第28話 シャンソン

文字数 4,485文字

 20世紀最大のシャンソン歌手と言われたエディット・ピアフは1915年軽業師の父と路上の歌手を母に、パリの下町で生まれる。
 幼児から父に連れられて、場末の町から町を歌って歩いた。
 18歳のとき、ルイ・ルプレに見いだされて、モーム・ピアフの名でデビュー。たちまち大スターとなった。
 その後、華やかな男性遍歴、殺人容疑や交通事故、麻薬と酒に溺れた日々―
「二人分の人生を生きたわ」と自らを回想したほど。波乱に満ちた人生を送った。
 生涯に280ものレコーディング曲を残し、とりわけ「バラ色の人生」と「愛の讃歌」は世界的なヒットとなった。
 1963年10月10日、リビエラで死去。

https://wmg.jp/edith-piaf/profile/

電話帳を読んだだけでも、人を泣かすことができると言われたピアフの声。

パリの空の下」は、ユベール・ジロー作曲のシャンソン。ジャン・アンドレ・ドレジャックの歌詞が付く。

フランス映画『巴里の空の下セーヌは流れる』の挿入歌でもあり、リーヌ・ルノーが創唱した。エディット・ピアフの録音がかなり普及している。旋律に関しては認知度が高い。歌なしで演奏されることも多い。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/パリの空の下

「ばら色の人生」  (1945)ピアフの持ち歌の中でも最も有名な曲で、各国語で歌詞が付けられ、多数の歌手によって歌われている。
 エディット・ピアフの父親は大道芸人で、母親はカフェで歌う歌手。幼いころは祖母の経営する娼婦宿で育ち、十代半ばから、ストリート・シンガーとして歌い始めた。小さな体で歌う姿から「小さなスズメ」と呼ばれたことから、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。
 大歌手となってからは、シャルル・アズナヴール、イブ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなどの歌手の才能を見出しデヴューを助けた。そうした育成と重なる部分も大いにあるが、関係のあった男性は多かったといわれる。
 30代半ばからモルヒネ中毒で苦しみ、47歳で癌で亡くなった。訃報を知ったジャン・コクトーが後を追うようにして同じ日に亡くなったことは有名。

「愛の讃歌」は、フランスのシャンソン歌手:エディット・ピアフの歌。作詞はピアフ、作曲はマルグリット・モノー。シャンソンを代表する楽曲として世界中で親しまれている。

 本作の歌詞は1947年10月、ピアフがアメリカ初公演時に出会い、恋の相手であったプロボクサー、マルセル・セルダンが1949年10月28日に飛行機事故で亡くなったのを悼んで作られたと言われてきたが、セルダンの生前に書かれたものであることが判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つために書いたものだと考えられている。レコーディングは1950年5月2日。

 本作は人気を集め、ピアフの後も幾度も別の歌手に唄われた。


 日本での歌唱

 日本では岩谷時子の訳詞により越路吹雪が唄ったものが特に有名である。越路版の「愛の讃歌」が収録されているCDなどの売上はトータルで200万枚以上に達し、越路の代表曲の一つとなり、生涯の持ち歌にもなった。

 岩谷の詞は原詞にある

「愛のためなら宝物を盗んだり自分の国や友達を見捨てることも厭わない」

という背徳的な内容とは異なったものとなっている。しかし、岩谷が甘い歌詞で日本人向けに大胆に訳したことで結婚披露宴などでも唄われ、日本でも本作が広く親しまれるようになった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E8%AE%83%E6%AD%8C

 サルヴァトール・アダモ(1943年11月1日- )は、イタリアのシチリアで生まれたベルギーの作曲家、歌手。

 シチリアのコーミゾ生まれ。幼少期の1947年、ベルギーの鉱山に働きに行く父について家族とともに移る。

 1963年に「サン・トワ・マミー」が最初のヒット曲になった。続いて「雪が降る」(1963年)、「Vous Permettez Monsieur」(1964年)、「Les Filles du Bord de Mer」と「夢の中に君がいる」(1965年)、「インシャラー」(1967年)がヒットした。

ジャック・ブレルは「アダモは『愛の植木職人』」と言い、レイモン・デヴォは「アダモは歌であり、詩であり、心を揺らすもの」であると語っている。アダモの曲は、世界各地でヒットし、様々な言語で自分の歌を歌った。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サルヴァトール・アダモ

「ろくでなし」は、ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモの楽曲。作詞、作曲ともに「雪が降る」「サン・トワ・マミー」などと同じくアダモ自身が手がけ、1964年にベルギーで発表された。日本では越路吹雪の歌唱によって知られている。

 日本では岩谷時子の訳詞により越路吹雪が歌ったものが特に有名である。越路は本楽曲以外にも代表曲のひとつである「サン・トワ・マミー」、「夢の中に君がいる」など、アダモの楽曲を数多く歌いヒットさせている。越路は「ろくでなし」を自身のリサイタルやステージなどで披露し、「愛の讃歌」や「ラストダンスは私に」などとともに越路の代表曲の一つになっている。

 なお、岩谷の訳詞の内容は他の楽曲では原詞と異なる場合も多いが、本楽曲は、越路が歌唱するにあたって主人公の性別を男性から女性に代えた以外は、多くの箇所で元の歌詞の意味をそのまま踏襲したものになっている。

 原題をそのまま訳すと「不良少年」という意味であり、日本でもアダモ自身のアルバムを中心として本楽曲のタイトルを「不良少年」と訳している場合もあるが、岩谷の歌詞で越路が歌ったものがヒットし、そのタイトル「ろくでなし」がインパクトを与えたこともあって、日本では「ろくでなし」というタイトルで親しまれている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%8F%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%97

「雪が降る」は、イタリア生まれのベルギー人歌手サルヴァトール・アダモが歌ったフランス語の歌。アダモ自身が書いたもので、1963年にリリースされ、各国で大きなヒット曲となり、アダモにとって最もよく知られた代表曲のひとつとなった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E3%81%8C%E9%99%8D%E3%82%8B

『作品の中の音楽』28話に近藤正臣の『雪が降る』があります。

金子由香利ほか、日本人歌手が好んで歌う「再会」の原曲は、ニコレッタのJe n'pourrai jamais t'oublier(1969年)です。ニコレッタにしては珍しく、おとなしい歌い方で、フランスではあまりヒットせず、歌詞を検索しても、フランス系のサイトにはほとんど出ていませんでした。日本語の「再会」はあらかた同じ内容。ひとりで語っているような曲想が日本人好みだったようですね。

http://chantefable2.blog.fc2.com/blog-entry-477.html

 1944年4月11日、スイスにほど近いサヴォア地方ヴォンギーに生まれたニコレッタは、本名をニコール・グリソーニという。父親はイタリア人で、彼女が幼い頃に失踪している。母親が病気がちだったため、祖母のもとで育てられた。

 リヨンにある芸術学校を卒業したニコレッタは、歌手を目指してパリへ。芸術家や学生の集まるサン・ジェルマン・デュ・プレのディスコでディスク・ジョッキーの職を得る。そこで知り合ったレコード会社バークレーのディレクター、Leo Missirにスカウトされ、1966年にレコード・デビュー。

「マミー・ブルー」は、1970 年にユベール・ジローによってフランス語の歌詞で作られた曲ですが、 1971-72年に、ロス・ポップ・トップスというグループによって、英語の翻案歌詞でヒットしました。その後、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語で、世界中で多くの歌手に歌われています。

家を飛び出した私が帰郷したら、母親は亡くなっていて家は荒廃していたという歌詞内容は各国の盤に共通のようです。Mamy blueのblueすなわち「青い」色は、フランスでは「きれいな」というニュアンスで用いられることが多いのですが、この曲では、物悲しい、郷愁を込めたニュアンスで用いられています。

http://chantefable2.blog.fc2.com/blog-entry-142.html

「パピヨン」のテーマソング……といっても、実際に映画に使用されているものではなく、映画の曲に後から歌詞をつけて、歌ったものだそうです。

 60年代から70年代にかけて一世を風靡したフランスの女性シンガー、ニコレッタ。ブルースやゴスペルに強い影響を受けたソウルフルなボーカルは、当時のフランス音楽界においてかなり異彩を放っていた。

 しゃがれた渋い低音を絞り出すように歌うスタイルが非常に個性的で、ブルースやゴスペルをベースにシャンソン、ジャズ、ロック、クラシックなど様々なジャンルを積極的に取り入れていた。

 最大のヒット曲である“Mamy Blue”などはゴスペルにシャンソン、サイケデリック・ロックをミックスした名曲で、まさに彼女にはうってつけの作品だったと言えるだろう。
 しかし、その名声と実力にも関わらず、彼女のキャリアは決して平坦ではなかった。経済的にも行き詰まり、世間からは殆ど忘れ去られてしまった時期もあった。

 非常に頑固で気難しい性格が災いして、たびたび関係者と衝突する事もあったという。特に、当時フランスのテレビでは当たり前だった音楽番組の口パクには徹底的に抵抗し、扱いづらい歌手というレッテルを貼られてしまう。

 完璧主義者で反骨精神の旺盛な彼女は、絶対に周囲に押し流されるような事がなかった。芸能界のルールやしきたりなど、彼女にとってはそれこそクソ食らえだったのだろう。

~フレンチ・ゴスペルの女王~

エンゲルベルト・フンパーディンク(1936年5月2日 - )は、イギリスのポピュラー音楽の歌手。

本名はアーノルド・ジョージ・ドーシー  で、父が駐屯していたインドで生まれた。

甘いマスクでバラードを得意とするフンパーディンクはしばしば「キング・オブ・ロマンス」と称され、トム・ジョーンズとともに1960年代から1970年代にかけて、女性を中心に絶大な人気を誇った。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/エンゲルベルト・フンパーディンク_(歌手)

今回も長くなりました。ピアフ、アダモ、金子由香利の3人のつもりが、パピヨンで終わるとは思わなかった。ニコレッタも知らなかったし。
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