第41話 サン・シティ
文字数 13,899文字
https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/apartheid/
かつての南アフリカには「アパルトヘイト」という悪しき制度「人種隔離政策」があった。白人と黒人、そして有色人種は厳格に区別され、白人以外をすべて差別の対象とする「制度」だった。
いや、例外があった。日本人である。貿易相手として南アフリカの経済におおいに「貢献」していた日本。日本人だけは「名誉白人」の”称号”を与えられ、「ある程度」、白人と同等の扱いを受けることを「許されていた」。
日本中がバブルに浮かれ、パリのブランド専門店に集団で訪れてはブランド品を買いあさり、日本人そして日本人ビジネスマンが「エコノミック・アニマル」と世界中で揶揄されていた頃のことである。
そんなに昔の話ではない。世界中からの猛烈な批判と反対運動を受け、初めて実施された全人種による総選挙でネルソン・マンデラが大統領となり、この制度が撤廃されたのは1994年のことである。
アパルトヘイト政策とは、人口の20%のヨーロッパ系の白人が国民の80%である有色人種に対し、基本的な人権を与えず支配しつくした徹底的な差別による政策。
黒人居住区にある、白人だけが入れる楽園、サン・シティ。
国連は1968年に人種隔離政策を続ける南アフリカとの文化・教育・スポーツ関連の交流を禁止したが、例えば音楽関係では巨額のギャラに目が眩んでサン・シティに馳せ参じる面々も後を絶たず。同地のスーパーボウルがオープンした1981年以降、公演で訪れたのはフランク・シナトラ(こけら落とし)、ビーチ・ボーイズ、グレン・キャンベル、リンダ・ロンシュタット、ロッド・スチュワートにオリヴィア・ニュートン・ジョン、クイーン……
そんなところに招かれたって歌うもんか!
このリトル・スティーヴンの呼びかけにはものすごい顔ぶれが大集合した。
リトル・スティーヴンの仲間であるブルース・スプリングスティーンやクラレンス・クレモンズ、ホール&オーツ、ピーター・ガブリエル、ボブ・ゲルドフ、ボノ(U2)、ジャクソン・ブラウン、ボブ・ディラン、ハービー・ハンコック、ボニー・レイット、ルー・リード、ジョーイ・ラモーン、ギル・スコット・ヘロン、リンゴ・スター親子、ピート・タウンゼント、ボビー・ウーマック、ピーター・ウルフにアフリカ・バンバータ……収益は公益信託「The Africa Fund」に行ってます。
Songwriter(s) Steven Van Zandt
Released in 1985
US Billboard Hot100#38
From the Album “Sun City”
*原詞の引用は太字
[Intro]
Ahh, sun city
Sun city
South Africa
South Africa
[Scatting]
[Verse 1: Run-D.M.C, Grandmaster Melle Mel & Duke Bootee, Afrika Bambaataa & Kurtis Blow, Big Youth & All rappers]
We're rockers and rappers united and strong
We're here to talk about South Africa
we don't like what's going on (Tell it)
It's time for some justice it's time for the truth (Speak it)
We've realized there's only one thing we can do
俺たちロッカーでありラッパーは 団結して強くなる
俺たちは 南アフリカのことを話しに来たんだ
いま起こっていることは なにかおかしいぜ (言えよ)
今こそ正義のために 真実を語る時 (言っちゃえよ)
わかったんだ 俺たちにできることは一つしかない
We gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Oh, no, no, no
I, I, I, I, I, I
I ain't gonna play sun city
Everybody say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no, baby
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
俺たちは言う
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演奏しない
いやだ とんでもない
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演るもんか
[Verse 2: David Ruffin, Pat Benatar, Eddie Kendrick, Bruce Springsteen]
Relocation to phony homelands
Separation of families I can't understand
23 million can't vote because they're black
We're stabbing our brothers and sisters in the back
インチキの祖国「ホームランド」への強制移住
家族が離れ離れ アタシには理解できない
肌が黒いというだけで
選挙権が2,300万人に与えられない
俺たちは黒人の兄弟・姉妹を傷つけてるんだ
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
俺たちは言う
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演奏しない
言わせてもらうぜ
アタシも アタシ だって
サンシティなんかで演らないわ
[Verse 3: George Clinton, Joey Ramone, Jimmy Cliff & Daryl Hall, Darlene Love]
Our government tells us we're doing all we can
Constructive engagement is Ronald Reagan's plan
Meanwhile people are dying and giving up hope
Well this quiet diplomacy ain't nothing but a joke
俺たちの政府は 最善を尽くしてると言うが
「建設的関与」はロナルド・レーガンの目論見
そうこうする間に 人々が命を落とし希望を失くしてる
ああ この「静かな外交」なんて冗談じゃない!
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I ain't gonna play, no, no
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Don't wanna play, don't wanna play
アタシたちは言う
俺は アタシは おいらは
サンシティなんかで演奏しない
演らないぜ いやだ とんでもない
言わせてもらおう
俺 僕 アタシ おいら
サンシティなんかで演るもんか
絶対 演奏したりしない
[Scatting]
[Verse 4: Bonnie Raitt, Ruben Blades & John Oates, Lou Reed, Bobby Womack]
It's time to accept our responsibility
Freedom is a privilege nobody rides for free
Look around the world baby it cannot be denied
Some-somebody tell me why are we always on the wrong side
私たちも責任を取る時が来たわ
自由という特権はタダじゃ手に入らないんだ
見回してみると ベイビー 否定できないよ
俺たちはいつも悪い奴らの側に立ってしまうんだろう?
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Will someone tell me what's going on?
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティじゃ演奏しない
何が起きてるか教えてくれよ
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演るものか
[Verse 5: Run D.M.C., Kurtis Blow, Run D.M.C. & Afrika Bambaataa, Duke Bootee, Grandmaster Melle Mel & Afrika Bambaataa, Linton Kwesi Johnson & All Rappers]
Bophuthatswana is far away
But we know it's in South Africa no matter what they say
(No matter what they say)
You can't buy me I don't care what you pay
Don't ask me sun city cause I ain't gonna play
ボプタツワナは遠いけど
ヤツらがどう言おうと南アフリカにあるんだ
(ヤツらが何と言おうと)
カネを積まれようと売ったりしないぜ
サンシティのことを聞いてくんなよ
俺は絶対に演らないから
We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
[Verse 6: Jackson Browne & Bob Dylan, Peter Garrett, Nona Hendryx & Kashif, Bono]
Relocation to phony homelands
Separation of families I can't understand
23 million can't vote because they're black
We're stabbing our brothers and our sisters in the back
インチキの祖国「ホームランド」への強制移住
家族が離れ離れなんて 理解できない
肌が黒いというだけで
選挙権が2,300万人に与えられない
俺たちは黒人の兄弟・姉妹を傷つけてるんだ
We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no no, no, no
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no, no no no
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
俺たちは言う
俺は アタシは おいらは
サンシティなんかで演奏しない
演らないぜ いやだ とんでもない
言わせてもらおう
俺 僕 アタシ おいら
サンシティなんかで演るもんか
絶対 演奏したりしない
It ain't that far away
It ain't that far away, sun city
Don't go, no, no, no no no no no
Sun, sun, sun, sun city
Ain't gonna play sun city
Brothers and sisters being stabbed in the back
Don't, not gonna play sun city
遠くなんかない
サンシティは遠くないが
行かないぜ 絶対にな
サン サン サン サンシティ
サンシティじゃ演奏しない
その裏側じゃ 兄弟・姉妹を傷つけるんだ
だから サンシティじゃ演らないぜ
サン・シティでは白人の観光客のためにいろいろなイベントを催していた。
世界的に著名なアーティストを招いてのロック・コンサートもその一つだった。
”招く”と言っても世界的な批判を受けていた頃のことだから巨額のギャラで”釣る”しかない。
それでそれなりに多くのアーティストを招くことができた。ロッド・スチュアート、そして、いまや”崇敬”の対象ともなっているクィーンなども招かれて、多額の報酬を得ていた。
ギャラのためにリゾート地サン・シティで歌ったクイーンとロッド・スチュアート。
ロッドは今回のワールドカップの開会式のオファーを断っています。出演交渉の際に提示された金額は、なんと約1億3,000万円(100万ドル)。たった数分パフォーマンスするだけで、1億円以上を稼げるなんておいしい仕事だが、ロッドは人権問題などを考慮して判断した。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』で“LIVE AID”の奇跡(1985年7月13日)が注目を浴びているが、サン・シティ公演はその前段であり、真逆とも言えるショウだった。問題だったのはライヴの中身ではなく、サン・シティという場所にあった。ここは南アフリカ共和国の高級リゾート地。当時、かの国は悪名高きアパルトヘイト政策で全世界から孤立していた。経済制裁だけでなくオリンピックからも追放され、国連から文化的ボイコットが呼びかけられていた。そんな中で禁を破ってまでツアーを強行したのがQUEENだった。
●1984年10月5日-20日:南アフリカ(9公演)
南アフリカではサン・シティでのみ全9公演が行われた。ブライアン・メイ曰く「一年近く熟慮して行くことに決めた」「反アパルトヘイト運動をしている人たちの助けになりたかった」との想いを込めてツアーを実施した。しかし、全世界はこれを許さなかった。1985年10月と言えば、50人もの著名なミュージシャンが参加した反アパルトヘイトのシングル『Sun City』も話題となっている真っ最中。それだけにQUEENの行動は世界の耳目を引き、評判は一気に失墜して猛バッシングの的。しかも、当時のQUEENはメンバー同士の人間関係もギクシャクしており、このバッシングで解散寸前にまで追い込まれてしまった。世界の反応、その後の趨勢の両面で“LIVE AID”とは正反対だった。
ネルソン・マンデラは1918年生まれ。1944年、黒人を含め有色人種を自分らより劣等な人種と考える少数派白人による政治の独占と人種の分離に反対し、南アフリカの政党であるアフリカ国民議会Congrès national africainに入党して、弁護士になった。
1948年、与党国民党によって施行された「アパルトヘイト」法に非暴力的に反対する立場をとるが、アフリカ国民議会は、平和的抵抗では何の効果ももたらさないことから、非武装抵抗を諦め、1961年、アフリカ国民議会の分身であるUmkhonto we Sizweを率い闘争を開始する。人間は殺さないが、例えばパスポートオフィスを爆破するなどの行為を行う。
1962年、アメリカのCIAが関与して南アフリカ警察がマンデラをほかの国民議会の党員数名とともに逮捕。政府に対するサボタージュや物品破壊を起訴事実として1963年、リヴォニア裁判で共産主義者およびテロリストという罪状で重労働を課した終身刑に処した。
このとき以来、マンデラは、人種平等の象徴的存在となり、圧倒的な世界的支持を享受していくことになる。
1964年、投獄。囚人番号46664号。政治犯として送り込まれたローベン島で、石を砕く強制労働などの苦役を続けた獄中生活27年ののち、1990年2月11日、マンデラ釈放。
「私は預言者としてここに立っているわけではありません。一介のみすぼらしい人間として皆さんの前に立っています」と演説したマンデラは、人種解放のシンボルとしてのし上がり、当時の南アフリカの大統領、フレデリック・デ=クラークと調停協議を開始。
1993年には、旧体制を覆し、平和的にアパルトヘイトを解消したうえ、南アフリカに民主主義の基礎を築いた業績で、ノーベル平和賞を収受した。
長い間の黒人と白人の相克は深い傷跡を残していた。不信や暴力がはびこる心をつなぎとめなければならない。アパルトヘイトが解消した後も仕事は続けられ、デ=クラークからマンデラへ困難な移行の中で、アパルトヘイトのパルチザンらが起こすと懸念されていた市民戦争は回避されるに至った。
1994年、はじめて全人種の大統領選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の初めての黒人大統領に選出されたのだった。
南アフリカ共和国の黒人初の大統領ネルソン・マンデラは、一度だけアメリカのバラク・オバマと出会っている。まだバラク・オバマが上院議員だったころだ。オバマ大統領はマンデラが17年間投獄されたローベン島へ家族だけで出向いた。ローベン島はマンデラのために今や記念碑的な場所となっている。クリントンもここへ来て、マンデラがいた部屋から鉄格子越しに中庭を見たというが、アメリカの黒人初の大統領オバマも少しのあいだ一人になり、この窓の前に立って外を眺めた。 アパルトヘイトによる、ひとつの人種によるほかの人種へのたとえがたい圧力、激しい不平等と人権蹂躙。抑圧された人種の人権回復への固い意志と信念。政治犯とされて終身刑を受ける過酷さ、27年の重労働と忍耐の重さ。そして、鉄格子のむこうへ希望をつなぎとめる力と。
イギリスでは「マンデラ解放」のためのコンサートがいくつも開かれた。Simple Mindsの「Mandela Day」はマンデラが70歳の誕生日の1988年と、解放された1990年に行われ、コンサートは11時間も続いたという。
ネルソン・マンデラは、チベットのダライラマ、ローマ法王のような精神世界のトップにも会った。カダフィー、アラファト、ホメイニ、イギリスのダイアナ、マイケル・ジャクソン・・・。
暗黒大陸アフリカ、ということばは、南アフリカがこうしてアパルトヘイトを解消し、マンデラのカリスマ的な人柄とともに、忍耐と情熱と時間と、獲得されなければならなかった人間の根本の平等と平和という名の下に、大きく影が薄らいだようにすら見える。その半生が「政治犯」という汚名のために監獄で費やされたことで、アメリカの大統領が二人、クリントンとオバマがその監獄の中に入り、頭を垂れてマンデラの苦しい獄中生活に思いをはせたというその事実は、いったい何を物語るものなのか。
Now the freedom moves in closer every day
Wipe the tears down from your saddened eyes
They say Mandela's free so step outside
Oh oh oh oh Mandela day
Oh oh oh oh Mandela's free
It was 25 years ago this very day
Held behind four walls all through night and day
Still the children know the story of that man
And I know what's going on right through your land
25 years ago
Na na na na Mandela day
Oh oh oh Mandela's free
If the tears are flowing wipe them from your face
I can feel his heartbeat moving deep inside
It was 25 years they took that man away
And now the world come down say Nelson Mandela's free
Oh oh oh oh Mandela's free
The rising suns sets Mandela on his way
Its been 25 years around this very day
From the one outside to the ones inside we say
Oh oh oh oh Mandela's free
Oh oh oh set Mandela free
Na na na na Mandela day
Na na na na Mandela's free
25 years ago
What's going on
And we know what's going on
Cos we know what's going on
https://www.mymusic.net.tw/ux/w/song/show/p000007-a0005036-s002140-t016-c8
『遠い夜明け』は、1987年に製作・公開されたイギリス映画。監督はリチャード・アッテンボロー。出演はデンゼル・ワシントン、ケヴィン・クライン。
1970年代のアパルトヘイト下の南アフリカ共和国における実話に基づいた作品で、撮影は隣国のジンバブエで行われた。南アフリカ共和国でも公開されたが、攻撃的な白人右翼勢力によって上映劇場が爆破される事件が多発した。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遠い夜明け
September '77
9月'77
Port Elizabeth weather fine
ポート・エリザベスの天候は晴れ
It was business as usual
業務は平常通りだった
In police room 619
警察の取調べ室619号
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
The man is dead
その男は死んだのだ
The man is dead
その男は死んだのだ
When I try and sleep at night
夜、眠ろうと何とかしてると
I can only dream in red
赤に染まった夢だけを見てしまう
The outside world is black and white
外の世界は黒と白
With only one colour dead
一方の色だけが死にゆく世界
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
The man is dead
その男は死んだのだ
The man is dead
その男は死んだのだ
You can blow out a candle
貴方はロウソクを吹き消すことが出来る
But you can't blow out a fire
だが貴方は炎を吹き消すことは出来ない
Once the flames begin to catch
一度その炎がつかもうとし始めたら
The wind will blow it higher
風はそれをより高く拭き上げるであろう
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
おお、ビコ
ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
イラマジャ
神魂よ、降臨せよ
The man is dead
その男は死んだのだ
The man is dead
その男は死んだのだ
And the eyes of the world are
そして世界の目は
watching now
見ているのだ、今
watching now
見ているのだ、今
Senzeni Na?
私達は何をしたの?
Senzeni Na?
私達は何をしたの?
イギリス人シンガーソングライターのピーター・ガブリエルは『ビコ』をリリースし、彼に捧げた。この歌は1980年のヒットソングである。そしてこれらの歌は、南アフリカ政府によってすぐに発禁となった。加えて、他の反アパルトヘイト音楽にも影響を与えた。これは西側の大衆文化と反アパルトヘイトという主題を統合することに貢献した。
バントゥー・スティーヴン・ビコ(1946年12月18日 - 1977年9月12日)は南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動活動家。思想的にはアフリカ・ナショナリストかつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動として知られる1960年代後半と1970年代の草の根的な反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。
ビコは貧しいコーサ人の家庭に生まれ、ケープ州ギンズバーグで成長した。1966年、ナタール大学で医学を学び始め、そこで南アフリカ全国学生連盟に参加した。
白人の支配を避けるために、黒人は独立した組織を持たなければならないという見解を強め、これを実現するために1968年の南アフリカ学生機構(SASO)創設の主導者となった。
ビコは、黒人自身が持つ人種的劣等感を払拭する必要があると考え、このアイデアを「ブラック・イズ・ビューティフル」と言う一般化したスローガンで表現した。1972年、彼は黒人意識という思想を多くの人々の中に広めるため、黒人人民会議(BPC)に関与した。政府はビコを危険分子と見做すようになり、1973年に彼を活動禁止命令下に置き、その活動を厳しく制限した。ビコは政治的に活発であり続け、ギンズバーグ地区の診療所や託児所のようなBCPsを組織するのを支援していた。活動禁止中にビコは匿名の脅迫を繰り返し受け、またいくつかの機会を掴んで警察に拘束された。ビコは1977年8月に逮捕された後、警官から激しい殴打を受け、その結果死亡した。葬儀には20,000人以上が参列した。
ブルース・スプリングスティーンのバックをつとめたE・ストリート・バンドのギタリストで、スティーブ・ヴァン・ザントはアルバム・タイトル曲ともなる「SUN CITY」を書き上げると、賛同する多くのアーティストたちに声をかけ、このアルバムを作り上げた。
ロック、ソウル、ファンク、ジャズ、ヒップ・ホップそしてアフリカのミュージシャンなど、さまざまな分野のアーティストたちが参加した。
その名も「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」 (Artists United Against APARTHEID 。
そこには人種の壁も、ジャンルの壁も無かった。
スティーブ・ヴァン・ザント 、盟友のスプリングスティーンとクラレンス、ピーター・ガブリエル 、ホール・オーツ 、U2のボノ 、ルー・リード、Run-D.M.C. 、JAZZからは御大マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、 ロン・カーター、‥‥‥etc.。
参加メンバーのダリル・ホールは、ギャラのためにリゾート地サン・シティで歌ったクイーンとロッド・スチュアートを名指しして、「クソ野郎」と罵った。
これ以外の曲もヒップ・ホップなのか、ロックなのか、ジャズなのか、アフリカン・ミュージックなのか、判然としない曲が多い。すべての音楽的要素が、混然一体となり、融け合っているのだ。
Run-D.M.C. をはじめとするラッパーたちも音楽の壁を越えて集結した。
彼らは「Let Me See Your I.D.」で皮肉たっぷりに、しかし怒りを込めて、熱くCOOLなラップを披露した。
https://musicstore.auone.jp/s/song/S20785361?ds=1006764095&affiliate=2504210001
マイルス・デイビスも、いつも以上の鋭い眼光をギラつかせ、いつも以上に眉間にシワを寄せながら、やはり熱くCOOLに演奏してみせた。
「The Struggle Continues」 ”闘い”はまだ終わっていない。常に何かと”闘って”きたマイルス。ジャズ史にも残るべき名演となった。
2021年の推計によると、南アフリカ共和国の人口は6,014万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。
現在では平均寿命は64.38歳となっている。黒人層に限ればさらに低くなる。
白人は1940年ごろには全人口の約20%を占めていたが、2009年には9.1%にまで低下した。
アパルトヘイトの廃止以降、逆差別や失業、犯罪などから逃れるために国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ。
2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人が貧困層となっており、プアホワイトと呼ばれる層が出現している。
最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の不法移民が流入し、治安悪化の原因となっている。
現在、南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
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