第34話 タイトルは……
文字数 6,344文字
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、1975年4月20日に東芝EMIから発売されたダウン・タウン・ブギウギ・バンド4作目のシングル曲。発売当初は「カッコマン・ブギ」のB面曲だった。
阿木燿子(作詞) 宇崎竜童(作曲)
第17回日本レコード大賞・企画賞 第3回FNS歌謡祭・特別賞
オリコンチャートの週間順位で5週(1975年6月23日 - 7月21日付)に渡り1位を獲得。1975年のオリコン年間ヒットチャートでは第5位にランクインし、さらに大晦日の『第26回NHK紅白歌合戦』に初出場をした。
発売当初「カッコマン・ブギ」をA面にして発売された。これは前作「スモーキン・ブギ」がヒットしたことで、次のシングルもブギ物としたものだが、発売前に表題曲が有線チャートで急上昇したため、発売1か月後に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をA面に格上げして再発売。累計売上はミリオンセラーに達した。
楽曲の大半がギターによるリフをバックに語られるセリフで構成された作品である。作詞は、当時既に本バンドのボーカルで作曲者でもある宇崎竜童の妻であった阿木燿子によるもので、阿木の作詞家としてのデビュー曲である。ある女性を捜している主人公の男性が、接点を持っていた人物達の証言を頼りに少しずつその女性へ迫っていく内容の歌詞で、登場するセリフは主に、その証言者たちの言葉である。横浜と横須賀がそのままタイトルに織り込まれた、神奈川県の「ご当地ソング」の1つであり、シングル・バージョンのアウトロには港での汽笛音など、効果音が挿入されている。
宇崎は阿木が書いた詞に感激し「コレこそ俺の唄うべき歌だ」と感じて作曲に取りかかったものの、冒頭の「一寸前なら憶えちゃいるが…」の部分を曲に乗せようとすると「スーダラ節」と酷似したリズムしか発想できないことを心苦しく思っていた。その時聞き返していたアメリカのトーキング・ブルースがヒントになり、「すべての詞を語りにする」というアイデアが生まれた。
TBS系にて放送された2005年年末の特別番組『超豪華!! 歌謡史決定版ザ・ヒットメーカー 作詞家・阿久悠40周年記念特別企画』(2005年12月29日放送)において、阿久がゲストで出演した阿木を前に、本楽曲中に登場する「アンタ、あの娘(コ)のなんなのさ!」というセリフについて「衝撃的だった」という旨を語った模様が放送された。
阿木 燿子(1945年5月1日 - )は、日本の作詞家・女優・小説家・エッセイスト。夫はミュージシャン・俳優の宇崎竜童。2006年11月3日紫綬褒章受章。
宇崎が作曲し阿木が作詞するというコンビで、多数のヒット曲を世に出す。特に山口百恵の全盛期から引退までのヒット曲の多くは、このコンビによるものである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9C%A8%E7%87%BF%E5%AD%90
「フレディもしくは三教街〜ロシア租開にて」 さだまさし
アヘン戦争後の半植民地支配下にあった中国には行政自治権や治外法権をもつ外国人居留地の地域、租界(そかい)と呼ばれる地域があったそうです。
租界には様々な事情で祖国を離れた人々が移住し、それぞれの文化や風習を争うことなく守り合って暮らしていたといいます。
曲の舞台となる漢口(ハンカオ)は現在でいう武漢(ブカン)の辺り。
漢口(ハンカオ)には「イギリス租界」「フランス租界」、ロシア、ドイツ、そして「日本租界」と。
石造りの洋館が立ち並ぶ素敵なヨーロッパ風の街並みだった様子です。
そしてロシア租界は「3教街」と呼ばれ、ロシア正教•ユダヤ教•キリスト教の教会が仲睦まじく佇んでいたそうです。
互いの宗派も認め合い、いがみ合う事なく暮らす街。
誰もが理想とする平和な都市がここにはあったのではないでしょうか。
さだまさしの母は17歳の頃、貿易の仕事をしていた兄に漢口(ハンカオ)に呼ばれ、終戦までの3年あまりをタイピストの仕事をして暮らしていました。
彼女はそこでドイツ青年とのトキメクような恋があったのです。
海岸通りで、水のキラメキを背景に彼がさっそうと人力車を停める場面から歌が始まります。
この先の幸せを予感させるような彼との出逢い。
キラキラした気持ちがとても眩しく伝わります。
歌詞に登場するお店などは実在した名前の通りだそうです。
17歳の彼女にとって、胸躍る異国の情景の中での彼との日々はどれほどきらびやかなものだったでしょうか。
しかし…
やがて戦況は悪化。
1944年、アメリカ軍の500トン以上もの焼夷弾によって街は破壊され、三日間に渡る大火災の末、街は文字通り跡形もなく焼き尽くされる事になります。 https://mamenokiogm.blog/entry/2022/07/22/080000
「碧い瞳のエリス」は、日本のロックバンドである安全地帯の10枚目のシングル。
松井五郎(作詞) 玉置浩二(作曲)
チャート最高順位 2位(オリコン) 1985年度年間29位(オリコン)
1985年10月1日にKitty Recordsからリリースされた。作詞は松井五郎、作曲は玉置浩二、編曲は安全地帯および星勝が担当している。エリスとは森鴎外作の「舞姫」に登場するヒロインで、歌詞も舞姫の世界観を表している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E3%81%84%E7%9E%B3%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B9
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/与作
高校卒業後、日本国有鉄道金沢鉄道管理局(現・JR西日本金沢支社)に就職し、車掌区在職中に製作した「サヨナラ模様」が1981年のヤマハポピュラーソングコンテストでグランプリを獲得し、70万枚を売り上げる大ヒットとなった。現在までの全作品の売り上げ枚数は200万枚に達する。
デビュー後もシンガー・ソングライターとして活動する傍ら、引き続き列車に乗務したことで「車掌さん歌手」「シンガーソング車掌」として話題を呼んだ。歌番組には電車の中や駅から出演したことから、伊藤目当ての多くの乗客を集めた。
国鉄分割民営化に伴う職場環境の変化で、1985年から休職して全国でコンサート活動に取り組む。国鉄最後の日となった1987年3月31日付で国鉄を退職した。
退職後は新潟県西頸城郡青海町(現・糸魚川市)で家業の漁業を手伝いながら音楽活動を続け、のち富山県射水市に居を構えて活動に専念。現在も北陸地方を拠点に活動を続けている。
『さなえちゃん』は、加奈崎芳太郎、仲井戸麗市(愛称:チャボ)の二人で結成したフォーク・グループ古井戸の楽曲である。古井戸の1枚目のシングルとして1972年5月25日にエレックレコードより発売された。
週間17位(オリコン)登場回数17回(オリコン)売上12.4万枚(オリコン)
エレックレコードのプロデューサー浅沼勇に認められて「古井戸の世界」でレコードデビューしてから、「唄の市」で全国を回る中、古井戸の世界-生ギターの限界に挑戦するチャボのギター・テクニックと、加奈崎のヘビー級のパワフルなボーカルを基調にしたハードな古井戸サウンド-は確立された。そんな中、浅沼は女の子のファンが多かったチャボのかわいらしさを出して、チャボをリードボーカルにした曲を作ろうと考えた。当時チャボは大学ノートをいつも持ち歩いており、そのノートの裏表紙にさなえちゃんとネーミングされた似顔絵を書いていたため、浅沼はこれだとチャボに曲を作らせた。結果10万枚を超えるヒットとなり、古井戸の名前は一躍有名になった。
その後、古井戸には「さなえちゃん」のイメージがつきまとい、出演したテレビでもこの曲を求められ、チャボが怒って退席したことがある。
さなえちゃんは、チャボが通っていた戸山教会の幼稚園の初恋の相手の名前。
「そんなヒロシに騙されて」は、サザンオールスターズの楽曲。1983年7月5日に発売したオリジナル・アルバム『綺麗』の6曲目に収録されている。作詞・作曲は桑田佳祐、編曲はサザンオールスターズが担当。キーボードの原由子がボーカルを担当している。
「そんなヒロシに騙されて」は、高田みづえの21枚目のシングル。1983年8月21日に発売された。
週間6位(オリコン)1983年度年間45位(オリコン)
1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』に本楽曲で出場し、4年連続通算6回目の出場となった。
TBSテレビ系列の生放送音楽番組『ザ・ベストテン』には、1980年の『私はピアノ』以来、3年振り3曲目の10位以内へランクインされるも、当曲が高田自身同番組において最後の出演となった。
1985年2月、大相撲の人気力士で当時大関だった若嶋津六夫との婚約を発表すると同時に、歌手活動を含めた芸能界引退を表明する。
1980年6月5日にリリースされた。作詞・作曲は長渕、編曲は瀬尾一三が担当している。
元々はアルバム『逆流』(dm1979年)に収録されていた曲であるが、長渕は叙情派フォークと混同されたくないためにシングルでのリリースは検討していなかった。しかし、全国各地の有線ランキングにおいて1位を獲得し、シングル化を要望するリクエストが殺到したためライブツアー終了後にリリースする事となった。歌詞の内容は女性に裏切られた男性の失恋を題材としており、ファンク・アレンジによるシティ・ポップ風のバラードとなっている。
オリコンチャートでは8週連続で1位を獲得しミリオンセラーとなった。
SACHIKOは、ばんばりろふみが1978年にバンバンを解散後、ソロ歌手として、1979年9月21日にリリースした4枚目のシングル。
オリコンチャートで週間最高2位を獲得、75.1万枚を売上、自身最大のヒット曲。『リリー・マルレーン』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。ドイツの歌手・女優、ララ・アンデルセンが1939年2月に録音したバージョンがヨーロッパ全体でヒットした。
1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプが、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェが曲をつけた。
1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た。
第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。
アンデルセンは慰問で人気者になったが、長くは続かなかった。1942年夏、アンデルセンと親しい関係にあったロルフ・リーバーマンがユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンは歌手活動が禁止され、アンデルセン盤の原盤が廃棄される事態となる。ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により「リリー・マルレーン」のタイトルとメロディ自体は残され、別バージョンが作られた。
歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったものである。
アンデルセンの生涯を題材にしたドイツ映画『リリー・マルレーン』が1981年に製作・公開された。
ベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌としても知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問し、この歌を歌った。そのため、ディートリヒはドイツで敵側の人間(反逆者)と見なされ、ドイツでは戦後も不人気となった。
「夜桜お七」は、1994年9月7日に発売された坂本冬美のシングル。
坂本が師事していた作曲家・猪俣公章亡き後、初のシングルであり、代表曲の一つに数えられる。これまで演歌の作詞をしたことがなかった歌人・林あまりに作詞が依頼された。曲名の「お七」とは八百屋お七のことである。自己主張する現代的な女性像を、八百屋お七になぞらえた作品。林の第一歌集『MARS☆ANGEL』に収録されている短歌連作「夜桜お七」を再構成するかたちで歌詞としている。NHKの『コメディーお江戸でござる』の歌謡コーナーのオリジナルソングとして発表され、同番組内で毎年4月に必ず歌われていた。ブラス入りの16ビートのメロディーが含まれ、演歌としては異色の仕上がりになっている。発売から1か月あまりで15万枚を売り上げ、演歌としては異例の早さの売れ行きとなった。その後もオリコン・シングル・チャートでは100以内に25週ランクインするなど、ロングヒットを記録した。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/夜桜お七
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