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文字数 6,382文字

 肺に血液が詰まり、マッケローは窒息死した。静流は、舞台の中に入り込んできたミアンナに手を握られ、閃光とともに控室に戻された。少し立ち眩みがした後、静流は周囲を見渡した。悪臭も、雨も何もなかったというのに、残酷な光景が目に焼き付いていた。
 鼓動を落ち着かせるために、ミアンナは紅茶を飲んでいた。しかし手が震え、器をテーブルの上に置く時に小刻みに音が鳴った。
 恐怖を目の当たりにした色で、彼女は椅子に座った。そうして額に手を当てて俯いた。静流は紅い絨毯の上に落ちていた本を拾った。人間名簿と書かれている。
「彼女の名前はモモイ、と言いました。その本に書かれています」
 ピンク髪の、絶叫した少女の名前がモモイだ。静流はそう説明を受けても、現実味を無くした世界の中で、名前は無意味だと感じた。
「私は彼女のことを知りません。それだけが、唯一救いです」
「モモイを助けようとした俺は、間違っていたか」
「三界に誤りも正しいもありません」
 あまりに一瞬で、突拍子もない出来事だった。静流はまだ、自分がステージの上に立っていてマッケローと対峙しているのではないかと思えた。
 だがマッケローは死に、彼の主も無残な最期を遂げた。
「どうして旧人が、人間を差別するか。虫けらのように扱うか。簡単です。人間だった頃の蒙昧(もうまい)な運命を思い出させるから。モモイは、マッケローを旧人同様に扱っていたはずです。情が入り過ぎて、もはやモモイが、人間になってしまった」
 何も言わず、静流はその場から逃げるように扉を開け家に帰った。ミアンナはその場の残滓を癒すように長い息を吐き、カップを残して部屋を後にした。
 三界に来てからというもの、静流は立て続けに無力を思い知らされることばかり起きていた。ディーグのこと、モモイのこと。五界とは全く異なる世界で、今まで通用してきた法則が無意味なものと刷り込ませられるのだ。彼は自分のベッドに身体を放り出し、両腕を枕にして天井を見上げた。
 普段なら双子が顔を出す時間だが、今日は訪ねてこなかった。
(相棒、災難だったな)
 この男がいる限り、一人の時間は永遠に来ない。
(何があったのか、ミアンナは一切説明をしなかった。お話好きのミアンナだというのに。きっと俺には理解できないんだろう。いや、知る必要がないのかもしれないな)
(なあ相棒。今あったことは全部忘れろ。お前は勝負に勝ったんだ。それだけが事実だ)
(あんなの勝利とは言えねえよ。勝利ってのは、俺が決めることなんだからな)
(生きるか死ぬか、その二択しかないステージでお前は生きて帰ってきた。俺からすりゃ、勝利だよ)
 じっとしていられず、ベッドから起き上がった静流は冷蔵庫の中に入っている酒に手をつけた。いつものようにウィスキーを飲み、空になった瓶を机の上に置くともう一度ベッドに寝転んだ。
 だが、すぐに起き上がる。
(どうしたんだよ)
(何もせずにいたら、さっきの最悪な絵が頭に思い浮かんで狂いそうになる)
 まだ鼻の中に匂いが残っていた。
 居ても立っても居られない、とはこの状況が真っ先に該当するだろう。静流はミアンナに何も言わずに家を飛び出した。
 玄関先に小さな人影があった。見れば、それは紗季だった。
「おう、ちょっとあんたに聞きたいことがあるんだが」
「後にしろ」
「ウチもさっきの試合、見てたよ。ミアンナさんの飼い犬がどれほど強いのか興味があってな。正直、あんたは死んでもおかしくなかった。普通の戦士なら、瓶に閉じ込められた時点で半分諦めてただろうよ」
「俺の余計な正義感のせいで、小さな女の子が死んだ」
 前を歩き出した静流の斜め後ろから、紗季がついてきた。
「長年この世界にいるウチからいわせりゃ、それは違う。守吟神のミスだ、あれは。守吟神にとっちゃウチらは家畜同然に思わないといかん。だってのに固執した。あんたは悪くない」
 行く宛はない。ただ家に居たくもない。静流は思いのままに足を前に動かしていた。
「自分の無力さを責めたくなる気持ちは分かる。だが、やけっぱちになるんじゃねえよ」
「目の前にいたんだ。ディーグも、モモイも。なのに俺は誰も救えなかった。自分の感情を殺してマッケローを撃った結果が、この有様だ」
「あんた殺し屋だったんだろ。生きてた頃は、似たようなこと色々あっただろうが。ウジウジ引きずってる場合か」
「五界の殺しは、まだ道義があった。三界とは訳が違う」
 いつも通っているから、風景に少しでも違和感があればすぐに気が付くものだ。だが、道の真ん中に落ちている茶封筒はいつも通っていなくとも、誰でも気が付いただろう。静流は封筒を拾って、足を止めた。差出人は、ホグウと書かれていた。「シズルへ」とタイトルが書かれていて、彼はすぐに封を解いて中に入っている白い羊皮紙を広げた。
『ここまで、計画通りです。僕のことは心配しないでください。シズルは、シズルの思うように動いてください。一緒にこの世界を変えましょう』
 文字を目で追う静流の側で、紗季がこう言った。
「ホグウから、あんたに渡せと言われたんだ」
「彼に会ったのか」
「ホグウが買い物をしている時にデチュラ様が偶然会った。ああいや、この紙を渡してきたってことは、デチュラ様とかウチを探してたのかもしれない。そこで初めて聞いたぜ、あんたがディーグを潰そうとしてること」
 文字は綺麗だったが、大きな羊皮紙にしてはまだ余白が十分にあった。書いている最中に誰かが訪れてきて、続きを書けなくなったのだろうか。ホグウの文面からは、焦りや苛立ちの感情は感じられなかった。
 計画、とはどんなことだろうか。
「デチュラ様が会いたいってさ。だからここまで迎えに来た」
「険悪な仲になったから、気が進まないな」
「あのことなら、デチュラ様はもう気にしてねェ。それよりもディーグを打ちのめしたいって利害が、あんたと姉御とで一致してんだよ。だから、とりあえず話だけ聞かねえか」
 泣きながら走り去るデチュラを窓から見ていた静流は、背中を押されても気が滅入る話だった。
 だが、ディーグに報復する手掛かりになるならば、些細な負の情緒を気にしていられる場合じゃないのだろう。静流は頷き、紗季の背中を追う事にした。
 興味のない武勇伝を聞かされながら町まで歩き、案内されたのは裏路地だった。建物と建物の隙間で全面日陰になっている。左右の建物は赤レンガになっていて、ゴミ一つない綺麗な裏路地を通り抜けると「ウッズマン」と刻まれた立て看板の建物が見えた。
 ウッズマンの左右には背の大きなコンクリートのビルが建っていて、ウッズマンとビルは連結していた。それはガラス張りで一階建ての建物で、スライド式の自動ドアが開くと真っ先に目に映ってくるものがあった。
 ちょうどその頃には紗季も武勇伝を語る口を止めていた。
「これはデロリアンか?」
 四輪駆動の車が、建物の中央にドッシリと腰を据えていた。車を取り囲むように、四方に電波塔のようなオブジェクトが立っている。
 車は緑と青のラインがディテールに沿って描かれた銀色の躯体で、塵もゴミもなく光が反射していた。
「いかにも、百キロを超えたら過去にも未来にも行けそうな姿をしてやがる」
「正確には八十八マイルだがなァ」
「で、この後は白衣の姿を着たデチュラでも出てくるのか」
「ここに姉御はいねぇよ」
 建物の床は大理石のタイル張りになっていて、左右の壁には隣のビルと連結した扉がある。そして、車の向こう側には――。
「誰かと思ってみりゃ、飴好きのガキんちょと可哀想な新入り君かい。あんま金になんなさそうじゃねえか」
 車の奥は半楕円形のステージになっていて、地面が二メートル近く盛り上がっている。その上から葉巻をくわえた四十台の男が、頭にキャスケット帽を被って下を覗いていた。
「オヤジ、今から姉御の家まで飛ばしてくれ。こいつと一緒にな」
 紗季は肘鉄で静流の脇腹を突いた。
「お前さんとこの旧人様が暴れに暴れて壊した前回の車代、まだ一銭も貰ってねぇんだが」
「ケチなこと言うなよ、また老けるぜ」
「ガキが調子こきやがって」
 おどけた口調で男はそう言って、両足を勢いよく高床の外に放り出した。すると足元に紫色の光る魔法陣が現れ、彼はゆっくりと地面に下降していった。
「今回の貸し代で、またローンが増えるぜ。トンズラしようとか考えんじゃねえぞ」
「ウチは義理には固いからなァ。オヤジにはさんざん世話になってんだ」
「女ってのはガキでも口だけは達者なんだ。まあ、なんだ、新規の兄ちゃんがいるわけだし追い返すわけにもいかねえよなぁ……」
 渋々といった表情を浮かべながら男は車のドアを開けて、静流に中に入るよう促した。
「乗ってもいいのか」
「金は全部デチュラに払わせる、今回はな。まあ乗れよ、悪い乗り心地じゃないぜ」
 気分は乗らないが、静流は開いたドアの向こうに見える奥の座席に乗り込んだ。革製の座席で、体が痛くならないように設計された座り具合だ。続いて紗季も乗ってきて、彼女はハンドルを両手で握った。
「お前運転できるのか」
「おうよ。三界はいいぜ、免許なんていらないんだからな。ちょっと説明書を読めば誰だって簡単に操作できる」
 扉ガラスの向こうで、男は腕を組んでキマリが悪そうに親指を顎に当てながら車のトランク側に移動した。
 なんの脈絡もなく、車内にノイズの混ざった男の声が聞こえてきた。
『兄ちゃん、絶叫マシンは得意か?』
 静流は首を横に振りながらこう答えた。
「乗ったこともないし、乗ろうとも思わねえよ」
『ならいい経験になる。じゃ、良い旅を』
 車にエンジンが入ると同時に、ガラスの向こうに見えていた景色が変わり始めた。建物の中だったのが一変し、野原になっていた。
「なァ、静流。まださっきの試合のこと、根に持ってるか?」
 変わっていく景色を見ながら、紗季が言った。
「あんなもの見せられて、すぐに忘れられると思うか。色んな拷問や処刑、殺しまで見てきた。だが、あれは異常だ」
「なら、お前の憂鬱ごと吹き飛ばしてやるぜ!」
「おい何言って――」
 突然、車が急発進し始めた。静流はシートベルトを締めなかったことを後悔しながら座席に身体を叩きつけられた。何度も止めろと叫んだが、紗季は意味を持たない言葉を大声で叫んでいるだけで、車は一向に止まらない。
 坂道では車体が一回転し、数秒は空を滑空して内臓ごと持ち上げられながら静流は周りを見渡す。とても冷静になれない状況下だが、周囲は森の風景になっていることだけは分かった。車は尋常じゃなく硬度が高いのか、木に激突しても、むしろ木をへし折りながら進んでいく。
 
 地獄のような旅行は十時間は続いたように思えた。
 静流は座席に足をかけながら、本来は足があるべき場所に頭を置いている。彼は車が止まるとゆっくり息を吸いながら、足で扉を蹴って開けた。体の節々に痛みを覚えながら外に出た。薄暗い、針葉樹の生えた森のようだった。
後ろを振り返ったが、そこには最初から何も無かったかのように車が消失していて、仁王立ちの紗季がキャンディを舐めているだけだった。
「脳みその左と右が入れ替わっちまったような気分だ」
「最高だろ。ほら、あそこが姉御の家だ」
 紗季の指の先を見ると、一軒の家が見えた。三角屋根で煙突が立っている。煙突からは赤い煙が出ている。
 グリム童話に出てきそうな風貌の家だ。薄暗い森の中に佇む家は、魔女の住処というものを連想させた。石の壁は所々苔が生えているし、古びた石の井戸まであった。
 玄関扉の真横に金属製の緑色のポストがあり、一枚の紙がはみ出していた。紗季はその紙を取って「またあの連中か」とだけ呟くと、扉を開けて家の中に入った。
 扉を開けてすぐにリビングがあり、中央のテーブルの前でデチュラが座っていた。テーブルは砂のような白色をしていて、彼女は西洋風の椅子に腰かけてコーヒーカップを啜っていた。彼女は家でも両目に眼帯をしていた。
「おかえり、紗季。シズルもよく来てくれたわ」
「元気そうだな、姉御」
 クス、と小さくデチュラは上品な微笑を浮かべた。
「シズルは、私に聞きたいことが山ほどあると思うわ。だから、人間らしいあなたが一番最初に言ってくれそうな質問を予想して、それに見合う答えを用意した。まずは、その答えを言わせてもらうわね」
 静流は紗季に背中を押されて、背もたれのないガラスの椅子に座らせられた。
 部屋の中央に机と椅子があり、左の壁の本棚は分厚い本で埋め尽くされていた。奥には大きな竈があり、その横にシンクがある。右側は薬品棚のようになっていて、試験管やフラスコといった科学者が使いそうな品に混ざって、皿やコップ等が置かれている。
「モモイは五界で、人間としてやり直してるわ。赤ん坊からね」
「じゃあ、七界に売られたわけじゃないんだな」
「人間のあなたからすると大きな罰に見えないかもしれないけれど、旧人からすると最悪よ。まだ七界に売られたかったって思う旧人もいると思うし」
 どういうことだと静流が尋ねると、デチュラは机に両肘をついて体を前に反らした。両手を頬の位置にして頭を支え、彼女はこう言った。
「五界が一番最悪な世界ってこと、忘れた? 戦争に貧困、金に格差に差別。五界で起きてる揉め事を一つ一つ口にしようとしたらキリがないわ。あの世界はどこを旅しても、必ず悲しみが付きまとう。唯一温情があるなら、モモイは全ての記憶を抹消されてるから、彼女にとって世界は五界だけになった。そうでもしないと耐えられないんだけどね」
「三界が、五界よりも良い場所かって言われると信じられねェ。ディーグの略奪に、あの無残な死体。無意味な決闘」
「一ついいことを教えてあげるわ、シズル」
 彼女は左手を紗季に伸ばした。すると、紗季が舐めていたキャンディーを受け取り、口にくわえてからこう言った。
「あなたが言ったもの全て、人間がこの世界に来てから起きた悲劇なの」
 深く意味を問わずとも、彼女の言っている真意を理解した。
「この町に決闘場ができる前は、誰一人として罰を受ける旧人はいなかったわ。ディーグなんていう魔物のような旧人もいなかった。誰かが人間を招いたから、三界は堕落しつつある。どうして旧人が人間を家畜同然に使い捨てにするか、理由はつくでしょ。人間に深入りすると不幸になるから」
「今言ったことが前提、か」
「あら、察しがいいのね。本題に入る前に言っておかなくちゃならないことだったからね。ディーグを倒すには、この世界のことを一つでも多く知らなくちゃならないのよ」
 人間は家畜、旧人は主人。家畜が主人に歯向かう、革命のようなできごとになる。言葉にはせずとも、デチュラはその現実を真っ向から突きつけた。
「これから作戦会議にうつる訳だけど、モモイのことはもう大丈夫? あの子が頭から離れなくて集中できないとか言われたら迷惑だし」
「なあ、デチュラ。一つ聞きたいことがあるんだが」
「なあに?」
 彼女は首を傾げた。
「この世界に、人間を来なくすることってできるのか。決闘なんて終わらせて、罪人は元々行くべき場所に送る」
「三界の常識を変えることになるわ。三界だけじゃない、他界から見物しにきてる住人の怒りさえ買うかもしれない。あなたがやろうとしていることは世界を正しい方向に変えること、とは言えないわ。一国の王子の首を落とすんじゃなく、自分が王子になると同義。人間風情のあなたが成し遂げられることじゃない」
「じゃあこのままでいいのか。人間が来て、三界も堕落していってるんだろ。誰かが変える必要があるだろうが」
「私が変える」
 キャンディを噛み砕く音が聞こえて、白い棒を口から取り出したデチュラはゴミを紗季に渡した。
 彼女の目には、仄かな怒りが宿っていた。
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