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文字数 5,970文字

「弟子にしてください」
 道場ではようやく技能試験のペアが半数を超えたあたりで、残り一時間以上はあるだろう。後半になるにつれ、眠りに耽る生徒もいれば談笑を始める生徒もいる。中には律儀に全ての試合をノートに記している真面目そうな青年もいるが、多くの生徒達がこの授業に飽きていた。
 不思議なことに誰も授業の長さに文句をいう生徒はいない。最初で最後だから我慢するのが的確だと思っているのか、クラッセルに逆らうことがこの世界に逆らうことを意味して恐れているのかは、それぞれ違う考えを持っているだろう。
 全員が全員真面目そうな顔をしているかと言えば異なる。中には明らかに短気そうな男、女もいるし、リーンがその筆頭格だろう。
「なんて言った?」
 黒いトレーニングウェアの女性は、静流の下へ歩いてくるや否や、第一声がそれだった。弟子にしろと言われたのは、五界でも無かったことだ。
「いや聞こえてたでしょ。私を強くしてください」
 セミロングの黒い髪を首まで伸ばし、琥珀のような瞳。細身のイタリア系アメリカ人のような顔立ちで、身長は低い。彼女は静流を見上げながら、真剣な眼差しをしていた。
 初日で絡まれるのは二回目だ。一回目は「あんた弱そうだな」と言われ、二回目は「弟子にしてください」と言われ。やはり、この世界の非凡性にはうだつが上がらない。
「断る」
 静流はその場に座った。畳の上であぐらをかき、ポケットから取り出したジンで喉を焼いた。
「そこをなんとか」
「考えてみたことあるか。師っていうのは、大きな責任がつきまとう。世界には色んな意味の責任はあるが、師匠は一大企業の社長ほどの責任感を持たなくちゃならんわけだ。もう一度言うぞ、断る」
「どうしたら引き受けてくれます?」
 彼女の、お墨付きの我慢強さに敬服しながら静流は考える間もなくこう言った。
「正直言うが、俺は師匠になれるほどの実力はないし、誰かの上に立つような人間もできてない」
「さっきの試合を見て、あなたにならできるって確信したんですよ。私を強くできるって」
「女の勘は当たるっていうが、今回は残念ながら間違ってる」
「で、さっきの質問の答えは? どうしたら引き受けてくれます」
 人間は全て平等だ。誰でも同じように頭を銃で撃ち抜かれたら一発だ。大企業の社長でも、泥水をすするやさぐれ者も。本来なら、誰が強くて誰が弱いというのはないのだ。師匠や弟子といった関係も、不要なのだった。
 強くなるのは自分自身だ。他人の力を借りず、自身で強くなるのが一番なのだ。
「分かった、その質問にはこう答えてやる。お前まだ戦ってないだろ。次の戦いで勝てたら、考えるくらいはしてやるよ。戦い方を教えるかどうかは決まんねえが」
「本当ですか。本当に考えてくれる?」
 間抜けなことを言ったと、静流は若干の悔いが生じていた。
「言っちまったからな。約束は守る」
「じゃあ、ここで座ってみていてください。寝るとかしたら、フェンちゃんキックが飛んできますよ」
「なんだそれ。子供のプロレスごっこで編み出した技か」
「私の名前、フェン・ホフっていうんです。結構強いんですよ、この技。簡単に人をノックアウトできます」
 試合が一つ終わった。クラッセルは次のペアの名前を呼んだ。その中には、フェンの名前があった。
「じゃあ行ってきます。この試合、今時みたいに見逃し配信とかないんで」
 後味のくすぐったい洒落を残しながら、フェンは赤枠のステージへと入っていった。フェンの相手は男性で、教室で静流の隣に座っていた禿げ頭の青年だ。クラッセルは青年の名前を「トッシム」と呼んでいた。彼は柔道着にいつの間にか着替えている。
 二人は互いに礼をし、角笛が鳴った。
 フェンは右足を後ろに下げて踵を上げ、右肩を見せるように身体を捩り、右手と左手は平行の位置で前に突き出し、どちらも肘は少し伸びている。両膝は曲がっていて、空手の基本的な構えと近い立ち方だ。対するトッシムは同様に右足を前に出し、右と左の足の距離はやや短い。バネのように身体を動かしながら左右に歩き、右手と左手を胸の位置に下げ、右手はやや前よりになっている。
 牽制に、トッシムは身体を下げながら右上段蹴りを繰り出した。その素早さは居合斬りの達人のようで、避けきれずフェンは頬に打撃を受けた。今の一撃は、彼女の判断力を奪うには的確な一撃だっただろう。だがトッシムは追撃せず、構えを戻すと今度は半回転しながら左回し蹴りを放った。咄嗟にしゃがんだフェンは、前に歩みを進めて右正拳を胸の中央に叩きこみ、右足を力強く上に振り上げ、爪先で彼の顎を狙った。
 トッシムは頭を後ろに逸らして蹴りを回避し、フェンの足を掴んで自分の肩に乗せ、右手で彼女の腹部に拳を叩きこんだ。フェンは激しく咳き込みながら唾を吐き出し、トッシムは続けざまに左手でボディアッパーを決めた後、一歩引いてフェンの顎に掌底を食らわせ怯ませながら、腰の回転の入った強烈な飛び後ろ回し蹴りを放った。足は彼女の右顔面に強く打ち当たった。
「そこまでだ、トッシム君。構えを解いてください」
「――御意」
 赤枠の中からトッシムが立ち去ろうとした時、道場の中をフェンの悲痛な声が走り回った。
「ちょっと待って! 私はまだ、戦え……ますから」
 トッシムは後ろを振り返り、左右によろめきながら立ち上がったフェンを見据えていた。
「これ以上の戦いは危険です。フェン、分かっていると思いますが、あなたは今軽い脳震盪を起こしているんですよ。この状態のまま続行は危険です」
「そんなこと、知りません……ッ。まだ戦えます!」
 フェンは走りながら、トッシムの背中に飛びかかった。
 観客席で、静流は目を瞠っていた。彼女の無謀さとか、バカらしさに釘付けになっているのではない。純真な心に、驚いていたのだ。
 彼の住んでいる世界は裏切りが上等だった。誰もの心は薄汚れていて、金と嘘が表裏一体だった。大人のずる賢さを学ぶにはこれとない場所で、人間の醜さを学ぶにも他にはない。だからいつの間にか、静流自身も純真という言葉には疎くなっていた。
 背中に膝を打ち付けたフェンは、振り向くトッシムの頬に拳を叩きつけた。次いで来る左のフックを右手で弾いたトッシムは、素早いローキックで彼女の足を殴打した。立っていられず転んだ彼女は、震える足ですぐに立ち上がった。
「もうやめなさい、フェン!」
 クラッセルの声も無視し、彼女はまるで作法などないように右腕を横に振り回した。トッシムは左腕を曲げて攻撃を受け止めた。
(相棒、あの子。本気みたいだぜ)
 圧倒的な力量差があった。トッシムはテコンドーの達人で、フェンはまったくの素人だった。今回が初めて戦うといった風にも見えるのだ。戦いにならないことはフェンも分かっていながら、勝利のために敗北を認めないのだ。
 クラッセルが走り出した。フェンは攻撃をしてこないトッサムの腹部に膝蹴りをした。
 やがてクラッセルが彼女を羽交い絞めにした。強い勝利への信念がフェンの動きを加速させていたが、クラッセルの力は強く敵わなかった。
「もう終わりです、フェン。これ以上は本当に、君が危険なんだ」
「勝たないとだめなんですよ。勝たないと!」
「この試合に勝ち負けはありません。言ったはずですよ、技能を計るための授業だと」
 困惑しながら立ち尽くすトッサムに、クラッセルは苦笑の目を送るとフェンを離した。彼女が落ち着いたからだ。フェンはそのまま仰向けに倒れ、肩を震わせながら泣き出した。
 しゃがんだクラッセルは、彼女の頭に手を置いてこういった。
「大丈夫、君は弱くない。十分強いよ」
 今までの試合で、誰から見てもフェンは最弱だった。まともな試合展開にならず、一方的に倒されるのみだ。現に静流の隣に座っていた男がこう言っていた。
「あの女、どうしてこの世界に来れたんだ? あんなザコ、俺たちについていけるのかね」
 更にその隣の男がこう続けた。
「無理だろ。今日で来なくなるんじゃねーの。こんな大勢の前で醜態晒して」
 似たような言葉が周囲から聞こえてきた。その声は、フェンの耳にも届くほどだった。震える肩で涙を流す彼女は、うつ伏せになって涙を人に見せないようにした。
 この試合で、フェンは最弱だと認知された。クラスの中で最弱がいると、人は誰しも安心するものだ。人間は自分より下の人間を見て心を安定させる。フェンは、これから先の学校生活が決まってしまったようなものだった。
 それ以上に彼女の涙は、静流との約束だろう。遠巻きに眺めながら、静流はそれを理解していた。自分の無責任な言葉が彼女を苦しめたことに対し、罪悪感が無いとは言い切れなかった。もしあの約束をせず、純粋に彼女が勝ちにこだわらずノックダウンさせられていたのであれば、醜態を晒すこともなかっただろう。
 ちょっとだけ弱い女の子、程度の認識で済んだかもしれないのだ。
 フェンは立ち上がり、頬から血を流しながら静流を一瞥すると、目から雫を零して人の群れから離れた場所に座り込んだ。顔を隠すように、体育座りで。
 クラッセルがステージの中に落ちていた血や汗を拭き取った後、次のペアの名前を呼んだ。
(相棒、あの子を放っといていいのかよ。あのままじゃ孤立しちまうぞ)
(ここは学校を真似た娯楽施設に過ぎねえよ。そりゃ、前の世界じゃ孤独は死だった。だがアイツにも、エメージュっていうのはいるんだろ。本当の意味で孤独にはならないさ)
(でもさァ。あそこまで強くなりたいって思ったのはなんでか気にならん?)
(赤の他人の事なんざ、どうだっていい)
 無関心を気取っているわりには、静流の目は時折隅っこのフェンに向けられていることを相棒は黙っていた。胸の中にあるもやもやした暗い雲のことまで、言葉にはしなかった。
 それから一時間強の時間が過ぎ、ようやく授業は終わった。変わらずフェンは隅っこで顔を隠しながら、群れの中には入らないでいる。同様に静流も、群れとはやや離れた場所で、全員の前に立つクラッセルを見ていた。彼は片手でファイルを手にしていて、そこに一人一人の技能を書いていた様子だった。朗らかな笑みを作ったクラッセルは、生徒達を前にしてこう言った。
「皆、本当にお疲れ様でした」
 顔に表情があるように、声にも表情がある。クラッセルの声は、優しそうな表情をしていた。生徒達を労うように。
「今日はこの技能試験で学校は終わりです。道場やプール等は開放しているので、この学校の生徒ならば自由な時間、自由に使ってくれて構いません。三十四時間、ずっとオープンですからね。明日からは授業が開始されて、教科の説明もその都度行っていきますので、ご安心ください」
 ミアンナが渡した学校のパンフレットに教科の種類がのっていたが、元々真面目に授業を受ける気がない静流にとっては関係のない話だから、授業で説明してくれるなら流し聞きすれば良いだろう。
「この後は教室に帰ってもいいですし、このまま帰っても大丈夫です。教室に荷物がある方は、盗まれたくなければ持って帰るのが賢明でしょう。では、僕はこれで。何か質問とかある方は、いつでも来てくださいね」
 唯一この学校で知っていることと言えば、職員室がないことだろう。教師はそれぞれ自分の部屋を持っている。部屋の窓に名前が彫ってあり、その部屋で教材の準備をしていくのだ。
 自由時間になり、静流は早速と家に帰ることとした。リーンに見つかる前に退散するべきだと思ったが、彼女は既に他の女性と楽し気に会話している。
 最後に隅を見れば、そこにフェンの姿はなかった。いつの間にか帰ってしまったのだろう。
 教室に荷物は置いていないから、静流は玄関から外に出るだけだ。太陽の位置が、朝よりやや左に傾いている。気温はやや暖かい。人間が過ごしやすいように作られた気温としては上出来だった。
 庭園を抜け、門にいくとそこにはフェンがいた。誰かと話しているようだが、相手は門の壁に隠れて見られない。
「父親気取って、何様だって言ってんの!」
 周囲にいた何人かの生徒が彼女に目を向けた。静流も思わず足を止め、フェンを見た。
「あんたは私の父親? 違うよね。なんでもかんでも私に構わないで」
「だが――」
 次に聞こえてきた声は、年季の入った低いものだった。
「俺は確かに父親じゃない。だが、自分の従者を粗末にするような真似は絶対にしない」
「放っといてよ。ここまで迎えに来られるの、迷惑なんだって。そもそもさ、こんな訳の分からない世界に連れてこられるだけでイライラするのに、あんたの父親気取ったような態度、もっと嫌」
「心配なんだよ、お前が」
「赤の他人に心配されるとか、気持ち悪いよ。もういい、帰って。ちょっと散歩してから帰るから、ご飯もいらない」
 反対側の道にフェンは歩き出した。彼女を追いかけるように伸びる腕が見えたが、すぐに引っ込んで声さえ聞こえなくなった。静流はポケットに手を突っ込みながら、門を出てフェンが歩いた方角に曲がった。寂し気な彼女の背中が一方通行を歩いている。
(やっぱり放っておけないってか?)
 口うるさい相棒を無視して静流は歩き続けた。一定の距離を保ちながら、傍から見て変質者と思われないように。
 だが、静流は途中で足を止めた。
(どうした、相棒)
(このまま追いかけて、なんになる。落ち込んだ女を励ますイケた奴にでも? 俺にそんな資格はない。俺はそんな役目を担えるような男じゃないことを思い出した)
(相棒、昔言ってたよな。目の前の女一人救えず、男を語るなって。レオナルドに言ってたんだぜ、忘れたか)
(俺は救えなかったんだよ。前の世界で)
 世界でたった一人愛した女性を置き去りに、魂だけ逃げるように三界に来た。死んでから彼女がどうなったのかは分からない。救えなかったのと同じだとは、誰に言われるまでもなく分かることだった。
 帰り道は違うから、踵を返そうと静流は振り返ろうとした途端、フェンが道端で倒れた。まるで力を全て失った時のように、頭を地面に強く打って倒れたのだ。
 咄嗟に静流は走り出した。道行く人々は慌てながら周囲に目を走らせている。口々にフェンに声をかけているが、彼女を起こそうと行動する者はいない。静流は彼女の側まで駆け寄り、頭を腕で抱えた。息はしているが、完全に意識を失っている。
「バカな奴だよ」
 ただでさえ大きなダメージを食らっていたはずなのに、何も食わず飲まずの時間を過ごし、建物の中から突然太陽の下に出たせいで身体に異様な反応でも起きたのだろう。それに、頭に血が上っていたに違いない。
 静流は彼女を背中に乗せて、自分の家へ歩き出した。入学初日から、この先が心配になるようなことばかりだった。
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