第42話 アダージョ

文字数 7,542文字

アダージョ(イタリア語: adagio)は、音楽用語の一つ。

原義は「くつろぐ」であるが、音楽用語としては遅い速度を示す。

遅い速度で書かれた楽章や楽曲そのものをアダージョと呼ぶ場合もある。


レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラの、この曲が車で流れていて、しばらく原曲がなにか、思い出せなかった。

レーモン・ルフェーヴルの曲として知られる「哀愁のアダージョ」は、原曲はスペインのミカエル・バケス作のクラシック音楽。1964年のフランス映画「寄宿舎/悲しみの天使」にも使われました。 スペインのポップ・トップス(「マミー・ブルー」も歌っているグループ)もThe man I am todayというタイトルで英語で歌っています。


この曲をマルティーヌ・クレマンソーが、持ち前の美しい声でフランス語で歌っています。

http://chantefable2.blog.fc2.com/blog-entry-216.html

マルティーヌ・クレマンソーは1949年生まれで、1967年にラジオの新人コンテストに入賞したのち、ミュージカル「その子は私だった」の主演女優に抜擢されて華々しくデヴュー。

1971年には、「恋はみずいろ」の作曲者として知られるアンドレ・ポップが、その透きとおるように美しい声と並外れた歌唱力に惚れこんでヤマハ世界歌謡祭に出場させ、みごとグランプリを得た。

https://ryoumablog.work/blog/adagio-cardinalraymond-lefevre/

1971年に開催された第2回世界歌謡祭グランプ受賞曲で、アンドレ・ポップの名曲。ルフェーヴルの演奏でも知られています。
5;22。曲の冒頭!
バッハは若い頃、イタリアから伝えられた協奏曲を多数チェンバロ・ソロ用に編曲した。これらの編曲のうち、アレッサンドロ・マルチェッロ(1669~1747)のオーボエ協奏曲ニ短調を元にした、協奏曲BWV974からの第2楽章アダージョは、現在でもピアニストのレパートリーとして、しばしば単独で演奏される。

マルチェッロは、弟のベネデット(1686~1739)と共に、イタリア・バロックを代表する作曲家として活躍していた。兄アレッサンドロのオーボエ協奏曲は、18世紀初頭に書かれたと言われ、彼の代表的な作品として現在でもオーボエの重要なレパートリーになっている。
https://www.piano.or.jp/enc/fb/view/219

『弦楽のためのアダージョ』は、サミュエル・バーバーが作曲した弦楽合奏のための作品である。

元は、自身が作曲した『弦楽四重奏曲 ロ短調 作品11』の第2楽章を弦楽合奏用に編曲したものである。

すすり泣くような旋律、中間部終わりの激しく突き上げる慟哭のようなクライマックスで知られる。なお、タイトルの『アダージョ』とは、楽曲に付けられた速度記号である。演奏時間は10分程度。

初演は1938年11月5日に、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団によって行われた。

アメリカでは、この曲が有名になったのは、ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてからである。そのため個人の訃報や葬送、惨事の慰霊祭などで定番曲として使われるようになったが、バーバー自身は生前「葬式のために作った曲ではない」と不満を述べていた。

日本においては、昭和天皇の崩御の際に、NHK交響楽団の演奏を放映した。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7

『プラトーン』は、1986年公開のアメリカ映画。製作会社はオライオン・ピクチャーズで、監督・脚本はオリバー・ストーン。出演はチャーリー・シーン、トム・ベレンジャー、ウィレム・デフォー。


タイトルの「プラトーン」は、軍隊の編成単位の一つで、30名から60名程度で構成される小隊の意味である。


1970年代の『ディア・ハンター』や『地獄の黙示録』に次いで、1980年代にベトナム戦争を描いたオリバー・ストーンの代表作である。


ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーンが、アメリカ陸軍の偵察隊員であった頃の実体験に基づき、アメリカ軍による無抵抗のベトナム民間人に対する虐待・放火、虐殺や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬汚染、仲間内での殺人、誤爆、同士討ち、敵兵に対する死体損壊など、現実のベトナム戦争を描く。


アメリカ国内だけで予算の20倍を超える1億3800万ドルの興行収入を記録した。

監督はジョニー・デップにもテイラー役をオファーしている。デップは自分が若すぎることと自らに知名度がないことを理由に断ったが、ストーンは「彼は将来一大映画スターになるであろう」と予測し、(端役ではあったが)ガーター・ラーナー役での出演を直訴した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3

モーツァルトのピアノ協奏曲23番第2楽章。

『アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏とオルガンのための楽曲。弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。


この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。


オルガンと弦楽器が奏でる切なく感傷的な旋律の「アルビノーニのアダージョ」は、数々の映画やテレビ番組のテーマ曲にもなった名曲です。

アルビノーニは、バロック時代に活躍したイタリアの作曲家ですが、この曲の作者は、全く別の人物とも言われています。


1960年代に公開された映画『審判』で観るものに鮮烈な印象を与えた曲「アルビノーニのアダージョ」。映画の公開とともに大ヒットとなりました。楽譜の出版は1958年。タイトルは、「アルビノーニによる2つの主題のアイデア、通奏低音に基づく弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調」、その傍らに、「レーモ・ジャゾット」と記されています。

ジャゾットは、20世紀に活躍したイタリアの音楽学者です。彼によれば、第2次大戦で破壊されたドイツ・ドレスデンの図書館でバロック時代の作曲家アルビノーニの自筆譜の断片を発見し、それを元にこの「アダージョ」を作り上げた、とのことでした。


この曲が発表された当時は、空前のバロック音楽ブーム。イタリアでは、イ・ムジチ合奏団がヴィヴァルディの「四季」を録音して爆発的な人気を博していました。そんなブームのさなかに登場したのが、この「アダージョ」。忘れ去られた作曲家アルビノーニの再発見だとして、センセーショナルな話題となりました。多くの演奏家たちが競い合うようにこの曲を取り上げ、巨匠カラヤンも1969年に「アダージョ」を録音。以後、この曲は、映画やテレビなどで繰り返し使われ、クラシック音楽の中でも指折りの人気曲となったのです。


人気の一方で、研究者たちが発表当初から投げかけてきたのは、「アダージョの元の作者は、本当にアルビノーニなのか?」という疑問。この曲を世に出したジャゾットは、自筆譜の断片を発見したというものの、その証拠を示そうとはしませんでした。専門家たちからは、様々な批判の声が上がります。研究者たちは、ドレスデンの図書館を調べましたが、ジャゾットの説明を裏付ける記録は見つかりません。謎は深まるばかり…。そうした中、2007年、ジャゾットの秘書だった女性が、新たな資料を提示します。アルビノーニの自筆譜を書きとめたというメモです。


また、ジャゾットは亡くなる数年前に、次のようなコメントを残しています。「私は、アルビノーニを忘却の淵から救いたかった。アルビノーニが書いた音楽を実際に聴けば、彼への関心が高まるだろうと思い、この曲を作りました。それは、私自身の純粋な楽しみでもあったのです…」

https://www.nhk.or.jp/lalala/archive161001.html

「オール・バイ・マイセルフ」は、1975年にエリック・カルメンが発表した、パワーバラード。

作詞・作曲 エリック・カルメン、セルゲイ・ラフマニノフ

最後のリフレインの前の置かれる序奏部分バースはセルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18第二楽章(アダージョ・ソステヌート)を基礎に作られている。またコーラスの部分は、カルメン自身が加入していたバンド「ラズベリーズ」のために1973年に書き下ろした曲「レッツ・プリテンド」から取られている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%95

「恋にノータッチ」(Never Gonna Fall In Love Again)  エリック・カルメン


エリック・カルメン(1949年8月11日-)はアメリカの歌手クリーブランド出身。大学時代にバンド活動を始める。

1970年にラズベリーズのボーカルとしてデビューし「Go All the Way」などのヒットを飛ばしました。

1974年にバンドは解散、彼はソロ活動を始める。

1976年、 「オール・バイ・マイセルフ」  が全米2位の大ヒットを記録。

同年の「恋にノータッチ(Never Gonna Fall In Love Again)」はラフマニノフの交響曲第2番をモチーフにした曲と知られている。

https://ameblo.jp/asakaze1950/entry-12575333245.html

なんといってもこの曲のポイントはメロディ。途中で転調してメジャーコードへと移って盛り上がっていくサビはラフマニノフ「交響曲第2番 第3楽章」をモチーフにしたあまりにも美しい究極のメロディ。

交響曲第2番ホ短調作品27は、ロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフが作曲した交響曲。

第3楽章は全4楽章の中で最も広く知られる、ラフマニノフならではの美しい緩徐楽章である。まずヴィオラによるスラヴ風の流れるような旋律が、儚い憧れを込めるかのように歌われる。続いてクラリネットのソロによるノクターン風の長閑な旋律がこれに代わる。中間部では第1楽章冒頭の序奏に出たヴァイオリンの動機が変形され、イングリッシュホルンやオーボエのソロがさらにそれを変容させる。その後、オーケストラ全体によってこの曲の情緒面での頂点が形成され、全休止ののち、最初のテンポへと戻る。


その後は、これまでに出た3つの素材が様々な楽器のソロによって出され、次第に組み合わさりながら曲は延々と流れる。そして楽章の結末では、統一動機が原形のまま(但しこの楽章の主調で)現れて第1楽章との結びつきを再び強め、静かに閉じる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95)

ラフマニノフの交響曲第2番は演奏するのに約1時間かかる曲です。マーラーやブルックナーの交響曲より長くはありませんが、初演後、「退屈だ」「形式が緩んでいる」という批判を受けてきました。

問題は、ラフマニノフの神経がとても繊細だということです。二十四歳の時に交響曲第1番を書いたときに悪評を受けると、神経衰弱にかかってしばらく苦労するほど、いわば「ガラスメンタル」でした。結局、交響曲第2番も彼はあきらめました。「指揮者が勝手に削って演奏してもよい」と宣言もしたのです。その後もこの曲を演奏する人はまれで、時にはでたらめに省略された形で演奏されたり、アルバムが出されたりするほどでした。これほど避けられてきたこの曲の再発見に貢献した人こそ、指揮者・アンドレ・プレヴィンです。彼はロンドン交響楽団の首席指揮者だった1971年、この楽団を率いて旧ソ連とアジア巡回演奏に出かけました。モスクワ、レニングラード、東京、大阪、名古屋を経て、ソウル、香港へと続く日程でした。

ソウルでは、東亜(トンア)日報の主催で、市民会館(現在の世宗文化会館)でコンサートが開かれました。バイオリニスト・鄭京和(チョン・ギョンファ)がチャイコフスキーの協奏曲を共演しました。

この時、メインプログラムとして演奏された曲が、まさにラフマニノフの交響曲第2番でした。もちろん気に入った曲だから選んだのでしょうが、プレヴィンは、この巡回演奏でこの曲を続けて指揮しながら深く理解することになり、本当にこの曲を愛するようになったと言います。

2年後の1973年にはプレヴィンが、同じロンドン交響楽と共にこの曲をアルバムで発売して人気を集めました。その後、複数の指揮者がこの曲のアルバムを出し、削られて演奏されることはなくなりました。

1976年には人気がより一層高まりました。クリーブランド音楽院を出たエリック・カルメンという歌手が、この曲のテンポの遅い第3楽章の主旋律を編曲して、ポップソング「Never Gonna Fall in Love Again」(もう二度と愛すまい)として出したからです。カルメンは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章も、「All By Myself」という歌で脚色して、より大きな人気を集めました。

https://www.donga.com/jp/article/all/20200728/2133717/1

アダージョといえば、マーラーの交響曲第5番の第4楽章。映画『ベニスに死す』のテーマ曲。何度聴いたかわかりません。

「作品の中の音楽』13話に特集してあります。

今回は10番です。初めて聴きます。

交響曲第10番嬰ヘ長調はグスタフ・マーラーによる未完成の交響曲である。

マーラーは1910年に本作の作曲を開始したが、翌1911年、死去により完成させることができなかった。楽譜は第1楽章がほぼ浄書に近い段階で、他の楽章は大まかなスケッチがなされた状態で残された。国際マーラー協会は第1楽章のみを「全集版」として収録・出版しており、これに基づいて第1楽章のみ単独で演奏されることが多かったが、第二次世界大戦後、補筆によって数種の全曲完成版が作られている。


『マーラー伝』の著者リヒャルト・シュペヒトによれば、マーラーは、完成することのできなかった第10番のスコアを焼却するように、妻アルマに言い残した。しかし、アルマは楽譜を形見として所持していた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC10%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)

1900年、マーラーは知り合いの家に食事会に招かれました。そしてそこで、アルマ・シントラーという女性と出会います。彼女は当時、「ウィーン一の美女」と評判の女性で、20世紀はじめのウィーン芸術界のミューズでもありました。知性、そして芸術的才能に恵まれたアルマは、ピアノ、作曲活動を行っていましたが、マーラーは彼女に会って数ヵ月後、早くもプロポーズ。アルマもすぐにこれを受け入れました。

さて、このアルマという女性。アルマは少女時代から、絵、文学、哲学、作曲に才能を発揮。そのうえ、大変美しく多くの男性芸術家をとりこにしたという、いわゆるファム・ファタール<魔性の女>。作曲家のツェムリンスキーや画家のクリムトなど…多くの男性との浮名を流していました。

二人は結婚後、子供にも恵まれ一見すると幸せな結婚生活を過ごしているように見えましたが、アルマは「グスタフ、私のように飛ぶのが好きで、華やかな色が好きな鳥を、どうして鎖につなぐの・・・」と日記に書き残しています。 マーラーは指揮者として大変多忙な生活を送っており、アルマにもその生活のペースにつき合わせていたそうです。仕事で忙しいご主人が、奥さんの話になかなか耳を傾けない・・・自由人のアルマはマーラーとの結婚生活に不満をもっていたのは確かなようです。

そんな不協和音が流れていく中、アルマはオーストリアの療養地でヴァルター・グロピウスという建築家と出会い、不倫関係に陥ってしまいます。マーラーはグロピウスがアルマに送ったラブレターをある日発見し、アルマに詰め寄りました。しかし、アルマはそれまでの結婚生活の不満を爆発させてしまいます。

マーラーは自分がどれだけアルマを傷つけてきたかに気づいたものの、自身の心にも深く傷を刻んでしまいます。精神的にすっかり参ってしまったマーラーは、あのフロイトからカウンセリング治療を受けることになりました。しかし、アルマの不倫はその後も続き婚姻関係は続いていたもののマーラーの孤独はますます深くなり、1911年、享年50歳という若さで亡くなってしまいます。

マーラーは交響曲を9番まで書き残しましたが、最も有名な第5番はアルマと出逢った頃に書かれました。そして、特にその第4楽章はクラシック音楽では稀に見る官能的で頽廃的な傑作として大変有名です。この第4楽章こそ、アルマへの愛の調べだったとも言われています。

マーラーが亡くなった後、アルマは画家ココシュカとの恋愛を経て、例の不倫相手グロピウスと再婚。その後、詩人フランツ・ヴェルフェルと再再婚。84歳でその生涯を終えたアルマ・マーラー・ヴェルフェルのお墓はウィーンのグリンツィン墓地にあり、マーラーと背中合わせに眠っているのです。 

https://columbia.jp/joshicla/classics05.html

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