 それは双子のケビンとアイラだった。二人は、ホグウの執事という枠をホロエとカミツナギが奪ったという思考回路になってしまっているようで、二人に対して明らかに不満気な態度を見せているのだ。静流の第六の試合が終わったその晩も、ご飯は食べるもののホロエが話しかけても淡々とした人形のような返事をするだけで、彼らの大好きなオムライスを食べ終わるとそそくさと自分たちの部屋へ戻って行った。
 ホグウが帰ってくると待っていた双子にとって、新たな存在は必要ないのだ。帰ってくることをただ待ち続ければいい。これでは、ホグウが帰ってきても居場所がないではないか。
 二人を認めたミアンナのことさえ、双子にとって苛立ちを感じる他なかった。
「ホグウが帰ってくるまで、私達には家事をする人達が必要なのです。あの二人は、ホグウの代わりではないんです。誰にも代わりなんて、務まりませんからね」
 そう言って二人の苛立ちを抑えようとしたが、ケビンは背中を向けてこう言った。
「オムライス、ホグウの方が上手だった」
 本を見ながら、ミアンナは頭を抱えた。小説は読み慣れているが、教本というものには一切手を出してこなかったせいか、勝手が違って集中力が分散してしまう。
 どの項目を見ても現状に答えを出してくれるようなものは一切見当たらず、返そうかと考えを巡らすミアンナの親指の側にあるページ数は三十と書かれていた。
 結局人の心というのは、研究すること自体愚かなのだ。人生に教科書がないのと同じように、人間関係に教科書はない。自分の経験で切り開いていくものだ。なぜ本を買ってしまったのか、ミアンナは自分の行いに理由を見出そうとして失敗した。
 本を買って辿り着いた先にあったものは、諦観の溜息のみ。
 そもそも、介入するべき問題ではないのだ。時間が経つに連れてケビンとアイラも理解してくれるだろうし、ちょっとした出来事が切っ掛けで嫌悪が好意に変わることもあるのだ。好きの反対は嫌いではなく、無関心なのだから。
 家の中を誰かが歩いている。馴染みない足音だから双子ではないだろう。ホロエかカミツナギかのどちらかに違いない。階段を下りて、リビングに向かっている。
 途端にやることが無くなって、ミアンナは退屈になった。人間関係の修復をできなかったことによる無力感も合わさって、無気力だ。彼女は意味もなくベッドに身体を放り出して、片腕で腕枕をした。木製の扉が眼に映っているが、ミアンナは扉を見ていなかった。
 ぼうっと、気泡のように浮かんでは消える考え事に身を委ねていた。家事も仕事も、創作も鑑賞も今は必要ない。一人になって訪れる安心感とも呼べる柔らかな時間に、朧気な感情を乗せておくだけでいい。退屈に興じるこの時間というのは、ミアンナは嫌いではなかった。
 退屈も使い方によっては、自分への褒美の時間になれるのだから。
 微睡が舞い降りてきたところでミアンナは起き上がり、壁にかかったガラス細工の丸時計を見て三十分経ったことを確認すると、自分の部屋から出て一階へ降りた。
 玄関を箒で掃除していたカミツナギは、ミアンナを見るなり礼儀正しく体を一直線にした。
「出掛けるのか」
「少しお散歩です。街の活気に当てられて、気分をスッキリさせようかと思って」
 するとカミツナギは何かしらを考え始めた。顎に片手を当て、片目を瞑って顔を地面に向けているのだ。
 沈黙。二人の間に天使でも通っているかのように、喋ることが罪だと言わんばかりの静けさがミアンナを動揺させていた。やがて彼女は沈黙に耐え切れず口を開きかけて、カミツナギが先にこう言った。
「終末のラッパを買いに行くというのか」
 今の沈黙は、弥縫策(びほうさく)ではなかったということを念頭に置くことにした。彼は迷いに迷って、ミアンナの散歩を大きく勘違いしたのだ。きっと、彼の頭は七色の神経が通っているのだろう。
 返事の言葉さえ見当たらず表情が止まったミアンナを見て、カミツナギはこう続けた。
「イナゴを、いくら買うというんだ」
 ついに、彼はミアンナに背中を向けて独り言として話し始めた。
「そうか。黙示録に書かれていたことは、全て事実だったというのか。いや、それだけでない。あれは予言書のように扱われているが、そんな物じゃない。人類は過去に幾度かの破滅と創世を繰り返している……。ヨハネの黙示録は予言ではなく、神からの忠告だ。聖書を読めばわかる。なぜ天使はラッパを吹いたのか。そして自ずと、悪魔よりも人間を殺している天使の存在意義が分かってくるはずだ」
 両手に錘が乗ったように下げながら聞いていたミアンナは、突然カミツナギが振り返ると、ぎょっとして一歩後ろに退いた。
「我が主よ」
「は、はい?」
 思わず声が上ずってしまう。
「感謝する」
 そう言って再び手の甲に口づけをしようと構えたため、ミアンナは更に一歩退いた。
「そ、それもうしなくて大丈夫です、最初の一回だけで。それじゃあ私、お散歩に」
「もうおやつの時間だ。何も食べていないからお腹が空くだろう、待っていてくれ、今すぐ何か作ってこよう」
「いえ、私そんなお腹空いてない――」
「待っていてくれ、我が主! 今に最高のスウィーツを用意し、必ずや満足させてみせよう!」
 静止を振り切って、彼は厨房へと行ってしまった。
 町に出れば、様々な出来事が発生する。例えば旧友にあったり、知らなかった商品に出会えたり。
「思わぬところで、足止めされてしまった」
 誰もいない空間に、ポツリと葉っぱのように落ちていく声。良い面を見るならば、美味しいおやつに出会えてよかったと考えもできよう。ミアンナは外へと歩き出そうとしていた足を、そっとリビングに向けて歩き出した。
 リビングの長椅子に腰かけて、ミアンナは一息落ち着かせた。
 いつになれば、静流に尋ねられるのだろうか。彼の心に飼われている者について。聞かなければならなかった、想定外のことだったからだ。
 訊く勇気がない。せめて自分が精神的に成熟していれば、もう少し早く尋ねられただろうか。先週も同じことを考えて堂々巡りをして、何も変わらずに日々は過ぎていく。静流が来てから二週間は経とうとしているのに、心の中に閉まっている勇気は隠されたままだ。
 今日もまた同じことを考えるのだろうと呆れた時、小気味いいチャイム音が思考を止めた。
 玄関を開けると、同時に胸から血を流したクラッセルが勢いよく入り込み、胸を抑える右腕を地面にぶつけた。咄嗟にミアンナは扉と鍵を閉めた。
「ど、どうしましたか? 大丈夫ですか?!」
「僕は大丈夫、だが、シズル君が危ないッ」
「酷い怪我……誰にやられたっていうんです?」
狩人(ニムロド)だ。奴らが、シズル君を狙ってる」
 外の世界に疎くて平和嗜好なミアンナは、一瞬だけニムロドの意味が分からなかった。クラッセルの血が地面に落ちた時、ようやくニムロドが、残忍な殺戮者の集団であると気付いた。
 彼らの思想こそ表には出ておらず、行動理由も不明だが、この世界に連れてこられた人間達を片っ端から排除しているのだ。あろうことか、ニムロドは人間達のグループでできていた。自分の玩具が標的になることを恐れたディーグがニムロドを買収してからは表立った事件は起きていないが、ディーグの命令で不都合のある人間を標的にすることもある。
「どうして、シズルが狙われているって?」
「奴らは集団で学校に押し寄せてきた。そしてシズルを出せといってきかない。僕は猛反発した結果、これだよ。旧人に効く弾丸でね。ああ、チクショウ……」
「今ニムロドはどこに?」
「僕の血の跡を追ってきているだろうな、腐っても奴らは狩人だ。獲物の場所は分かるだろう」
 起き上がったクラッセルは、階段を上って二階の窓の下に身を潜めた。ミアンナも彼に続きしゃがむと、クラッセルの手首を握って脈を計った。
 心拍数が高く、呼吸も乱れている。
「シズルはどこにいるんだろう」
「今は五界にいってます。用事があるって」
「なら、連絡手段は何かないかな。今帰ってこられるのは非常にマズい」
 あいにく、静流は携帯電話を部屋に置きっぱなしにしているし、それ以外に連絡を取る手段も今はない。
 ニムロドは目的達成のためなら手段を選ばない。更に年々実力を付け始めて、並大抵の人間なら簡単にやられてしまう。凶悪であり、強力な殺人集団なのだ。
「相手は何人でしたか? 一人ですか?」
「一人だった。目的は話さなかったな」
 相手の目的が分からない以上、静流の抹殺と断言するのは早計だ。だが、クラッセルの血が物語っているのは静流の未来でもあるような気がした。連絡を取る手段がない今、するべきことは今すぐ走って静流の所へ向かうことだろう。外には敵がいるのだろうが、静流の身を危険に晒すよりは多少の犠牲を払うべきだった。
 それに、人間に旧人を殺すことはできない。傷つける武器はあっても、旧人の寿命は他人の手では操れないのだ。
「先生、私がこれから静流の所へ向かいます。先生はここで待っていてください」
「危険だ。もう町を出て、この家まで近いかもしれないのに」
「どっちにしろ危険なのは同じです。何とかして静流に伝えなければならない。行ってきます、私は何だか狙われないような自信があるので」
 階段を駆け下りたミアンナの中に湧き出ていたのは、チャンスを得る勇気だった。この出来事が自分を強くするかもしれない。自分から危険に飛び込むことで、今までの弱い自分を変えられるかもしれない。恐怖心どころか、希望さえ溢れていた。
 この手で静流を助けることができる。守吟神らしい行いができるのだ。そして、双子と使用人達の悩みもあわよくば解決できるヒントが、このピンチから得られるかもしれない。
 逸る気持ちを抑えながら扉に手をかけて、押し開いた。
 太陽はないから、特にこれといって影はできない。だが黄土色の空でも、光があるのだから小さな影を作ることはある。
 影はできていた。ミアンナの目の前に。それを認識する前に、腹部に三発の痛覚が走って前のめりになった後、首を強く締められた彼女は三秒とかからず気を失った。
「ミアンナ!」
 立ち上がるクラッセルの肩は、玄関に立っていた白い仮面をつけた男が放ったフックショットが射抜き、恐ろしいほどの瞬間的な力で前に引っ張られ階段を転がり、声を出さなくなった。
 男はミアンナとクラッセルを肩に担ぎ、家の側面に隠すと、彼は反対側の家壁の前で伏した。
 しばらくして、静流が五界から帰ってくるところを目にする。見知らぬ女性を横に添えたまま――
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