第46話 ジミヘンと3大ギタリスト
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ギタリストにとっての憧れであり、神様的存在の3人の名はエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ。
3人とも60年代中期にヤードバーズというバンドに在籍していた。
ところが、ヤードバーズというバンドはそれほど凄い3人のギタリストを輩出したにもかかわらず、たいした商業的成功はおさめなかった。
彼らがその後独自の活動をしていなければ、3人は3大ギタリストなどというカリスマ的存在にはなりえなかったのである。
ヤードバーズ時代から3人に共通していたのは、ブルースだった。
ブルースは黒人のものであったが、白人もブルースにとりつかれて白人なりのブルースをはじめる。
そして、3人はそれぞれの道を歩き出す。
エリック・クラプトンはクリームというバンドを結成、ジェフ・ベックはジェフ・ベック・グループを、そしてジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンを結成する。
彼らがこの新しいバンドでやってみせたのはブルースを主体とした、とてつもなくパワフルで劇的なロックだった。「ハードロック」と呼ばれるジャンルの土台を作ったのである。
そして、70年代はハードロックの黄金時代を迎えることになる。
なぜ、この3人のギタリストがハードな方向へ向かったのかは、若くして逝ってしまった天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリクスの影響が大きい。
ジミ・ヘンは黒人であった。パワフルでソウルフルな音を放っていた。ジミ・ヘンはギターを「弾いた」のではなく、ギターで叫び、歌い、あえぎ、泣いた。
ザ・フーのギタリストのピ-ト・タウンゼントがジミ・ヘンのライブを見た後クラプトンを呼び出し
「すごい奴が出てきた、俺たちは失業に追い込まれちまう!」と相談したほどだ。
どれだけテクニックがあろうと、黒人のブルース・フィーリングを会得していても、ギター奏者本人の感情が吐露されていなければ、本物のギタリストとは言えない。
この3人はテクニックの上にその感情の吐露にいち早く気づき、ギターに歌わせ、喋らせ、あえがせ、泣かせることができた人たちなのではなかろうか。
ジミヘンの登場以降、彼ら3人が模索し、加工した、新しいギター主体のロック(ハード・ロック)の、重いリズムと「泣きのギター」は、当時のベトナム戦争や学生運動の敗北などといった、ヘヴィーな社会情勢と、抑圧された若者たちの内にこもったエネルギーを見事に晴らしたのだった。
パープル・ヘイズという言葉は、サンド社がDelysidという商標で販売していたLSDが紫色のカプセルに入っていたため、LSDを指す言葉として使われている。さらに、パープル・ヘイズはその'紫'の形状からマリファナの一つの呼び名であるため、'kissing the sky'は'ハイになる'という風に解釈されるのが最も有力である。また、この歌詞を書いた際にヘンドリクスは、Owsley Stanley作の "Purple Haze LSD"を摂取していたのではないかという説がある。
パープルヘイズというフレーズ自体は、1861年ごろに印刷されたチャールズ・ディケンズの大いなる遺産の54章の"There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze, fast deepening into black..."という部分に登場する。
リゼルグ酸ジエチルアミドまたはリゼルギン酸ジエチルアミド( lysergic acid diethylamide)は、非常に強烈な作用を有する反合成の幻覚剤である。ドイツ語「Lysergsäurediethylamid」の略称でLSDとして広く知られている。
ジミ・ヘンドリックス(1942年11月27日 - 1970年9月18日)は、アメリカのギタリスト、シンガーソングライター。日本では「ジミヘン」の愛称で呼ばれることがある。
メジャーデビューしてからわずか4年ほどの活動期間で、ギタリストとして多くのミュージシャンに多大な影響を与えたロック・ミュージックのパイオニアの一人。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまにして構え、ギターを歯で弾いたり背中に回して弾いたり、ライブ中にギターに火を放ち破壊するなどの派手なパフォーマンスでも有名である。没後50年経った現在でも、ロック史上最高のギタリストとして評価されており、「ローリング・スターン誌が選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第1位、2011年の改訂版でも第1位に選ばれ、史上最高のロックギタリストと呼ばれている。
ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合させ、クリーム、レッドツェッペリンらと並び、ハードロックの起源の一人と評されている。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった。
奇抜なファッション、派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトなどにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは
「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。
ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。
ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。
1970年9月18日、ヘンドリックスはロンドンのホテルに滞在中に急逝。
「Voodoo Chile」は彼の死から約ひと月後の10月23日、イギリスでトラック・レコードからシングルカットされ、11月21日付の全英シングルチャートの1位を記録した。
ヘンドリックスの死因は公式には、酒と睡眠薬を併用したため睡眠中に嘔吐し吐瀉物を吸い込んだことによる窒息死、とされている。だが死亡時に一緒にいたモニカ・ダンネマンの言動に不審な点があり、死因にも不可解な点があることから、死の真相は謎のままであると指摘する声もある。
ダンネマンの証言は二転三転し、信憑性が乏しいという見方がある。ダンネマンは1996年に車の中に排気ガスを引き込み自殺した。
生前のヘンドリックスはマフィアの金づるになっていたという説があり、誘拐されたこともあると言われる。ヘンドリックスはマフィアの手で睡眠中に大量のワインを飲まされ、溺死のような形で窒息死させられたのではないかという説も存在する。
元ローディーのジェームズ・タッピー・ライトは、自著「Rock Roadie」の中で「ジミのマネージャーだったマイケル・ジェフリーが『自分がヘンドリックスを殺した』と言った」と証言している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジミ・ヘンドリックス
エリック・パトリック・クラプトン(1945年3月30日- )は、イギリスのミュージシャン、シンガーソングライター。これまでで最も重要で影響力のあるギタリストの1人とされる。クラプトンはローリング・ストーン誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位。
さまざまな地元のバンドで演奏した後、クラプトンは1963年にヤードバーズのギタリスト、トップ・トーパムに代わって加入した。ヤードバーズがブルースロックからラジオ向けのポップ指向を目指したことに不満を抱いたクラプトンは1965年に脱退。「Sunshine Of Your Love」は1967年11月に発売されたクリームの2枚目のアルバム『Disraeli Gears(邦題: カラフル・クリーム)』に収録された。そして大西洋を横断するクリームの大ヒット・シングルとなり、アメリカではゴールド・ディスクも獲得。全米チャートには36位でチャート・インし、その後、1968年1月から4月までチャートインし続け、7月に再びシングル・チャートに登場、そのまま5位へと急上昇した。その後、ロックの殿堂入りを果たしている。
ロック・スタンダードにもなったこの曲は、ジャック・ブルースとエリック・クラプトンの両者によって数えきれぬほどの場所で演奏された。名曲となった「Sunshine Of Your Love」はオジー・オズボーンからサンタナまで、多くのアーティストによってカヴァーされ、時代を生き続けている。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/creams-ray-sunshine?amp=1
1968年9月 (米国シングル) の「ホワイト・ルーム」はイギリスのロックバンド、クリームによる楽曲。ベーシストのジャック・ブルースが作曲し、詩人のピート・ブラウンが作詞を行った。
作詞者のピート・ブラウンが実際に「白い部屋」で暮らしていた頃に書いたものと言われており、歌詞には、詩人としてどうにか生計を立てていた当時の心境が反映さているそうです。
女性(her)との別れや、深い孤独感が描かれている歌詞ですが、ドラッグの売人との密会が描かれたもの、とも解釈されています。
Cream / クリーム
メンバー
エリック・クラプトン (ギター、ボーカル)
ジャック・ブルース (ベース、ボーカル)
ジンジャー・ベイカー (ドラムス)
スーパーグループの先駆けとして1966年7月に結成。すでにキャリアのあった3人は“cream of the crop(選りすぐりのもの)”と認められていたことから“クリーム”と名づけられた。
サイケデリックな時代背景を取り入れたヘヴィなブルース・ロックを3人による爆音と激しいインプロヴィゼーションで展開するさまは、それまでのロックの概念を覆すほどの革命と言われ、いまではハード・ロック/ヘヴィ・メタルの源流とも評されている。また、ブルースの友人で詩人のピート・ブラウンが書いた歌詞の世界観はクリームの音楽性に大きく貢献したと言われている。
しかし、その裏では以前より燻っていたベイカーとブルースの確執が決定的なものとなり解散。
わずか2年半という活動期間ではあったが、ロック史上における最高のパワー・トリオとして、今もなお後続のアーティストに多大なる影響を与え続けている。
14年10月25日にブルースが死去。19年10月6日にはベイカーもこの世を去ったことからクリームは永遠の伝説となってしまった。
1970年にクラプトンはソロキャリアに乗り出した。
ソロキャリアに加えて、クラプトンはデラニー&ボニー、デレク・アンド・ザ・ドミノスとも共演し、代表曲の1つである「私のレイラ」をレコーディングした。その後数十年にわたって多くのソロアルバムと曲を発表し、高い評価を得た。
もともとは、インド文化に傾倒して、自分を省みてくれなくなったジョージに嫉妬させようと、パティの方からエリックに近づいていったようです。最初はいろいろと相談にのっていたエリックですが、そのうち自分が本気で親友の妻であるパティに恋をしてしまった、というわけです。
この一件でジョージとエリックは仲違いしたかというと、そうでもなさそうです。ドラッグに溺れるエリックを再生させようと、ジョージはこの後もいろいろ力を貸していたみたいですし、だいぶ後のことになりますが、エリックが息子を失って落ち込んでいた時には、エリックを自分のツアー・バンドの一員に加え、立ち直るきっかけを作ってやっています。
もしかして、その時にはすでにジョージは、パティに対する関心をすっかり失っていたのかもしれません。またはインドの文化・宗教に妻以上の価値を見出していたのかもしれません。だからジョージは、パティが誰と付き合おうが全く意に介さなかったのでしょうか。あるいは、エリックとジョージの絆はそんなことでは揺るがないほど固いものだったのでしょうか。
しかし、親友の妻に横恋慕したその気持ちを曲にして、世間に発表しようとする気持ちに共感できない人も多いと思います。きっと作家がスキャンダラスな私小説を書くのと同じで、それがミュージシャンの業というものなのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/mh0914/e/1c128ac1cad1d9c99024d0fc5a69d8e9
18才の頃ロンドンでスカウトされたパティは、いくつかの雑誌でモデルとして働いた。
1964年3月2日、彼女は映画「A Hard Day's Night(ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!)」の女子学生役としてロケに参加した。
この時、ジョージ・ハリスンがパティに一目惚れをし、デートを申し込む。
当時彼女は別の写真家と婚約寸前であったが、数日後に別れてジョージと交際を開始し、翌年のクリスマスに婚約をする。
この婚約でパティの知名度は爆発的に上がり、彼女は一気にトップモデルの仲間入りをする。
1973年、パティはロニー・ウッド(フェイセズ、のちにローリング・ストーンズに加入)と浮気をし、ハリスンとの関係は徐々に悪化。1977年に離婚が成立する。
ジョージ・ハリスンがパティと結婚していた時、彼女に想いを寄せていたミュージシャンは他に3人いた。
ビートルズのバンドメンバー、ジョン・レノン。
ローリング・ストーンズのミック・ジャガー。
そしてハリスンの親友でもあったエリック・クラプトン。
クラプトンは、富、名声、そしてパティまでものにしていた親友のジョージに強い嫉妬心を抱いていた。
1970年、パティについて歌った「愛しのレイラ」を発表し、クラプトンは彼女に気持ちを伝えるが、フラれてしまう。
それから数年間に渡りパティを追い続け、ついにパティが折れる形で、ハリスンとの離婚が成立。パティはクラプトンと結婚した。
この出来事があったあとも、クラプトンとハリスンの友情は壊れることはなかった。
ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンはそれぞれ、パティへの想いを歌った曲を複数書いている。
ビートルズの「Something」、「I Need You」、「If I Needed Someone」、「Love You To」、「For You Blue」。
クラプトンは「愛しのレイラ」、「Wonderful Tonight」。
クラプトンのアルコールが原因で2人は1989年に離婚。現在パティは資産家のロッド・ウェストンと結婚し、写真家として活動している。
息子コナーが1991年に事故死した後、クラプトンは悲しみを歌い上げた「ティアーズ・イン・ヘヴン」を発表した。
(イタリア人女優のロリー・デル・サントさんとの交際時の1986年、子供が生まれてたことが発覚している。ロリー・デル・サントさんは婚約寸前まで至ったものの、結局は破局となった。
息子の名前はコナー・クラプトンさんと言い、エリッククラプトンにとっては初となる男の子だった)
クラプトンはグラミー賞を18回受賞し、ブリット・アワード功労賞も受賞している。2004年には音楽への貢献で、バッキンガム宮殿で大英帝国勲章を授与された。また、彼はソロアーティスト、ヤードバーズ、クリームと3度ロックの殿堂入りした唯一のアーティストである。
クラプトンはソロアーティストとして世界中で2億8000万枚以上のレコードを売り上げ、史上最も売れたミュージシャンの1人となった。かつてアルコール中毒依存症及び麻薬中毒の治療を受けたクラプトンは1998年、薬物乱用者の治療を目的とする医療施設、クロスロード・センターをアンティグア島に設立した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/エリック・クラプトン
ロック・ポップ・ミュージシャンの死亡年齢は、普通人の平均死亡年齢より【25歳】若い、ということが判明。
ロック・ミュージシャンが【自殺】する確率は、普通人の【7倍】で、
【他殺】で死亡する確率も、普通人の【8倍】。
若死にしたロック・ミュージシャンの【91%が”男性”】であり、
若死にした死因の多くは【ドラッグの過剰摂取などを含む各種事故】、【自殺】、【他殺】などだった、という。
「ロック・ポップ界は、特に”鬱病”や”各種ストレス”を抱える若者たちにとっては非常に危険な場所です。
ロック界そのものが昔からドラッグや乱交等の”破滅的行為”や、”若死の美学”を崇拝する風潮があるので、
もともと鬱病の傾向がある若者や自殺願望を持つ若者たちほどそういう世界に惹かれ、入っていくからです。
そんなロック界で”似たもの同士”が集うことによって、
個々が本来持っていた自殺願望や、鬱病の傾向、薬物過剰摂取の強い欲求などがますます増幅される、
というのも大きな理由になっています」。
ロック・スターが死ぬと作品の売り上げが急増したりする現状などについても改めて考えさせられてしまった。
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