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文字数 5,218文字

 傷はまだ完治とは言えないが、十分に身体を動かせるほどには回復している。この世界に来て、回復速度が現世と違って向上していると感じられる。普通、レオナルドほどの相手と戦えば一週間は打撲と捻挫に苦しめられるものだ。足へのダメージが少ないという理由はあったが、数日寝てここまで動けるようになったのは、何か特別な理由があるに違いない。
 例えばご飯に特別な薬が入り込んでいたり、部屋の片隅に置いてある観葉植物が未知なる効果を発揮していたり、想像は絶えない。
 三日に一度という短いスパンで繰り広げられる闘技において、自然治癒力の向上というのは必須事項とも呼べるだろうか。
「シズル、時間ですよ」
 定刻通りにミアンナが迎えに来ている。扉も開けずに声をかけてきたものだから、静流はベッドから起き上がって静かに扉に隙間を作った。
 隙間から、ミアンナの顔が見えた。彼女は小動物のように、静流を見上げている。
「なんだよ」
「いえ、その。怒っていないかと思って」
「なんで俺がお前に怒んなくちゃならねえんだ。昨日の、あのデチュラってやつの件か」
 あの一件以降、そういえばミアンナは顔を見せなかった。とりわけ珍しい話でもないから気にはしなかったが、一体ミアンナは何に遠慮しているのか、豊かな想像力をもっても答えは分からない。
「いえ、気にしていないのならいいのです」
 そう言って、彼女は扉を開けた。いつもの機嫌に戻ったようだが、つくづく変な主だと感じる。
 今日は客人の姿はなく、ホグウと廊下ですれ違うと、彼は慇懃に頭を下げた。「応援していますから」と告げて、静流を見送った。
 ミアンナの部屋は、模様が一変していた。惰性で後ろについてきたから気付かなかったが、最初にミアンナの部屋に訪れた時と場所が変わっていることにようやく気付いた。
「驚きましたか?」
「こんな単純なことで驚きはしねェ。だが、気にはなるな。何があったんだ」
「お教えしましょう。実は! ミアンナの部屋が新しくなったのです。つまり、新築です。前使っていた部屋は物置にして、ここが新たな私の部屋ということですね」
 改めて、静流は内装を見渡した。
 天井からはキャンドルシャンデリアがぶら下がっていて、左の壁から板がつきだしていて、大きな長方形の水槽が飾られている。中には、マグロを緑色にしたような大きな魚と、小さなイカが何匹も泳いでいる。水槽の上には絵が飾られていて、便利なことに絵のタイトルと作者のプレートまで壁に掛けられていた。
 タイトルは「星花(ほしばな)の散りし、朝露恋歌(あさつゆれんか)」であり、作家はホン・メイギスと筆記体のローマ字で綴られている。
 絵柄はイタリアで発祥したバロック美術に近く、金色の額縁や絵画の大きささながら、見るものに迫力を感じさせる出来となっている。
 風景は夜の丘だ。十五夜の月が星々に囲まれていて、左側で隆起している丘に一人の銀髪の少女が座っていて、空を眺めている。静流は、少女の背中を見て不思議と、落ち着いた感情が芽生えた。
 丘から先は広大な景色が広がっている。川があり、野があり、家々がある。
「綺麗な絵だな。俺は気に入った」
「いい絵でしょう。シズルのような、戦いしか目がない人でも分かるんですね」
「悪かったな。これは、この世界で描かれた物なのか」
「そうですよ。ホン・メイギスさんはこの国の住民ではなく、森の奥に住んでいます。私はファンなのです。彼女の」
 幼い頃、静流は父親に美術館に連れて行ってもらったことがある。美術に全く興味もなかった静流は、始めの頃はムスっとした顔をしていた。だが、ルネサンス期の美術を見て、静流は途端に創世を見たような気がしたのだ。
 本物の絵画を見た時は、目を瞠った。今から何百年も前に生きてきた人間達が、確かな魂を持って描いたものなのだ。作家の目的、理想、性格、信念。全てが絵に詰まっているのだ。静流には絵の理解はとうていできなかったが、感じることはできる。
 絵というのは、表現なのだ。作家が生きてきた証として、感情が写されている、いわば鏡とも言えるだろう。静流が初めて胸を打たれた美術作品はラファエロ・サンティの「システィーナの聖母」であった。その絵を見ると、胸に切なさがこみ上げてくるのである。
「絵が好きなのか、お前は」
「いえ、絵が好きというより、芸術が好きです。なので文学、音楽も幅広く好きですよ。芸術っていいじゃないですか。旧人の人々、人間の人々。それぞれが自分の理想を芸術に詰めるのです。もちろん理想だけじゃないでしょうが。作家というのは、何かを伝えたいから創り続ける。その美しさが、私は好きなのですよ」
「お前は何か作らないのか」
「ピアノくらいなら弾けます。つまり、基本的には何もできません。面白い文章も書けなければ、絵は蝶々ですら上手く書けないんですから」
 蝶々を上手に描ければ大したものだと感じたが、言葉にすることが億劫で静流は黙っていた。
「作品っていうのは本当に素晴らしい。そうは思いませんか」
「そうだな」とだけ告げて、静流は絵画から目を離した。魚と一瞬だけ目があったが、すぐに目を逸らした。
 部屋の右側はキッチンになっている。古風が好きなミアンナらしいデザインの木製キッチンだが、シンクはやや現代的だ。大理石でできている。
 一番静流が驚いたのは、(かまど)があることだった。四角形の石造りで中は空洞になっていて、木材等を詰め込めるようになっている。上部は鍋が置けるであろう広めの空間になっていて、同じ竈が二つ並んでいるではないか。
「この窯、何に使うんだよ」
「決まってるじゃないですか、お料理ですよ。え、まさか使い方が分からないのですか?」
「質問の捉え方を間違えるのは冗談なのか本気なのか分からねえんだよな」
 髪を軽く掻いた静流を、クエスチョンマークが浮かんでいそうな表情で眺めていたミアンナは、求めてもいない竈の使い方の説明を始めた。静流は軽くあしらいながら、他に目ぼしいものは部屋の中にないかと目を配っていた。
 部屋の南西に一人用のベッドがあり、既に毛布や掛布団が綺麗に敷いてある。触り心地は、おそらく良好なはずだ。枕は可愛らしいクマの顔刺繍がはいった布で覆われている。その枕の横には、ホグウを模したぬいぐるみが座っていた。
 アーチ状の窓の近くには植木鉢が二つあり、窓の門番のように間隔を開けて、小さな針葉樹が育っている。
「シズル、聞いていますか?」
 そういえば、竈の使い方を熱心に説明されていたことを思い出しながら、再び静流は軽くあしらった。
 新築したばかりだからか、目ぼしいものはなかった。
「そろそろ試合の時間だろ。行かなくていいのか」
 長すぎる説明に終着点を与えるため、静流は彼女を現実に引き戻すことにした。
「そういえば。忘れていました。ところでシズル、もちろん次も勝ってきてくれますよね」
「努力する。負けたら売られちまうからな」
「ええ、そうですよ。負けたら売ってしまいますから」
 屈託のない笑みで、やや過激な発言をしてくれるものだから不自然だった。
 シズルは考えていた。どうすればいいのか分からないながら、考えた。そして、一つの答えを見出した。
 いくら罪を重ねたからといって、地獄以上の苦しみを味わうのはごめんだということだ。ついでに、せっかくだからミアンナをもっと高い地位にあげてやろうという、慈善的な思いだ。
 戦う理由としてはどちらも軽々しく、盛り上がりにも欠けるだろうが、戦う理由に大層な意味を見出すことが愚かなのだ。
 ただ酒を飲んで、うるさいが自由を思い出させてくれる双子と話して、卑屈だが話していて飽きないホグウと杯を交わし、変人だが綺麗なミアンナと過ごす。最初こそ戸惑っていたが、慣れてくれば悪くない生活だった。
 勝ち続ける限りこの生活に終わりがないのならば、それこそが戦う理由の一つでもあった。
 静流が先に手を出して、続けてミアンナが手を重ねてきた。今こそ、眩い光が周囲を包み込む時。静流は目を瞑った。
 体感では一秒で、目を開けた静流は周囲を見渡した。
 空は無く、どこかの大きなコンテナ倉庫の中といった印象だ。地面から天井に円形の柱が立っていて、左右にそれぞれ六本ずつ規則的に並んでいる。今度の舞台は円形ではなく、長方形のようだ。
 天井にはスポットライトがあり、周囲を照らしている。窓やドアといったものは一切ないが、五メートルの位置に観客席があり、幽霊が椅子に座って横に並んでいた。
「初めまして、私はカラエナ・ミリヤよ。よろしく」
 ちょうど中央の地面にマンホールのような金属の嵌め込みがされていて、向こう側には女性が立っていた。
 カラエナは黒髪を後ろに縛っていて、髪は腰の位置まで下がっていた。細身によく似合う黒いスーツに白いワイシャツを着ていて、日本刀を手にしていた。
「俺は黒川静流だ。一つ提案があるんだが、その日本刀半分俺にくれないか」
「何それ、笑える。半分にできたら渡してあげてもいいわよ」
 にっこりと笑う彼女は、真面目顔よりもいっそう魅力的に映った。クールな大人といった顔立ちで、戦士といった雰囲気は見受けられない。だからこそ、静流は警戒していた。
 徒手空拳と日本刀は、静流が不利なことは明白だった。
「見たところあなた、素手のようね。いいんじゃない? きっとあなた強いし、このまま戦ってみても面白くなりそうだけど」
「有利取ってるからって強気になりやがって。ま、いいさ。配られたカードで戦うのが人生の醍醐味だしな――ああそうだ。ところで試合前に、景気づけの一杯どうだ」
 ポケットの中から、静流は酒瓶を取り出した。満タンにウォッカが入っている。
 カラエナは更ににっこり笑って、こう言った。
「いらない」
「だよな」
 瓶を内側のポケットにしまった静流は竜の型で構えを取り、片脚で一歩ずつ距離を詰めていった。対するカラエナは、八相構えで静流を迎えている。膝を少し曲げ、身体を横に向けて顔は正面を向き、左足を前に出して、顔の真横で柄を構えて刃先を天に向ける構え方だ。
 二人は互いに呼吸を整え、静流はこう言った。
「日本の剣術、学んだんだな」
「最初は西洋から入ったんだけどね。私に合う武器が日本刀だったから、日本の剣術を学ぼうと思って。日本で学んだのよ」
「そりゃいい。後一つ言っておくが、俺は女子供には手出しができない性質(たち)だ。必然的に手加減することになるが、怒るなよ。性格なんだ」
「別にいいわよ。あんたみたいなバカな男を負かせるなら、この世界にも来た甲斐があるってもんだしね」
 一歩一歩、着実に距離を詰めていく。カラエナの刀を握る手に力が入った。
「むさくるしい男に負けるよりかは、お前に負けた方がマシだな」
「まったく。私を褒めてくれるのは嬉しいけど、戦いは真剣勝負よ。ほら、いつでも来なさい」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 静流は一歩足を前に踏み出して、大きく前にローリングし、一気にカラエナと距離を詰めた。静流は右足を振り上げて、彼女の手を殴打した。爪先の大きなダメージがあるにもかかわらず、彼女はくっついたように刀と手が離れなかった。
 横薙ぎをしゃがんで回避した静流は、立ち上がると同時に腰の入ったアッパーを放った。肘で攻撃を防いだカラエナは、上から下に剣を振り下ろした。その素早さは達人級であり、静流は致命傷は避けたが腕に切り傷を負った。
 静流は間合いを取り、分析した。
 見た目の細さは、確かに日本刀と相性がいい。
 アッパーを回避し、肘を構えに戻すと同時に、呼吸と合わせて素早くカウンターの一撃を放ってきた。今まで短刀、ナイフやカタールといった剣の相手をしてきたが、攻撃スピードでいえばカラエナは人間の域を超えていた。あまりにも素早過ぎるのだ。打刀(うちがたな)と呼ばれる種類の刀で、菖蒲造(しょうぶづく)の造り込みになっているから、殺傷能力は非常に高い。
「どう? これでもまだ手加減できるのかしら」
「言ったろ。性格なんだよ。だが勝たなきゃ意味がない。今はどうやってお前を降参させようか考え中ってところだ」
「へえ。思いついたら教えてくれるの?」
「せっかくだからお楽しみにしといてやるよ」
 余裕の眼差しを見せているが、静流は焦っていた。これまでの対戦相手と比べて、明らかに格が違うのだ。武器を手にしているだけでなく、その技術力は未知数の相手で、人生経験において計測不能の強さだった。
 勝てる見込みは少ない。手加減をしなかったとしても勝てるかは不明なのだ。もしかしたら、敗北――。
 考えるしかない。スピードも技術力も高い相手に勝つために、必要なことは何か。次の一手はどうするべきか。
 二人は拮抗した視線の火花を散らしながら、次の一手を見据えている。緊縛した風が吹く。カラエナは、構えたまま大きく息を吸って、口から吐き出した。
 そして次の瞬間、彼女は下段の構えに切り替えて間合いを詰めた。
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