第19話 拓郎と陽水と

文字数 7,485文字

「結婚しようよ」は、日本の歌手、よしだたくろう(吉田拓郎)が1972年に発表したシングルである。

作詞・作曲 吉田拓郎

チャート最高順位 3位(オリコン)1972年度年間14位(オリコン)


 それまでいわゆるアンダー・グラウンドの音楽と考えられていたフォークをメジャー・シーンに押し上げた楽曲で、"J-POPの原点"とも評される。この年2月に発生したあさま山荘事件の頃から全国的にヒットしはじめ、3月にオリコンチャート3位を記録し、40万枚以上を売る大ヒットとなった。 

 この曲はそれまでのプロテストの意味あいが強かったフォークのイメージを一変させた。結婚は家と家との結びつきであるという考えがいまだ根強かった当時において

「僕の髪が肩までのびたら結婚しよう」

という男性の側からのプロポーズの描き方や、

「春がペンキを肩にお花畑の中を散歩に来る」

のようなカラフルな言葉づかいの歌詞は当時としては非常に斬新な内容で、手動式オルガン他を使ったアレンジ等、それまでのただギターをかき鳴らして自己主張を歌に託すフォークとは大きく異なっていた。

 

 さりげないラブソングの中に、既成の男らしさ女らしさのイメージを覆す歌詞。1960年代の恋愛結婚の普及を受け、付き合ったら結婚するというのが当然だった1970年代の時代を反映した歌でもあった。男が女と同じくらいの長髪にする...という行為は、ラブソングながら一つの時代のメッセージ性を漂わせていた。

 後年拓郎はこの曲を「ヒットさせるつもりで作った」と述べている。拓郎はこの大ヒットで人気を得て“フォークのプリンス”などと騒がれ、若い女性らが会場を占拠した。その人気ぶりはGSブームの再来のようだったと言われた。反体制のシンボルだったフォークが“若者のポップ・ミュージック”として一般的になるのは「結婚しようよ」の大ヒットからである。


 阿久悠は、フォークの精神性にはプロテストがあって、当初は、ゲバ棒をギターに持ちかえたかと感じるほど、過激に反社会性を訴えるものが多かったが、誰も彼もがギターを持って自分の歌を歌い、底辺がひろがるにつれて、抵抗の要素は失せて行った。見事に社会に安心され、認知されることにもなったが、「結婚しようよ」は、そうなることのシンボル的な歌ではなかったか、と論じている。この頃には日本は既に政治の季節を終えていて、拓郎はその時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%88

 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったという。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった。

 拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで、雑誌に

「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」

などと書かれた。断ったが『月刊明星』から「表紙をやりませんか」と言われたこともあったという。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った。拓郎ほど世間と戦い続けた歌手はいない。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田拓郎

岡林信康はフォークの神様と呼ばれました。15話と『色褪せない音楽』42、43話に投稿してます。
フォーリーブスは、日本の男性アイドルグループ。1967年4月1日結成、1978年8月31日19日解散。解散から24年を経た2002年に再結成を果たした。初期のジャニーズ事務所を代表するグループである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォーリーブス

襟裳岬』は、1974年1月15日に発売された森進一の29枚目のシングル。

作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビ作品。

森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆の案が採用された。高橋が、吉田拓郎から

「森さんみたいな人に書いてみたい」

という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応

「フォークソングのイメージは森に合わない」

「こんな字余りのような曲は森に似合わない」

と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった。

 当時の森は、母親の自殺や女性問題(女性側の狂言であったことが後に判明)から苦境に立たされていたが、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた吉田からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していたプロダクションのスタッフの反対を押し切り(森自身、「演歌の枠のみに囚われたくない」との思いがあったのも大きい)、両A面という扱いに変更して発売した。

累計では約130万枚のレコード売上を記録した。

曲の構成はAメロ→Bメロ→サビの定型だが、〈わけのわからないことで〉の符割りなどが純度100%の拓郎節といえる。また森も自身の解釈でこれを歌い切った。拓郎は森の歌唱版を最初に聞いたとき、「こういうふうに歌うのか、これはかなわない」と卒倒したという。

 岡本おさみは襟裳岬へ旅行した時、漁師に「いいとこですね」と話しかけたら、北海道の人特有の素朴な言い方で「なんもないんだー」という答えが返って来た。そこで「何もないの、いいじゃないですか」と言ったら「なんもないんだ。焚火してるしか、しょうがないんだ」とまた素朴な答えが返って来た。それで最初、「焚火」という仮タイトルで拓郎に歌詞渡したという。
 ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった。しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/襟裳岬_(森進一の曲)

吉田拓郎が「こんなバックバンドなら紅白に出ても良い」と無茶振りしたらNHK側が本当に揃えて出ざるを得なくなった伝説の回。

吉田拓郎(ボーカル)
日野皓正(トランペット)
渡辺香津美(エレキギター)
宮川泰(キーボード)
日野元彦(ドラム)
大西順子(ピアノ)
石川鷹彦(アコースティックギター)
金沢英明(ウッドベース)
吉田建(ベース)
森進一、五木ひろし、前川清(コーラス)

井上陽水は『NHK紅白歌合戦』には1度も出場経験がなく、本人も全く出場する意思が無い事を明らかにしている。NHKの番組には度々出演しているが、「紅白は別」と出場を何度も辞退している。

同局の1993年の連続テレビ小説『かりん』の主題歌『カナディアン アコーデオン』を担当したが、その年の第44回NHK紅白歌合戦出場については、「あの場は余りにもハデ。恥ずかしいから」と辞退。

1996年にも「恥ずかしい」と辞退。のちに「(出演を拒否していた当時)テレビに出なかったことは後悔している」というコメントも行っている。

1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビューしたが、ほとんど注目されず、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。

 以後、本人も語ろうとしない空白の1年間となる。約3年間は時流から相手にされず、当時は、麻雀とパチンコに明け暮れていた。仕事はあっても月2日位であった。

 ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあうことがしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。

 アンドレ・カンドレ時代に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)星勝(モップスのギタリスト)RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からボブ・ディランを薦められ、以降の作詞に強い影響を受けた。

 当時の映像として1970年公開の、和田アキ子主演映画『女番長野良猫ロック』に出演。「カンドレ・マンドレ」を歌うシーンがある。

 この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を

「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。彼の言葉はとても鋭く、近づけないような雰囲気だった。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えている」

と語っている。

 1971年ポリドール・レコードに移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。

 翌1972年、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。

 5月に「傘がない」が収録されたアルバム『断絶』がリリースされる。陽水が売れ始めたのは、このアルバム『断絶』から。

 翌1973年3月のシングル「夢の中へ」が初のヒット作(オリコン17位)となり、同年7月には初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』がリリースに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。

 そして、同年9月にはシングル「心もよう」をリリース。これもスマッシュ・ヒットとなる。

 同年12月にアルバム『氷の世界』をリリース。当アルバムは100週以上BEST10に留まるなどロングセールスを続け、発売から2年後の1975年8月に日本レコード史上初のLP販売100万枚突破の金字塔を打ち立てた。オリコンのLPチャートでは5度も1位に返り咲くという記録も持っており、陽水は第一期の黄金時代を迎える。

 ポリドール時代には殆どテレビに出演せず、外見が一般の目に触れる機会はレコードのジャケット写真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」からアルバム『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで写っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある写真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの写真は1975年のシングルのために撮られたものなど少数の例外を除き見られなくなる。

「陽水などレコードで当たってるヤツは、はでに、単にコマーシャリズムに乗っかっただけのこと。そのうちに消えるさ」とフォークを民衆の歌と考える一派からは、非難され「いま流の歌をもって東京へ出ていくなんて、イヤなヤツだ」と、土着派からは、商人扱いされた。陽水は、それらの非難に対し真正面から答えようとはしなかった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/井上陽水

我が良き友よ」は、1975年2月5日にかまやつひろしが発表したシングルレコードである。

作詞作曲 吉田拓郎

東芝EMIディレクターの新田和長は、この曲を聴いて「絶対にヒットする」と確信したという。

歌詞に出てくる蛮カラ風の大学生は吉田の広島商科大学時代の同級生がモデルである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/我が良き友よ

歌ってよ夕陽の歌を」は、1975年4月25日に発売された森山良子のシングルである。作詞: 岡本おさみ 作曲: 吉田拓郎

かまやつひろしは従兄。

吉田拓郎と泉谷しげるが若い頃、取っ組み合いの大喧嘩をやった際、必ず制止していたのが森山である。泉谷によると、制止した直後かなり強い調子で叱責していたため、今でも「(森山良子が)世界で一番怖い」と恐れているとのこと。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/森山良子

「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、アン・ルイスのデザインによる大胆な衣装と“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲も話題を呼んだ。喜多條忠の詞先で、作曲・吉田拓郎独特の“拓郎節”が展開される。キャンディーズのベスト・ソングに挙げられる機会も多く、キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している。発売の時点ではキャンディーズ最大のヒットを記録した。解散コンサート時点でのシングル売上は累計52万枚。

「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦し、「歌えません」と音を上げたと言われている。これはキャンディーズファンだった作曲者の吉田拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た。

レコーディングでは、吉田拓郎がギター持参でキャンディーズと共にスタジオに入り、付きっ切りで歌唱指導、自らも試行錯誤を重ねた。コーラスで参加した他、印象的な忍び寄る悪魔のようなイントロの靴音は、拓郎が様々な靴の音を試し、スタジオに同席していたCBSソニーの若松宗雄が履いていたブーツで作り上げたものである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/やさしい悪魔

いっそ セレナーデ」は、井上陽水の楽曲。1984年10月24日に、自身の23枚目のシングル。

陽水自身が出演したサントリー『角瓶』のイメージソングに起用された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/いっそ_セレナーデ

田村正和が残した名作「ニューヨーク恋物語」主題歌は井上陽水「リバーサイドホテル」

コートのポッケに手を入れながら、ニューヨークを歩く正和。そこに流れる「リバーサイドホテル」。ニューヨーク、正和、陽水。当時、この3つの力技に抗える女なんて、いなかったはず。

https://reminder.top/527503095/

「少年時代」は、日本のシンガーソングライターである井上陽水の楽曲。1990年9月21日に、自身の29枚目のシングルとしてフォーライフ・レコードからリリースされた。

チャート最高順位 週間4位(オリコン) 1991年度年間25位(オリコン) 1992年度年間46位(オリコン)

井上陽水の最大のヒット曲で、代表曲の一つに挙げられることがあり、1994年以降の中学校・高等学校の音楽教科書に何度も掲載されている。


本楽曲の作曲は、飲み仲間であった藤子不二雄Ⓐから直接依頼された。藤子Ⓐは「ラララ…君と出会い君と笑い」というハミングと共に始まる自作の詩を作成し陽水に作曲を依頼したが、当初なかなかできあがって来ず、ついには映画のポスターの印刷にも間に合わない事態となった。

映画関係者からは矢のような催促がなされたが、藤子Ⓐは「漫画家と同じで催促されるのは嫌だろう」と陽水に対して一切催促を行わなかった。そのかいもあり、陽水から上がってきたデモテープは、藤子Ⓐが事前に抱いていたイメージ通りの素晴らしい楽曲となった(ただし、藤子Ⓐが提供した歌詞は1行も使われていなかった。陽水は「安孫子さんの心をもらった」とコメントしている。)。藤子Ⓐが映画関係者からの催促を止めていた間、実は陽水は全国ツアーをキャンセルし3週間スタジオにこもって作曲を行っていた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%99%BD%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%9B%B2)

「飾りじゃないのよ涙は」は、中森明菜の楽曲。シンガーソングライター井上陽水の作詞・作曲による。

チャート最高順位 週間1位(オリコン)1985年度年間6位(オリコン)

この楽曲は、井上陽水からの提供楽曲で、萩田光雄によって編曲された。

中森にとってこの楽曲は、アイドルからシンガー、アーティストへの転機となった。

デモテープを聴いたときシングル向きではないと、本曲はアルバム収録分のみで考えていたが、作曲者の井上陽水がオケ録りに現れて、キーが違うにも関わらず仮歌を歌わせてくれないかと打診があったので、スタジオで生演奏に合わせて歌ってもらったところ、ミュージシャンも大のりになり、その際の歌声が素晴らしかったので、シングル化を決めたという。

『CDジャーナル』は、中森の「飾りじゃないのよ涙は」について「井上陽水と中森明菜の幸福な出逢いは、日本の歌謡史に残るほどの歴史的な名曲を作り上げた」と批評した。

秋元康は「詞で何か印象に残るものは?」の問いに、数年前でいうと、中森明菜さんの『飾りじゃないのよ涙は』。『私は泣いたことがない~♪』という出だしは、きっと阿久悠さんだと思ったんですよ。これを陽水さんが書いたと知った時『あの男はやはりタダ者ではない』(笑)と思いましたね」と答えている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%BE%E3%82%8A%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%82%88%E6%B6%99%E3%81%AF

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