第48話 モーツァルトの短調 2
文字数 4,478文字
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BFK.545
幻想曲 ハ短調 K.475は、モーツァルトが作曲したピアノのための幻想曲。
本作は1785年5月20日にウィーンで作曲された。1785年12月にピアノソナタ第14番 K.457と合わせて作品11として出版されており、これによりK.457はモーツァルトのピアノソナタの中でジャンル違いの作品とともに出版された唯一の作品となった。作品11の2曲はテレーゼ・フォン・トラットナーに献呈されている。
この作品はピアノソナタ第14番へのプロローグとすべく書かれている。形式的には各部分が接続されていくという形で一貫性を見せており、その方法論にはCPEバッハ(バッハの次男)の幻想曲が参考にされた可能性もある。一方、和声的にはソナタ形式に用いられる因習的な推移を逸脱し、主調から離れて彷徨うように移り変わる。モーツァルトはこの曲において当時のピアノの音域を余すことなく活用し、その色彩豊かな効果を引き出している。
アルフレート・アインシュタインはモーツァルトの「最大限の想像力の自由さと大胆さ、極めて極端な発想の対比、この上なく抑圧から自由な抒情性の多様さ、そしてヴィルトゥオーゾ要素に耽りながらも、構造の論理性を保つ能力」に言及し、本作を高く評価している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E6%83%B3%E6%9B%B2K.475
ピアノソナタ第14番 ハ短調 K. 457 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したピアノソナタである。
モーツァルトが作曲した短調のピアノソナタは『第9番(旧第8番)イ短調 K. 310 (300d)』とこの作品のみである。モーツァルトのピアノソナタの中で最も激しく劇的な展開を見せており、後に音楽家となる初期のベートーヴェンに強い影響を与えたと言われる。
この曲と幻想曲の自筆譜は長く行方不明となっていたが、1990年7月にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで発見され、同年11月21日にサザビーズで競売にかけられて落札者により88万ポンドで落札された。この自筆譜ではテンポおよび曲の細部に出版譜とは異なる部分がある。
ピアノソナタ8番 イ短調K.310
旧モーツァルト全集では第8番、新モーツァルト全集では第9番とされる。
悲劇的で無窮動な刻みが続くなか、右手が高らかと歌い上げます。この曲は悲しみや絶望の感情というよりかは、どちらかというと強烈な不安を煽る悪魔的な力を持った曲です。
このように、陰と陽の感情の両極端を持ち合わせていたモーツァルト。この、人間性の複雑さに、もしかするとモーツァルトが愛される秘密が隠されているのかもしれません。
海の友人であり、父親もピアニストで幼い頃から英才教育を受けていた秀才、雨宮 修平のピアノを担当するのが髙木 竜馬。
自身もピアニストの母親を持ち、音楽が溢れる家庭で幼少の頃からピアノの道を志していたそう。
アニメでの修平は、ピアノ以外には脇目も振らず生きてきた故の頑なさや、神経質な面に焦点を当てられて描かれていますが、髙木さんはサッカーでゴールキーパーをやりながらレッスンに通い、普通高校で音楽と関わっていない友人達と交流を深めることで、見聞を広めながら大らかにピアノに取り組まれていたようです。
1992年生まれで2歳からピアノを始め、7歳から故エレーナ・アシュケナージに師事し、16歳から故中村紘子、ミヒャエル・クリスト各氏に師事し、錚々たる名ピアニストのもと、才能を開花させていきます。
その後、ウィーン国立音楽大学のコンサートピアノ科に首席合格を果たし、現在は同大大学院課程に在籍しています。
また、浜松国際ピアノアカデミーコンクールやチャイコフスキー国際コンクール、グリーグ国際ピアノコンクールなど数々の国際コンクールで優勝を果たしている実力派です。
修平のピアノは、「透明でキラキラした音のカケラ」と海に表現されていますが、その表現通りの繊細で滑らかな演奏を作中披露してくれました。
モーツァルトは、3つの幻想曲(K. 396とK. 475、K. 397)を書いたが、ニ短調のK. 397は、自筆譜がなく未完ということもあり、最も謎に満ちた作品となっている。成立は1782年とされているが、詳細な時期や作曲の動機は不明である。
作曲者の死後、1804年に出版された初版譜には「導入部としての幻想曲、切り離した曲」という表記があり、第97小節、ニ長調の属七和音のフェルマータで終了している。その為、ハ短調のK. 475と同じように、ソナタやフーガなどの作品への序曲としての役割を持っていたと推測される。現在は1806年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された際に加えられた10小節の補筆部を演奏して終止させるのが慣例である。この補筆部の作者は不明だが、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番のカデンツァを書いたアウグスト・エバーハルト・ミュラー(1767-1817)だとする見方が多い。
モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑していたという。
モーツァルトが作曲した626曲のうち、短調はたった19曲しかありません。モーツァルトはとてつもなく底抜けに明るい人だったのでしょうか? でないと、長調と短調の割合がこんな風にはなりませんから。では、モーツァルトが作曲した短調の曲はどうだったのでしょうか。明るすぎる人が書く短調の曲は、本当に良い曲なのでしょうか。実はモーツァルトの曲の中でも、短調の曲ほど絶品な曲が多いのです!!
まず、なんといっても「レクイエム」。鎮魂歌とも訳されます。これはモーツァルトが死ぬ間際に書いた曲です。悲しいを通り越して鳥肌が立つほど怖い。オーケストラと合唱の編成で書かれた曲で、ミサ曲の構成に倣って書かれています。
当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いているのである。
いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたが、1964年になってこの匿名の依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープ という人物であることが明らかになった。ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた。彼が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相だった。したがって、何ら神秘的な出来事が起こったわけではない。
ただ、モーツァルトが自身が死へと向かう病床にあってなおレクイエムの作曲をしていたのは事実である。コンスタンツェの妹ゾフィーは、モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだったと姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた手紙の中で述べている。
交響曲第40番(第一楽章)
この甘くせつない魅惑の旋律は、誰も文句のつけようのない永遠の名作……
サヴァリッシュさん、速いです。いろいろ聴いてみたけどダントツ速くて違和感が。コメントによると、若い頃のカラヤンより速いとか。
あえて貼り付けます。
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