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文字数 5,242文字

 静流がシヴィラに来てから三日が経った。今のところ、不自由な生活ではない。少なくともベトナムや中世フランスの刑務所に比べたら、その差は月とスッポンだ。毎日決まった時間に食べられる料理は、現世のものを用意されている。全てミアンナ手作りだという。昨日は豚汁が出てきて、味はといえば、味噌汁に豚肉を入れただけの質素な味わい。ただ五人で机を囲んで食べるのは、悪い時間ではなかった。
 館に住んでいたのはミアンナだけではなかった。執事と、双子の兄妹がいたのだ。兄妹は、捨てられていたところをミアンナが拾ったという。
 シヴィラにも朝と夜という時間があって、一日は三十四時間。二十時に陽が落ち始める。平均的な気温は不明だ。窓は嵌め殺しになっていて、外側からカーテンが掛けられている。どうやら完全な密室を作ってしまったことにミアンナは罪の意識があるようだが、静流は問い詰めはしなかった。
 大事な従者が逃げれば大事だ。彼女の立場もあるだろう。地位が急降下するかもしれない。窓の外がどうなっているのか気にはなるものの、館の中は自由に歩き回ることができた。
 小腹が空けば一回の客室広間の中にある菓子用戸棚をあけて食べればいいし、執事に頼めば簡単なものなら作ってくれる。料理の腕に関しては、執事がミアンナを上回っているが、彼女の唯一の趣味が料理なのだという。執事は遠慮して仕事を譲っているのだ。
 午後十八時を過ぎた頃合いだ。静流はトレーニングを終えて自室のベッドに横たわった。
 簡単なトレーニングだ。目を瞑り、架空の相手を作り出す。毎度相手の体格や武器、能力は変更する。今日は白人の、彫りの深い顔立ちをした軍人だ。目を瞑ったまま、相手の攻撃を予測して回避する。一時間回避し続け、次の一時間は攻撃だ。弱点に正確に掌底を叩き込み、一歩引く。相手は怯んでいる。次にどの一手を繰り出すのが確実か思考し、回復される前に一手を繰り出す。
 朝に二時間、昼に二時間、夜に二時間。合計で六時間はこのトレーニングだ。その他は体が鈍らないように、ベッドの縁や硬い扉、部屋の中にある道具を駆使して肉体維持に励む。あくまでも維持だ。
 戦いには必要以上の筋肉は不必要である。咄嗟に動けないし、相手が銃を持っていた場合に標的が大きければ撃ち放題だ。筋肉が固ければ銃弾は大したダメージじゃない……とは、架空で大活躍するスーパーヒーローが作り出した傑作の冗談だ。
 戦いにおいて不要な筋肉、脂肪は敗北の要因である。球技と同じだ。サッカーも卓球も、力があったところで役に立つのは一部だけだ。戦いに必要なのは的確な判断力と戦略。
 以上の全ては、静流が実戦の現場で学んだことの全てだ。
「失礼いたします、ホグウです」
 扉越しに声がして、汗をかいていた静流は、首をタオルで拭きながら返事をした。ホグウは執事の名前である。
 彼は扉を開けて、更の乗ったトレイを車輪のついた棚の上に乗せ、手で押しながら入ってきた。
「こちら、サーロインステーキです。シュガーキャロットとハムのポテトサラダに、お好みのソースもぜひ」
「ありがとな。いつもこき使ってるようで悪い」
「いえ、そのために私はおりますもので」
 黒い髪を後ろで一本に結んでいる。それから、いかにも執事という恰好のスーツにルージュのネクタイ。彼は最初に挨拶をした時から今までずっと慇懃であり、真面目という性格を崩すことはなかった。動作一つとっても、上品な振る舞いなのだ。唯一彼に弱点があるならば、それは卑屈なことだ。
「お前の料理は絶品だ。いつも美味しく頂いてる」
「ありがとうございます。ですが、まだまだ未熟の身。もっと頑張りますよ」
 この世界における従者のルールがある。それは三日に一度は必ず試合に出なければならないというものだ。期限を過ぎると、どんな状態でも強制的に出場を命じられる。それさえ逆らって、どうなるかは不明だ。
 もう一つ知ったルールは、褒美のことだ。
 従者は試合に勝てば、願い事を提出できるのだという。受理されるかは上層部が決定すると話に聞いただけで、上層部の頭の固さまでは分からずじまいだった。一度目、名前さえ聞けなかった日に焼けたオッサンに勝った時は試しに酒を頼んだ。静流の好きなジョニーウォーカーのウィスキーだ。すると約束通り、翌朝ビンが置いてあったのだ。
 ロシアで密かに飲んでいたブラック・ラベルのウィスキーは格別な味だ。グレート・ゲームの観客として飲むには相応しい酒である。
「黒川さん、ロシアにいたのですよね」
 畏まった振る舞いで、ホグウは尋ねた。静流が頷くと、こう続けた。
「前回の戦い振りを見させていただいていたのですが、あの戦い方はシステマとは異なるものでした。本当に、どういう武術でしたか、教えてもらえませんか」
「基本はシステマと何ら変わりない。特に呼吸についてはな。最初に断っておくが、俺は武術や流派なんてものはない。自ら編み出したものだ」
「最初の、あの構え方も?」
「左手は防御、右手は攻撃」
 静流は左手を手刀の形にして、右手に拳を作って肘を頭まで持ち上げた。ホグウの言っていた構えだ。
「左手を構える時、胸の位置まで下ろす。あまり力は入れない。敵が攻撃をするとき、弱点となる部分、即ち関節に斜めから手刀を差し込むことで攻撃力を削ぎ、上手く入れば軌道を逸らせる」
「上手くいけば、ということは、目的は攻撃力を落とすことなのですね」
「敵の攻撃を回避することだけが戦いじゃない。食らってもいい攻撃は食らう。中には食らう必要があるものさえ。だが何もせずに食らうのは問題だ」
 構えを崩した静流は、ベッドに座り込んだ。目の前の机に置かれたステーキに食らいついた。歯応えのある肉で、塩コショウのスパイスが絶妙に効いている。
「誰かに教わったとしか思えませんね。気を悪くしたらすみません」
「慣れてる。考えれば分かるだろ。人間は学習する生き物だ。失敗したら、新たなやり方で戦う。俺はそれの繰り返しだった」
「負けたことも、何度も?」
「組織に属していた頃、実戦で何度も死にかけた。訓練さえさせてもらえなかった」
 風変りな組織は、何度敗北を喫しても静流を解雇しなかった。静流でさえ疑問だった。なぜ、自分を雇い続けるのか。ボスは何も言わなかったから、静流も尋ねはしなかった。
 敗北という言葉は柔らかい。実戦で銃で撃たれて地面に倒れるというのは敗北ではない、悲劇だ。
「シズル、シズルー」
 間延びした声が廊下から聞こえてきた。この声はミアンナのものだ。静流は半分まで食べたステーキから目を逸らして、たった今扉の奥に現れたミアンナと目を合わせた。
「試合です」
 急ぎ足で来たのか、息が不規則だ。慌てているようにも見えた。
「ステーキを食べてからでいいか」
「ええ、それはもちろん。あ、私もお腹が空いてきました。ホグウ、作ってくれませんか?」
「いいですよ」と一言でホグウは笑みを作ってみせた。誰かの為に時間を費やすことに関して、ホグウは一切面倒だと感じないらしい。
 試合には、乗り気ではなかった。
 敗者がどうなるのかミアンナに尋ねれば、予想通りの答えが返ってきたのである。
 試合で殺された者は、主によって運命が決まるというのだ。ほとんどの場合、主は愛想を尽かして負けた従者を地獄へと送る。中には再び従者として招き入れる主もいるらしいが、基本は地獄に送られて苦しみに耐える日々が始まるのだという。
 針山、血の池とは日本でよく聞く地獄だ。ミアンナが言うに、敗者の向かう地獄というのは人間の想像では到底辿り着けない境地の苦しみであると言う。
 体から魂を強引に抜かれる苦痛と同じものが与えられる。
「では、頑張ってくださいね、シズル。準備ができたら私の部屋に来てください。待ってますよ」
 ミアンナとホグウは揃って部屋を退散した。ホグウの笑みが、残滓として後に残った。
 人間にとって無益な殺し合いを強いられる。今でもまだ、試合の目的は教えてもらっていない。なぜ人間同士で戦わねばならないのか。目的も分からないまま、例えば相手に勝ったとして、相手は極限の苦しみを味わうのだ。静流が負ければ苦しみを味わうだけでなく、ミアンナの地位まで急降下するのだという。
 最初に会った時、ミアンナはここが地獄ではないと言った。それは間違いだと思った。
 ゆっくりとステーキを食べ終えて、ランプが反射するほど皿を白くして、静流は部屋を後にした。
 廊下で銃を確認した。六発、装填されている。
 洋館に住んでいるのは、ミアンナの趣味なのだという。赤い絨毯と、廊下にある皿の入ったキャビネットや窓横の小さな机に置かれた花瓶は、中世西洋をイメージしているのだと、彼女自身が語っていた。
 館の三階にある大書斎がミアンナの部屋だ。木製の階段を上って、左右の壁にある部屋に入らず、突き当りの部屋が大書斎。静流は簡単にノックをしてミアンナを呼んだ。
「ちょっと待ってください、まだステーキが来ていません」
「試合が終わってからでいいだろ」
「それはいけません。せっかくホグウが作ってくれているのに、私の部屋にきて私がいなかったらあんまりじゃありませんか」
 扉越しに、どことないミアンナの人間性が感じ取れる。
 両扉で、二つの細長い取っ手を掴んで奥に押した。扉は静かに開かれた。
 一人の部屋にするにはあまりにも広い空間だった。天井から鳥籠がぶら下がっていて、中には一匹の青と白の鳥が入っている。左右には本棚が合計四つあり、聖書よりも厚い本が詰め込められている。部屋の中央にUの形をしたテーブルがあり、中央の丸椅子に彼女は腰かけていた。
 見たことのない家具や銅像が置かれているが、全て退かしてしまえば一つの道場として成り立ちそうな広い空間だ。
「試合はステーキを食べてからです。いいですね」
「分かったが、今回も褒美を何かもらえるのか」
「ええ。あなたの望むものならなんでも良いですからね」
 思いがけず暇ができあがった静流は、大広間の隅に空いた空間でイメージトレーニングをすることにした。ミアンナは暫く身のこなしを眺めていたが、いざステーキが来ると、夢中になって頬張っていた。
 相手によっては、今日で倒されてしまうかもしれない。静流は自信がないわけではなかった。六龍と呼ばれた男として誇りがあるからだ。だが、世界を知った気にはなっていない。知らないことの方が多い。一生で稼げる知識という財産に何ら価値はないのだ。実際、この世界のことは生きている間に知る由もなかった。
 組織のボスは、こんな言葉を残した。
「知らぬのは、悪ではない。知るは、正ではない。無関心こそ、最も醜い」
 起こるべき試練と、道を照らす光には意味がある。地面を這うアリに存在価値を見出す人間は少ないが、関心を持ってみれば、意外な真実が見えてくる。無関心は、真実から遠ざかるとボスは教えていた。
 六龍と呼ばれて驕ってはならない。どんな小さな出来事、者も無視してはならない。無関心は身を亡ぼす。
 師匠を持たない静流だが、ボスの規範だけは律儀に守っていた。彼は絶望から蘇っている人間だ。
 急いで食べたのだろう、ミアンナのお皿が空になっていた。静流は相手の眉間に右ストレートを食らわし、動きを止めた。
 口についたステーキソースをナプキンで拭き、ミアンナは椅子から立ち上がった。
「さあ静流。行きましょう」
 礼儀正しいホグウは皿の片付けをしている。ミアンナはU字型のテーブルから出て、静流に手を差し伸ばした。傷もなく、整った腕だった。
「今回の相手について、何か情報はないのか」
 戦いにおいて重要な要素となってくるのは、相手の情報だ。どういった戦法が得意であるとか、弱点があるとか。スパイや忍者は指揮官がもっとも手入れを施す必要のある駒だ。
「ありません」
 面食らって、静流は黙り込んだ。期待を大きく外した答えだった。
「でも安心してください。相手もあなたのことを知りませんから。イーブンですよ」
「頭痛がし始める。どうなっているんだ、此処は。こういう闘技場なら、どんな荒くれた場所でも相手の情報くらいは寄越すぞ」
「そんな、私に言われても」
 少しだけ彼女は怯えた表情をした。気弱過ぎる主だ。
 溜息と同時に、静流は腕を伸ばした。二人の手が繋がれて、眩い光が二人を包んだ。
「言い忘れていましたが、向こうについたらすぐに試合が始まります。そのつもりで」
「は、本気か」
「ええ。言うのが遅くなってすみません」
「ああ、まったく!」
 呆れと呆れ、そして呆れ。この世界で馴染むまでどれ程の時間を要すだろうか。少なくとも主がミアンナではなく、もう少し事情を説明してくれる人物であったならば。
 同じ屋根の下で過ごして、彼女について分かったことが一つだけある。彼女は、雲のように柔らかな生き方をしていて、気まぐれであり、静流が苦手とする性格を具現化したような存在だったのだ。
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