第27話 有線大賞から
文字数 3,722文字
日本有線大賞は1968年の第1回放送からちょうど50回目を迎えた2017年の放送を最後に半世紀の歴史に幕を閉じた。
日本有線大賞はリクエスト数でランキングが決まっている。音楽評論家やプロデューサーの投票によって大賞を決める音楽賞が多い中、日本有線大賞は有線放送へのリクエスト数に基づいて大賞が決められていた。
どちらもその時代の人気をランキングしたものだが、日本有線大賞のようにたくさんの「聴きたい」気持ちでランキングされた大賞は、やはり説得力がある。
「きみの朝」は、1979年(昭和54年)3月21日にシングル曲として発売された、岸田智史の楽曲(作曲も担当)で、岸田自身の代表曲でもある。
岸田自身も出演したTBSのテレビドラマ『愛と喝采と』の挿入歌に採用された。なお、ドラマの中では当初「モーニング」というタイトルが表示されていたが、レコード発売の際には「きみの朝」へと変更されている。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/きみの朝
ドラマ大都会PARTⅡ挿入歌~ひとり」
フォークグループ「赤い鳥」が路線上の違いから1974年9月に解散。「赤い鳥」のメンバーだった山本潤子、(1973年4月、メンバーの山本俊彦と結婚)、山本俊彦、大川茂の3人が同年10月にハイ・ファイ・セット結成した。
1977年ブラジルのモーリス・アルバートの「愛のフィーリング」になかなし礼が歌詞をつけたカバー曲「フィーリング」が大ヒット。以降、山本潤子のソプラノ、山本俊彦のテナー、大川茂のバス・ヴォイスによる抜群のコーラスワークと都会的で洗練されたアレンジで、ニューミュージック全盛の時代に高い人気を誇った。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ハイ・ファイ・セット
内藤は同曲のヒットにより、1976年末の「第18回日本レコード大賞・最優秀新人賞」など、数々の新人賞を総なめに獲得した。累計売上は80万枚。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/想い出ぼろぼろ
「裏切りの街角」は、1975年6月5日に発売された甲斐バンド2枚目のシングル。
オリコン最高7位。デビュー後、初のベスト10入りを果たした楽曲である。
発売から徐々に火がついたロングセラーセールスで、オリコン10位内に初ランクされたのが9月、その前後チャート20位内に11週間入る。最高位の7位は、発売の4ヶ月後の10月27日に記録した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/裏切りの街角_(曲)
「積木の部屋」は、1974年3月10日発売の布施明のシングル曲である。
オリコンチャート上の売上数は、58.2万枚を記録。これは布施が唯一ミリオンセラーを達成した「シクラメンのかほり」に次いで、2番目のヒット曲となった。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/積木の部屋
「他人の関係」は、金井克子の楽曲で、31枚目のシングルである。1973年3月21日に発売。
金井のシングル盤では唯一、オリコントップ10にランクインした。
独特のスキャットをフィーチャーしたイントロ・間奏と、それに合わせた指さし確認のような振り付けを披露している。この振り付けは男性ダンサーがたばこを手に踊るダンスをモチーフとしたもので、金井のステージではよくフラッシャーズという男性のバックダンサーを従えて演じられた。
公称売上は100万枚を突破した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/他人の関係
「雨」は、三善英史の楽曲で、デビューシングルである。1972年5月25日の発売後、徐々にランクを上げてゆき、発売から約4ヶ月経った10月になってオリコンチャートのトップ10に初登場した。同時期には300万枚を超すセールスを記録した宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」があり最高位は2位止まりであったが、累計売上は58.8万枚を記録し、1972年の年間第18位を獲得した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/雨_(三善英史の曲)
「さいはて慕情」は、1971年3月に発売された渚ゆう子のシングル。
ザ・ベンチャーズを起用し、『京都の恋』『京都慕情』を連続ヒットさせた東芝音楽工業のディレクター草野浩二は、この2曲のフォローアップ作品の制作にあたり、新たに作曲に筒美京平を起用する。(作詞は林春生が継続)。筒美はベンチャーズサウンドで使用されていたエレキギターを抑えめにし、シャッフル系のリズムを用いたミディアムテンポの曲に仕上げる。曲の最後に流れる蒸気機関車の汽笛と走行音は、レコーディング・エンジニアの行方洋一が実際に北海道まで行って録音したものである。本作はチャートTOP10入り(最高位6位)するヒットとなり、第13回日本レコード大賞の歌唱賞など、数々の音楽賞を受賞する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/さいはて慕情
小学校高学年からクラシックバレエを習い始め、バレエの先生を志す。高校卒業後、バレエに行き詰まり、祖母の勧めで、祖母の古い友人の息子のラテン歌手がやっていた「札幌ミュージックスクール」でレッスンを受け、彼のすすきののラテンミュージックの店「ジョージの城」で歌い始める。
その音楽喫茶でマスターと昵懇だった平尾昌晃に1969年の夏に声をかけられ、1970年3月に上京し、レッスンが始まる。1970年8月1日に発売されたデビューシングル『愛のきずな』のヒットにより、第12回日本レコード大賞新人賞などを受賞。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/安倍理津子
「グッド・ナイト・ベイビー」 は、1968年5月1日に日本グラモフォンから発売されたザ・キング・トーンズのファーストシングル。1969年1月13日付でオリコンチャート第20位として初チャートイン、3月3日付から3月24日付まで4週連続で最高位2位を記録した。1969年にはアメリカ合衆国でもアトコ・レコーダーから発売され、ザ・キング・トーンズの出世作となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/グッド・ナイト・ベイビー
「伊勢佐木町ブルース」は、青江美奈の楽曲で、7枚目のシングルである。1968年1月5日に発売。
作詞は川内康範、作曲は鈴木庸一による。
青江三奈はデビュー曲「恍惚のブルース」が大ヒットしたものの、それから暫くヒット曲に恵まれなかった。川内康範は青江三奈の再起を目的にビクターから再度作品を依頼された。川内は50万枚は売れる作品で青江三奈を復活させてやれないかという課題を与えられた。そのような経緯で書かれたのが本作である。
川内は「ハーン」というため息を曲中のどこでもいいから入れるように、と青江に言った。本作は狙い通りの大ヒットとなり、青江は復活を遂げる。発売から徐々に売れ始め、発売から5ヶ月経ってからオリコンのトップ10に初登場し、3週間5位にランクイン。1968年の「第10回日本レコード大賞」歌唱賞を受賞した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/伊勢佐木町ブルース
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