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文字数 6,822文字

 白い光が明けると、透明な風が吹きすさんできた。暫く外の風に当たっていなかったから、新鮮な空気が肺に入り込み、心の平穏に役立った。
 太陽が照っている。場所は、どうやら森林のようだ。前回と同じように円形の舞台があり、舞台の中央に一本の大きな木が生えている。全長で二十メートルは超えているだろう。根は人間の剛腕な腕のように太く、うねっていて、いくつも枝分かれしている。
 舞台の外にも複数の木が生えている。円形のステージを、取り囲むように。木の枝の上に、いくつもの観客が座っていた。前回と同じ、幽霊のような姿をした観客だ。
「血で汚すには惜しい場所だ。とても綺麗じゃないか」
 野太い声をした男は、草を踏む足音を立てながら中央の木に近付いた。掌で、それを撫でた。慈しむように、されど真っ直ぐな瞳をこさえて。
 男は上半身が裸で、胸元に傷が残っている。肩まで黒い髪を伸ばし、筋肉質だった。腕には刺青が彫ってある。肩にある、太陽のような丸い形をした物体が、手首から根を這わせているような刺青だ。目は細く、猛禽類を思わせる。静流は直感で理解した。目の前の戦士は、中途半端な戦力を身に着けた相手ではないと。
「俺の名前はドラク・ヴォンサルという。貴様の名前も聞こう」
 木に触れながら、ドラクは顔だけを静流に向けた。静流が本名を告げる時、抑揚はなかった。
「シズル。貴様の名前に、意味はあるのか」
「今となっちゃ、知る術もない」
「そうか。名前とは、時に奇跡の力が宿る。神の御許に生まれた者が、即ち人間だ。人間も神の一部、その力を持った者が付ける言の葉に、無価値なものはない。貴様の母親も、特別な意味をつけたはずだ」
 鳥が鳴いた。楽器の、ピッコロが奏でる音と近しい音色が、頭上を羽ばたいていた。
「この世界にあまりにも長居しすぎると、人間だった頃の感情であったり、規範といったものが薄れてゆくものだ。だから、お前に聞きたいことがある」
 次に風が吹いた。
 何を言おうとしているのか、静流にはさっぱりだった。彼は戦う気がないのか、戦う前の準備をしているのか。
「貴様にとって、愛とはなんだ」
 愛と言って、ドラクは体ごと静流に向けた。彼は答えに詰まった。
 考えたこともない問いだったからだ。戦場で生まれ、戦場で育ち、戦いに生きた者だからだ。愛という生物は、どこにも存在しなかった。
「そうだな」
 静流は上を向いた。雲一つない青空で、これから血が流れることが、まるで嘘のように青かった。これは偽りの蒼さなのか、造られた蒼さなのか。いつか、知る時は来るのだろう。
 愛という生き物は戦場に存在しなかった。それでいて、静流は知ってしまった。愛の弱さや、脆さや、残酷さを。
「俺は神っていう存在を信じていなかった。でも死んでから、ああ、間違いなくいるって感じた。だから、こう言ってやる」
 救われるのは信じる者ではない。
 記憶に咲く白い花が、証だった。
「愛っていうのは、人間への罰だ」
 かつて誰かが言い残した。現世というのが地獄であると。静流はそう聞いた時に苦笑した。まるで意味のない正論だったからだ。
「罰か。しかし、人間は愛なしでは生きられない。おかしな話だな。貴様は、矛盾した人生を送っていたのか」
「そうだ。悪いか」
「愛した人がいたのだな、貴様にも。不思議な話だ。会うのは初めてだというのに、貴様にも愛した人がいるのだと知ると、初めて会ったような気がしなくなる。ありがとう、久しぶりに人間としての感情を取り戻せた気分だ」
「どうして俺に、愛なんて尋ねたんだ」
 単純に、ドラクはこう答えた。
「貴様が新入りだからだ」
「どうして俺が新入りだと」
「貴様の軽装を見れば分かる。大きな武器は持っていないようだが、この世界が長い者は色々持ち込んでくるものだ。ロケットランチャーに、見たこともない大型の機械。戦車を持ってきた者もいたな」
 ここから先の長さを思えば、鬱屈する気分だ。生身の身体と拳銃の六発では戦車に勝つ見込みはない。ドラクが素手だということも幸運なのだろうか。
「戦車に勝てたのか?」
「笑うなよ。その戦車、ただの見掛け倒しだったんだ。動きもしないし、弾も出ない」
「文字通りのハリボテってことか」
「出てくるのを待っていたら、中で酸素不足でぶっ倒れて試合に勝った。今でも奴は伝説だ、俺の中では」
 いつも誰かに語っているのだろう、ドラクは目を瞑って笑みを浮かべながら足を開き、腰をやや落として構えをとった。
 両手に拳を作り、右手を胸に寄せて、左手を鼻より低い位置で、肘を軽く曲げて前に出す。基立ちという姿勢は、徒手空拳の彼にとって相応しい構えだった。
 重心はやや右寄りだが、足の開き方や呼吸、手の位置は基本に忠実であり、攻防は一心同体だった。この構えは、ほぼ全ての流派に引けを取らないものであり、静流が独自に創造した竜の型にも引けを取らないだろう。武道において、達人の身になっても基本を忘れない人間というのは、戦いの場において最も戦いにくいのだ。
 静流も構えを取った。二人は森の風に煽られながら静かに前進し、どちらかが攻撃を仕掛ければ試合が始まる位置にまで近づいた。
「その構え、広く知れた流派ではないな。いつもそれで戦っているのか」
「隙を左でカバーし、右を遊ばせる。少林寺拳法に近いが、柔道のようには投げない。時と場合によるがな」
「その構えを見るに、自分よりも身長の高い者と戦ってきたな。貴様が何者か、いまだに掴めぬ。しかし――」
 ハサミで切るよりも簡単にドラクは言葉を切り、手の構えを崩して、両手を瞬時に広げ、静流の耳目掛けて平手で挟みこもうとした。静流は両腕で左右から迫る死角の攻撃を防御し、左右の腕の関節を裏拳で突き、ボディに一発放った。手はすぐにドラクの腹から離れ、右から迫る肘打ちを両手の平で押し、一歩後ろに退いた。
「やるな。お前の構えは頭部の防御に弱い。それを理解し、イヤーカップを瞬時に防御しただけでなく、すぐに反撃に移る判断力とスピード。空いたボディへの攻撃。更に、攻撃から手を引くまでも早かった」
 瞬時に距離を縮めた静流は腰を回しながら右手でストレートを放ち、片肘で防がれ、すぐに身を低くした。勢いのまま横に転び、ドラクの右側面に立つと、足を伸ばしながら一回転し、踵を眉間に当てた。
 怯んだ彼は、片手で頭を押さえて静流から退いた。
 好機を捉えた静流は助走をつけて飛び上がり、右腕を伸ばしながらドラクの頬を狙った。
 だが、ドラクは右腕を片手で掴んだ。渾身の力を込めた静流は、流れに沿うように一本背負いの形をとられ、脳に激しい雷鳴が轟いた。
 体全体を使って横に転がり、脳を揺さぶられながら立ち上がった静流は、次なるドラクの一手が迫っていることを教えられる。剛腕なジャブが目の前に現れ、反射的に左に回避する。しかし、瞬時にその判断が誤りだと気付かされるのだ。ドラクは右腕でジャブを放ってきたのだから。
 左の掌底が静流の顎に直撃し、再び脳にダメージを受ける。そうして怯む内に、ドラクに服と右腕を掴まれ、足を刈られて床に倒される。完璧な、彼のペースだった。静流は辛くも受け身を取り起き上がる。
「シズルさん、押されていますね」
 控室にいたホグウが、目の前のテレビモニターの映像を見て呟いた。戦士二人が眼で威嚇をしている真っ只中だ。
 背もたれの高い、赤い椅子に座っているミアンナは肘掛の機能を活かしており、手で顔を支えている。神妙な表情のまま、モニターを眺めていた。
「この戦い方、相手はおそらく軍隊の一人でしょう。以前同じような戦い方をした軍曹を見たことがあります。空手、柔道の技をその場の状況に合わせて使い分けていました」
「つまり、戦いに慣れた人ということですか」
「ええ。相当な場数を踏んでます。さっき、ドラクの右ジャブを静流は左に避けましたが、全て読まれていました。そうでなければ、あの速さで掌底は繰り出せません」
「なぜ静流は左に避けたのです? 静流も、軍隊に負けないほどの力は持っていますよ」
「一本背負いは見た目通りの派手な技です。脳にダメージを負ったまま立ち上がった静流に冷静な判断はできませんでした。相手の攻撃を避けることだけでも精一杯でしょう。つまり、反射神経です。反射神経は人間が自在に操れるものではない。さらに、静流の利き手は右です。利き手が右の人は、左に反射的に回避してしまう」
 訓練と実戦で身を鍛えた男と、我流で技と己を鍛え上げてきた男。相反する者同士の戦いは、静流が不利に思えた。
 にらみ合う獣の内、先に動き出したのはドラクだった。前に出していた右足で前進しながら二度地面を踏み、右手でジャブを放つ。静流は下から左手を突き上げて体を半回転させて、敵の手が退くと同時に元の体制に戻り、右手の裏拳でドラクの後頭部に一撃を与えた。
 即座にボクシングの構えを取った静流は、右から迫るフックを腕で防ぎ、肘でドラクの胸を打ち、続けざまに下から上に、顎を打つ。静流の攻撃は終わらず、両手を上向きに腹の位置まで下げ、前に突き出して溝内の左右を攻撃した後、鋭い蹴りが溝内の中心を叩く。
 ドラクは足を掴もうとしたが、結局は空を掴んでいた。空っぽの手を見て、ドラクは不意に笑みを浮かべた。
「貴様とここで会ったのが惜しい。生きている間に、我がチームにいたならば」
 笑みは崩れて、代わりに出てきたのは彼の中の慟哭だった。
「こんな気持ちになったのは久々だ。過去を悔いて、ひたすらに酒を浴びたくなる。貴様には、分からぬかもしれない感情だ」
「どうだろうな。酒を浴びるほど飲みたくなるってのは、俺も分からなくはねえよ」
「こんな時でも……いや、こんな時だからこそだろうな。敵である貴様と杯を交わしたくなる」
 ぼんやりとした幽霊が二人を見ている。中央に生えた木から、木の葉が舞い落ちる。
「俺たちは敵じゃない。訳の分かんねえ世界に連れてこられた仲間だ」
 一度、ドラクは見せたことのない顔を見せた。細い目が開かれ、言葉が出ないような表情だ。
「一応戦えって言われてるからお前と戦ってる。俺としちゃ不本意だ。理不尽だとも思ってる。せっかく死んだのに、まだ戦えって、そんなバカげた話あるかよ。だから俺は、この世界から飛び出してやる。もしかしたら勢い余って生き返っちまうかもな」
「愉快な男だ。この世界から抜け出せると、本気で思っているのか」
「単純だ。入れたなら、出られる。鍵がかかってるなら鍵を探せばいい。俺はもう戦いたくねえんだよ」
 戦って人が傷付くのを見たくないかといえば、嘘になる。面倒だと言えば、それも嘘だ。
 違う生き方を見つけたいと静流は強く願った。
 その時に死んだのだ。
 ――あなたはもう戦わなくていいの。人を殺めるよりも、素晴らしい生き方っていうのはあるのよ、私が証明してあげる。
 泡沫に似た、脆い記憶。
「戦いたくなければ、貴様は敗北を選ぶのか」
「もし俺がたった一人でこの世界にいるんなら、敗北を選んだろうよ。だが、ミアンナって名前の主ができちまったし、計劃けいかくがある。俺が戦う理由は、そこだ」
 どこかで試合を見ているのだろう。静流は周囲に目を配って、片手でピースサインを作ってみせ、真正面からドラクと対峙した。
「なれば、これ以上の問答は不要だな。いざ、尋常に」
 二人は円を描くように、決して目を逸らさずに歩いた。
 片脚に力を入れて後ろに跳んだドラクは、静流の攻撃線上へと走りながら入り込んだ。
 強烈な飛び膝蹴りを横に躱して回避した静流は、足刀でドラクの背中を蹴り、振り向きざまに放たれた腕を両腕で防いだ静流は、腕の関節に肘で打撃を与えた。ドラクは反対側の手で静流の足を掴みバランスを崩させた。静流は後ろに重心を預けて仰向けに倒れ、右足を掴むドラクの手を、左足で蹴り、起き上がってすぐに中央の木へと走った。
 伸びた細い根を力づくで折り後ろを向けば、目の前に見えた右腕を、今度は右に回避した。ドラクの側面へと回り込んだ静流は鋭利な根をドラクの脇腹に刺した。
 痛みで呻いたドラクは刺さった根を抜き地面に捨て、木を背後にする静流に体全体で体当たりをした。
 静流は間一髪で回避し、ドラクの躯体は木に激突する。静流は後ろに生えていた根を踏み台にして高く跳び、踵落としを脳天に決めた。だが、ドラクは気合で痛みを耐え、静流の足を掴んで木に叩きつけた。静流は片脚でドラクの脇腹を蹴り、手から逃れると、ドラクの前に立った。
 まるで滑るように、ドラクは腰を丸めながら静流に接近し、下から上へアッパーを放った。静流は顎の手前で両腕をクロスさせた。
 防御が手薄になった静流の腹部に、拳が打ち付けられる。咳き込んだ静流の頭を掴んだドラクは、眉間に膝を当て、後ろに反り返った静流の心臓に強烈なストレートを放った。
 前のめりに倒れた静流は、横向きに寝転がり、心臓を片手で押さえる。
「終わりか、シズル。俺はまだまだ戦えるぞ」
 両手で拳を作った静流は、その腕が震えていることを知って、地面に拳を当てて起き上がろうとした。だが、腕が曲がって上手に起き上がれない。
 そして力なく、静流は呟いた。
「まだ二試合目なのに、これで終わりかよ。みっともねェ……」
 朦朧とする意識の中で、目の前にドラクの足が見えた。トドメを刺すのだろう。賢明だ。トドメは刺せる時に刺さねばならない。驕りが招くのは敗北のみ。
 結局、世界のことを何も知らないまま追放されるのだろう。ミアンナからは愛想を尽かされて捨てられる。二試合目で負ける飼い犬を、誰が飼い慣らすというのだ。
 一体どんな苦しみが待っているのだろうか。想像もできない程の苦しさだろう。現世で、何人もの人間を屠ってきたのだから。
 何も真実はないまま、終わってしまうことだけが唯一の心残りだが、それ以外はどうでもいい。
 ドラクは両腕を上に持ち上げた。二つの手を合わせて大きな拳を作った。鉄槌にも、剣にもなる拳だ。静流は目を瞑った。
(おい、ここで終わりかよ、相棒!)
 煩い旧友が話しかけてくる。現世だけでなく、こっちの世界にもいたというのか。
(この程度の実力で何が六龍だよ。笑わせてくれるぜェ! こんな名前も聞いたことのない奴に負けるほどの男じゃねえだろ?)
(いいんだよ。俺はもう戦いに疲れた。六龍って名前も、とうに捨てたんだ)
(カーッ! これだからお前はちんちくりん! 仕方ねえな。お前はもうすっこんでろ。後は俺が何とかしてやるからよ)
(お前に勝てるのか)
(まあ、見てろって)
 風を斬る音が聞こえた。大きな拳が、振り下ろされた音だ。
「なんだと……ッ!」
 拳は地面に打ち付けられた。静流は紙一重で、仰向けに体を動かしたのだ。静流は力をこめて、思いきり頭突きを食らわした。
 クリーンヒットの一撃はドラクの世界を歪めた。立ち上がった静流は今までとは違う構えを取った。「虎の型」と誰かが呼んだ構えだ。右足を前に出した後に右腕を腹の位置、左腕を胸の位置にして、右腕は肘を曲げて掌を天に向けている。左腕は手を開き、掌を正面に向ける。
 視界が元に戻ったドラクが再び攻撃を仕掛ける前に接近し、静流は左手でドラクの顎を突き、右足のローキック、続けざまに中段、上段と蹴り、ドラクは咄嗟の判断でボディブロウを放った。静流は膝で攻撃を防ぎ、顔面に掌底を当て、瞬時に後ろ回し蹴りを放ち、ドラクのこめかみに踵を当てた。
 ふらつきながらも倒れないドラクの放つ我武者羅のパンチを手で弾き、勢い付いて前に飛び込むドラクの腹部に打撃を与え、伸びきった腕を掴んだ。
 静流は雄叫びを上げながらドラクを担ぎ上げ、地面に叩きつけた。
 起き上がろうとするドラクの腕を両足で踏みつけ、眉間目掛けて、天から強烈な突きが放たれた。
 一撃が決めてとなり、ドラクは微動だにしなくなった。細い目をあけて、口から血を吐いた。
「強いな……。まさか、俺が負けるとは思いもしなかった」
「お前は強かったぜ。強かったから負けたんだ。俺を本気にさせちまった」
 鮮血の微笑の後、ドラクは目を瞑った。静流は銃を手にしていた。
「最初からその銃を使っていれば、簡単に俺に勝てたというのに」
「これが、俺の流儀だ」
 奥深くまで広がる森に、銃声が響いた。鳥が羽ばたき、木の葉が揺れ落ちる。空はどこか雲がかり、しばらくして中央の木の一部が切り取られ、扉が姿を見せた。
 動かなくなったドラクを後目に、静流は空を見上げた。今にも雨が降りそうだった。血を洗い流すには、十分過ぎるだろうか。
「最後に戦えたのがお前でよかった。お前は、本物の、ソルジャーだ」
 銃をコートの中に閉まった静流は、ポケットの中に手を入れて扉の下へと近づいて、どんな表情を浮かべているのか分からないミアンナのことを思いながら扉を開けることにした。
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