第16話 チャイコフスキーの死因
文字数 5,479文字
チャイコフスキーの死因は、コレラとされている。1893年11月2日、観劇の後にレストランで会食しているときに川の水をグラスで飲み干したことが理由とされている。その数時間後、とてつもない下痢と嘔吐症状が彼を襲った。その後無尿に陥り、意識が混濁し、4日後の11月6日に死亡した。
Kornhauser P. The cause of P.I. Tchaikovsky's (1840-1893) death: cholera, suicide, or both? Acta Med Hist Adriat. 2010;8(1):145-72.
今はYouTubeで、ピアノの上達法の動画がたくさんある。観ていると効率よくうまくなりそうな気がする。
もう弾くのは諦めて、聴くだけにしようと思ったけど、投稿して、読んでくださるなんて……楽しみを見つけてしまいました。
チャイコフスキーの死因は一般にコレラだと言われている。多くの本に書かれているチャイコフスキーの最後は、つぎのようなものだ。
「ネヴァ水(ネヴァ川の水)をくれ」
と言った。ボーイが驚いて
「今コレラが流行っているから、ミネラル・ウォーターしか差し上げられません」
と答えたら、彼は周囲がびっくりするほど興奮して
「ぐずぐず言わずに注文通り早く持って来い!」
と怒鳴りつけ、運ばれてきたネヴァ水を一気に飲み干した。
翌朝、彼は発病した。弟モデストが医者を連れて来ると、チャイコフスキーは医者に向かって
「ほっといて下さい。看て下さってもどうせ駄目です。私の病気は治りません」
と弱々しくつぶやいた。
11月5日には、医者はみな匙を投げた。臨終の席には二人の弟、モデストとニコライを含め、16人が立ち会った。眠っていたチャイコフスキーは、急に目を開けて周囲の者を静かに眺め渡したが、それも束の間、突然目の光が消え失せ、最後の息を引き取った……。
ロシアの作曲家チャイコフスキーの『1812年』の演奏を取りやめ、シベリウスの交響詩「フィンランディア」に変更、という記事があった。作品に罪はない……が。
チャイコフスキーは聴きやすくて、大好きだ。ずいぶん前に読んだ本、世界のミステリー……に、チャイコの死因というものがあって、かなりショックだった。
生きた、作曲した、愛した……(誰を?)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20220315-OYT1T50153/
1970年代までは、チャイコフスキーの死因はコレラだと信じられていた。しかしここにはおかしな点がいくつもある。
まず、通常のコレラの潜伏期から考えて、感染後5日で死亡というのは短すぎた。訃報を聞いた友人たちは誰もが「えっ、まさか!」と驚いた。その死が余りにも唐突過ぎたからだ。
次に、コレラ患者の死の床にしては、立ち会った人数が16人というのは異常に多すぎる。
コレラが大量の死者を出す恐るべき伝染病であることは当時から知られていた。激しい下痢、嘔吐、排尿で脱水症状を起こし、治療を施さない場合死亡率は50%を越えた。感染力が非常に強いので、患者は隔離され、布団は焼かれ、家は徹底的に検疫されるし、患者の遺体は鉛の棺に収められた。
ところがチャイコフスキーの場合、布団は燃やされず、洗われただけだった。それどころか遺体も死後二日間も公開して安置され、葬儀の日にはあらゆる階級から多数の市民が弔問に集まり、遺体の手や顔に口づけをした。チャイコフスキーが本当にコレラで死んだなら、こうした状況は余りにも不可解ではないだろうか?
弦楽セレナード ハ長調作品48は、ピョートル・チャイコフスキーが1880年に作曲した弦楽オーケストラのための作品。チャイコフスキーの代表作の一つとして広く親しまれている。
チャイコフスキーの死の真相に関しては、1978年に、当時ソ連にいた女流音楽学者アレクサンドラ・アナトリエヴナ・オルローヴァが驚くべき研究報告を致した。それは従来のチャイコフスキー観を根底から覆すショッキングな内容だった。
チャイコフスキーは実は同性愛者だった。それがばれ、封建的な旧ロシア社会の圧力で彼は自殺を強要さてたのだ。
彼は日記に書いている。
「今日、Zが異常に激しく私を苦しめる。おー、神よ、私がどんなに苦しんでいるか、Zの感情にでなく、なによりもそれが私の中にあるという事実に」
Zとは、彼が必死に隠そうとした同性愛的性向のことである。彼は世間の目をごまかすため、好きでもない女性と結婚したり(これは悲惨な失敗に終わった)
金持ちの未亡人ナデージダ・フォン・メック夫人から毎年6000ルーブルという多額の資金援助を受けたりした。しかし彼の情熱はこれらの女性には注がれなかった。
メック夫人との関係はプラトニック・ラブといったものではなく、彼女はチャイコフスキーの単なる金づるに過ぎなかった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E6%83%B3%E7%9A%84%E5%B0%8F%E5%93%81
チャイコフスキーが本当に深く愛したのは、彼が優しく「ボビック」と呼んだ甥で出版商のウラディーミル・ダヴィドフだった。 しかし他にも何人かの愛人がいた。その中の一人はある侯爵の甥で、ひょんなことからその侯爵に大作曲家との仲を知られてしまった。そしてこの侯爵は、何と、ロシア皇帝アレクサンドル3世に直接手紙を書いて訴えた。
困った皇帝は、この件の処理を検事総長ニコライ・ヤコビに任せた。ヤコビは、法律学校の同窓生チャイコフスキーが同性愛という破廉恥な罪で母校の名誉を傷つけたことで怒り、また、ロシアの大作曲家としてのチャイコフスキーのブランド・イメージを守る必要も感じた。
そこでヤコビがやったことは、秘密法廷を開き、チャイコフスキーに名誉の自殺を求める判決を言い渡すことだった。自殺用の毒薬(砒素とされる)は後日判事が届けることになった。
チャイコフスキーは真っ青になって震えながらヤコビの家から飛び出していった。
「私は人生のうちで今ほど充実し、誇らしく、幸せなことはなかったと誓って言えます」
とユルゲンソン出版社に書き送っている。
ところが秘密法廷の直後から、チャイコフスキーは抑鬱状態となる。交響曲のリハーサルの時、彼の顔色は真っ青で、
「チャイコフスキーは妙にぼんやりしているように見えた。悪寒が彼の体を走った。彼はただ指揮者になりきろうと焦っていて、中断し、訂正したり、何か集中できなかった。時折彼はオーケストラに向かって、愛情を込めて弾いてくれ、これが私の告別の曲だとは思わないかい、永遠の別れだと? と訴えているようであった」(クルト・パーレン)
チャイコフスキーがこの交響曲のタイトルを弟モデストと相談して「パテティチェスキー(悲愴)」に決め、出版社ユルゲンソンに宛てて指示したのは、初演わずか2日後だった。
11月1日、レストラン・ライナーに入った夜も、チャイコフスキーは愛人ウラディーミル・ダヴィドフその他2、3人の美青年と一緒で、彼はマカロニを食べ、ミネラル・ウォーター入りの白ワインを飲んだだけだった。彼はコレラなどには感染しなかったのだ。
「まるで逃げ場を失った人みたいだった」
書類を整理し、遺言状に目を通し、……そして、毒薬を持った死神は、11月5日の夜に現れた。
チャイコフスキーは遂に毒を飲んだ。兄の苦しみに驚いた弟モデストが医者を呼んだものの、砒素を飲んだのでは手の施しようがない。
4時間後、「悲愴」の作曲者は、封建的なロシア上流社会の掟に従い、“悲愴”な死を遂げた。
とはいえ、この説を否定する声も多く、死因はいまだに謎である。
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調作品50は、1881年から1882年にかけて作曲された。旧友ニコライ・ルビンシテインへの追悼音楽であるため、全般的に悲痛で荘重な調子が支配的である。作品に付された献辞にちなんで『偉大な芸術家の思い出に』という副題ないしは通称で知られている。楽器編成は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ。
本作品、とりわけ第2楽章は、ピアノに高度な演奏技巧が要求され、ピアノを用いるあらゆるチャイコフスキー作品のなかで、おそらく最も演奏が至難である。50分近い演奏時間にもかかわらず、息を呑むような抒情美や、壮大かつ決然たる終曲によって、今なお人気が高い。
1988年のアレクサンドル・ポズナンスキーの論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラおよびその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出された。(チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)
現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。
なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。
ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが
「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎないことであり、まったく根拠のない作り話」
であると結論づけている。
チャイコフスキーが、なぜコレラを患ったのか? 母親をわずか40歳でコレラで亡くしたチャイコフスキーが、生水を飲む危険をおかすだろうか?
大聖堂には本来の収容人数を超えて、8000人以上の人々が参列した。そのなかには外国外交官や報道陣、そしてたくさんのファンがいた。葬儀は2日かけて行われ、それが終わるとチャイコフスキーの生前の希望で、アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフビン墓地に葬られた。
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