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文字数 5,158文字

 白い光から解放されて、現像する時のようにゆっくりと目に映ってきた風景は図書館だった。アンティークな本棚がいくつも並んでいて、中には本が隙間なく詰め込まれている。建物は真四角となっているようで、二階へ上る階段が見えるが戦いのステージとなるのは、半径十三メートル程の円形床だった。ステージの上には本棚はなく、代わりに横長机が整列している。机の上には積み重ねられた本棚や、火のついたキャンドルが立っている。
 相手もちょうど今転送された様子で、何度かの瞬きの内周囲を見回していた。
 彼は右目を黒い髪で隠し、横髪は首元まで伸びている。後ろの髪は一本に纏まっていて、背中まで垂れさがっていた。赤と白が美麗に混ざり合った着物のような和風の姿で身を包んでいて、下駄を履いていた。見るからに戦いにくそうだと感じているが、彼は煙管(きせる)を吸って不利を感じさせない佇まいをしている。
 口から煙を吐き出した後、男はこう言った。
「まあ、座れ」
 顔立ちの良い、西洋人だということは確かだ。彼は物腰柔らかにそう言って、自分から椅子に座った。静流は警戒しながらも、彼の正面に腰をかけることにした。何か戦いの下準備をするつもりならば、少なくとも近い方が物音も聞こえるし目も届く。
 隙を与えない。
「私は、少し話をしたい。名前は昏哭月(くれなづき)という」
「もう少し呼びやすい名前はないのか」
 昏哭月は押し殺した笑いを見せた。
「では、(くれない)と呼んでほしい。これは、私の守吟神が付けた名だ。面白くも、お前とまったく同じことを一番最初に、彼女に言われた」
「誰でも言うだろうよ」
 静流も簡単に自分の名前を告げると、紅は再び煙管を吸って、白い煙を吐いた。
「お前は、どういう罪を犯した」
 単純な問いだった。紅はきっと誰にでもそう言って、油断を作っているのだろう。だが静流が観察している間、彼がおかしな行動を取る節がなかった。はなから戦う気がないとさえ思えるほどに、何もしなかった。
 妙な物音もしない、両手はずっと机より上だ。足も組んだまま、動かす素振りはない。
「俺はロシアンマフィアだった。やることは全部やった。この世界の住人に似合う、殺人鬼だ」
「マフィアは良い。悪と悪で勝手に戦いあい、闘争する。紛争よりもマシだ」
「警察官を手にかけたこともある」
「戦争は多くの一般市民を殺す。直接的にも、間接的にも」
 紅の目的が分からないまま、無作為に時間が過ぎていく。
「私は国を一つ、滅ぼした。そして罪なき人々の首を斬り、仲間の血肉を貪った。それが私の唯一の生きがいで、愉悦だったからだ。今も変わらない」
 感情の揺れない声で、表情で彼は言葉を続ける。
「お前のような、澄んだ目をした奴は久しぶりだ。絶対的な勝利への自信。素晴らしい。最近は殺人にも飽きてきたが、久々にご馳走を楽しめそう」
「俺もやることがある。簡単に心臓を渡すつもりはないぜ」
「ほう。興味がある。やる事、とな」
 彼は身を乗り出して、煙管を机の上に置いた。
「ディーグって知ってるか」
 その名前を口にした途端、紅は片手で顔を覆って肩を震わせながら笑った。
「奴を殺したいのか。どうして」
「俺は世界の秩序を取り戻す。人間は送られるべき場所へ送られ、旧人は旧人らしい生活を取り戻す。そのためにグノーシスコンツェルンや、ディーグは排除する必要がある」
「最もなご意見。素晴らしい、殺意だ。ああ面白くなってきた。この戦い、私が負けても勝っても、どちらに転んでも愉快極まりない。静流、お前のことが好きになってきた」
 三界に誘拐される人間にまともな人間を求めるのは誤りだが、紅は狂気に蝕まれつつあるようだった。今まで戦ってきた相手とは一線を画す、彼も三界が似合う人間のようだ。
「この戦いの中で、私は絶頂を感じるだろう。静流、立て。武器を取れ。殺し合うぞ」
 静流が立ち上がった途端、図書館の床が動き始めて机同士が横に重なっていった。紅は歩きながら机から遠ざかっている。
 重なり続け、机は真四角の舞台を作り上げた。広さは十分にあり、紅は両足で跳躍して舞台の上に立つと、見たこともない武器を手に静流を手招きした。
 手に装着する武器のようだ。筒状のボディの中に腕を通し、先端には三つの刃が突出して自在に動かしている。また、ボディからは十センチに満たない鎖のようなものが二本垂れ下がっていて、先には鋭い鎌がある。三つの刃がある先端の反対側にも小さな槍のような棒が三つ生えている。更に観察すれば、三つの刃の中心に丸い穴が空いている。無意味に開かれたものではないだろう。
 彼は左腕に武具を装着していた。初めてみる武器で、彼がどのように戦うのかは簡単な想像しかしようがない。
 戦いとは、情報が物を言う。武器によって戦い方が分かれば、勝率はその時点で半々にまで上るのだ。それが、紅はまったく違う。彼の攻撃行動が分からなければ、防御に手一杯になり攻撃ができなくなるのだ。長期戦に持ち込めるならば相手の攻撃筋は読めるだろうが、紅はすぐに決着を求めにくるだろう。
 端的に言えば、非常にマズい状況だった。
 静流は舞台に手をつけて片脚から上がり、拳銃を構えた。紅が短期決戦で来るならば、頭を狙うだけだ。どんな人間でも脳を破壊されれば、その時点で勝敗が決まる。
 トリガーにかけていた指。静流は照準を紅の頭に合わせていた。彼を包んでいる悠々自適な時間が違和感として残る。誰も、銃を向けられれば足を竦むものだからだ。だが彼には一切そういった怖がる素振りはなく、堂々としていた。反対に静流が気押されてしまうほどに。
 乾いた発砲音が鳴り、軌道と規律に沿って鉛玉が射出された。鉛玉は静流の命令通りに、紅の額に向かって進んでいく。
 だが、奇妙なことが起きた。紅は発砲音が聞こえた途端、煙を吐いただけだったというのに、煙の中にあった拳銃はどこかへ消えてしまったのだ。
「もし観客がいたら、拍手が起こっているところだったぜ」
 銃弾を止めるマジックは、古典にも乗っているものだった。
「そうだろうか。観客はいつも、悲劇的な事故を求めるものだ。私の頭が飛び散ってから、拍手が起こるのが節理だ」
 静流はもう一発、鉛玉を放った。だが結果は同じだ。彼が煙を吐き、銃弾が消える。
 共通点は煙ということだけだ。つまり、あの煙が関係しているのだろうか。どういう仕掛けか分からない限り、無用な手出しはできない。煙は遠くまでは吐かれないようだから、接近せずに様子を見るのが一番だろう。もしくは、跳弾を狙えれば。
 鉛玉を跳ね返せるような物は図書館にはない。死角もない。
 紅が動き出したのは突然だった。彼は左肘を曲げて前に伸ばし、その途端中心からフックのようなものが飛び出した。静流は間一髪で膝を曲げて回避し、伸びたフックを手に掴むと勢いよく手前に引き、ナイフで紐を切った。堅い紐は切れなかったが、紅のバランスを崩して一瞬の隙を作った。
 静流は彼の頭が地面を向いている間に接近し腹部にナイフを突き刺して、下を向いている紅の額を肘で打ち、そのまま右回転しながら突き刺さったナイフの柄を右足で蹴った。
 そうして瞬時に銃を取り出した静流は脳天に向けて射出する。
 鉛玉を防いだのは彼の左腕の武器だった。一つの刃が弾いたのだ。
 紅は右手でナイフを抜き、血のついた刀身を顔の上に掲げて、滴り落ちた血を飲んだ。
「血の味が私を強くさせる。次は、君の血を味わってブレンドさせよう」
「くだらない趣味はお断りだ。イカレ野郎」
 伸びきった紐を武具の中に吸収した紅は、左腕の刃を地面に擦り合わせながら駆け出した。静流まで接近すると、三つの刃を下から上に振り上げる。静流は後ろに引いて回避し、龍の構えを取ると、左手を真上に向けて突く牽制を繰り出す。左手は素早い速度で紅の脇腹を突いた。
 紅の武具についていた鎖が突如として伸び、右手で鎌を取った彼は鎖を回転させながら連撃を繰り出す。静流はナイフを取り出し、切っ先同士をぶつけ合わせて回避したが、気を取られている隙に伸ばされた三つの刃が腹部を貫いた。痛みの油断が紅の攻撃を生み出し、鎌が肩に突き刺さる。そして抉り取るように鎌が引き抜かれ、激しい痛みに苛まれる。腹部を貫通していた刃からフックが飛び出し紅は力任せに静流を持ち上げると地面に叩きつけた。
 激しい血飛沫が舞い、白い紅の顔を赤くした。
 飛び散った血を指で拭き取った彼は、その指を咥えた。
「獣の味がする。野生の血を忘れない、獣の味だ」
 既に大きな致命傷を負った静流は、身体から刃とフックが抜かれた後も立ち上がることはできなかった。
 格が違いすぎるのだ。あまりにも紅は強大な力を秘めている。彼の持つ能力は一切不明だ。誰が見ても勝負になっていない。
 紅は仰向けで転がる静流の背中に片脚を乗せ、力を込めた。すると血が溢れ出し、一切の躊躇(ためら)いはない。静かな敗北の時間が近づいていた。今すぐにでも紅は、静流の息の根を止められるだろう。いつもは騒がしい相棒が、何も言わずに静かだった。
「つまらぬ。お前は、私を楽しませるはずだったというのに、残念だ。こんなにも早く終わってしまうとは」
 静流の頭に、切っ先が当たった。
 命ほど簡単に奪われるものはない。だから人間はいつも脆く、儚いのだ。敗北を悟った時、静流は諦観した。圧倒的不利の最中、勝つ見込みはないのだ。だが遠のきつつある頭はぼんやりと、ミアンナを描いていた。次にフェンが語り掛けてきた。
 負けられない。負けてはならないのだ。静流は最後の力を振り絞り仰向けになった。そうして拳銃を構える。血が視界を遮っている。
 不可思議な出来事が起きた。甘い香りのする煙が吐きかけられたのだ。煙草の匂いとはまったく異なる、脳を混乱させるような甘い香りだ。ただ静流は、その香りが死の匂いだと本能的に感じ取った。気付いた時には遅かった。
 静流の顔面は、ズタズタに引き裂かれた。目も、耳も全ての感覚を失ってしまった。

 暗闇を歩いている。無臭で、どこにも光はない。左右に壁がないから、真っすぐ歩いているのかも分からない。前を向いても後ろを向いても暗いから、自分が眼を開けているのかも分からなくなる。その道は心地よかった。
 道の途中に白い兎がいた。兎は静流を見ると、前に歩き出す。
 兎は何の前触れもなくミアンナに変身した。ミアンナは静流を振り返ると、その身体を抱きしめてキスをした。静流は声を出そうとするが、何もできない。ミアンナの舌の感触が、唇に伝っている。激しい、求めるようなキスではなかった。暖かな息を感じ取った。
 ミアンナは何も言わずに微笑みかけると暗がりの道中を歩きだし、次にホグウに変身した。ホグウは道の途中で立ち止まり、寂し気に目を俯かせながら振り向くと、また前を歩き出した。
 今度はフェンに変身した。フェンは振り返り、力の限り静流の背中に両手を回した。
 瞬きをしたら、フェンは美咲に変わっていた。
 美咲は、頭を静流の胸に預けた。もしもこの時間が永遠だったならば、それはどのような世界よりも幸福に満ち溢れていた。真っ暗な世界で、美咲を見つけられたのだから。
 永遠はなかった。幸福は、一瞬にして崩れるものなのだと静流は知った。その感情を思い出した時、静流は落ちた。叫び声も出せないまま落ちて、彼は海の中に沈んだ。肺の中に海水が入ってきて、血が逆流する。息ができない。
 美咲の声が聞こえる。彼女はずっと、静流を呼んでいた――。
 目が覚めた時、静流は自分が七界に送られたのだとは認識できなかった。なぜなら、ミアンナの部屋に寝かされていたからだ。
 ミアンナは椅子に座らず、地面に座って静流の真横に頭を置き、眠ってしまっている。布団からは彼女の香りが仄かに漂っていた。静流は起き上がって、ここが三界であることを改めて確認して、夢を見ていないことまで念入りに調べた。
 戦いに負けたはずだ。
 静流が起きたおかげで、ミアンナも目が覚めたようだ。彼女は布団から顔をあげて、口元の涎を腕で拭きながら寝ぼけた目で静流を見上げた。
「よう」
 静流がそう言うと、ミアンナは泣きながら静流を押し倒し、上から抱きしめた。
「おい、おいどうしたんだ」
「ごめんなさい。でも今は、こうでもしないと落ち着かなくて」
 嗚咽を漏らしながら、ミアンナはこう続けた。
「死んじゃったんじゃないかなって、すっごく不安でした。胸が締め付けられるようで、もう会えないって思うと。すごく怖くて」
 色々な疑問を投げかける前に、彼女を宥めるのが先だろう。どうして戦いに負けたのに七界にいないのか、原因を究明する必要があるからだ。
 身体の節々が痛むが、ミアンナはそれを構わずに延々と締め付けてきた。
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