第13話 ブルックナーとブラームス 2

文字数 3,781文字

指揮 ロリン・マゼール
バイエルン放送交響楽団

交響曲第4番ホ短調作品98は、1884年から1885年にかけてヨハネス・ブラームスが作曲した最後の交響曲。終楽章にはバロック時代の変奏曲形式であるシャコンヌを用いるなど、擬古的な手法を多用している。

このことから、発表当初から晦渋さや技法が複雑すぎることなどが批判的に指摘されたが、現在では、古い様式に独創性とロマン性を盛り込んだ、円熟した作品としての評価がなされており、4曲の交響曲の中でも、ブラームスらしさという点では筆頭に挙げられる曲である。

ブラームス自身は「自作で一番好きな曲」「最高傑作」と述べている。演奏時間約40分。

ブラームスはブルックナーの生前最後に初演された大作である交響曲第8番に対しては称賛している。ブラームスが知人に

「ブルックナーの交響曲8番の楽譜を早く送ってほしい」

と依頼したこともある。この頃になるとブラームスは自分の引き受けられない仕事をブルックナーに振るように根回しし、そうしてブルックナーが作曲したのが『詩篇第150番』(1892年)である。 

1892年、ウィーン国際音楽演劇博覧会が催されることになり、ブラームスのもとに祝祭のためのカンタータ作曲の依頼が届いた。しかしブラームスは、依頼を持ち込んだリヒャルト・ホイベルガーに対してこう返答した。

「身にあまる光栄で感謝しておりますと、失礼のないようにお伝えください。イベント関係には関わりたくないんだ。ブルックナーに頼むよう取りはからってよ」

ブルックナー交響曲第8番

指揮 ギュンター・ヴァント

NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

旧称ハンブルク北ドイツ放送交響楽団

ブルックナーは指揮者ヘルマン・レヴィに交響曲の完成を報告した。

手紙で、第8番の完成を「私の芸術上の父」レヴィに報告したいと述べられている。レヴィがブルックナーからこれほどの敬愛を受けるようになったのは、第7番のミュンヘン初演を成功させ、この作品をバイエルン国王ルートヴィヒ2世に献呈するというブルックナーの希望を実現させたためだった。

レヴィは第8番にも関心を示した。しかし送られてきた総譜を見てレヴィは「演奏不可能だ」と感じ、ブルックナーの弟子のフランツ・シャルクを通じてその旨を返事した。


ブルックナーはひどく落胆したが、第8番の全面改訂を決意する。

これが「1890年・第2稿」であり、現在の演奏はほとんどこの稿を採用している。

なおブルックナーは同時期に交響曲第4番、第3番の改訂も行っている。この時点で第9番の作曲もある程度まで進められていたのだが、この晩年の改訂期のために中断を余儀なくされた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

「ブラボー!」一番乗りしたいけど、余韻も音楽。

3楽章が静かに終わると、待っていたかの様に大喝采が鳴り響きました。その大喝采の中、やや小柄な2人の紳士はそそくさと客席を離れ、舞台袖の人目につかない秘密の特等席に腰を下ろします。


「ここで最終楽章を聴くのである。…やはり思った通りの音である。これは大作である…しかし、認める訳にはいかない音楽である」


1892年12月18日。この日のウィーンフィルの定期演奏会は、フィルハーモニカー始まって以来の大喝采。圧倒的な終楽章が終わり、興奮冷めやらぬ会場を先程の2人の紳士がそそくさと出ようとした時、出口に大きな銀皿に揚げパンを山盛りにし、ウロウロしていた大柄で、だぶだぶの黒服を着た男が呼び止めました。


「ハンスリック先生に博士(ブラームス)殿!今日はほんま聴きに来て頂いておおきに。エライ大成功ですわ〜」


「やあ、これはこれはトーネル君。ハ短調交響曲の成功おめでとう。しかし、その大量の揚げパンは何であるか?」

「へぇ。舞台がハケましたらリヒター先生(初演指揮者)と食べよ思いましてな。お二人も食べまへんか?」

「いや、結構である。それではおやすみ。である」

「へぇ。それでは車までお送りします」


ブルックナーは本日の主役であるにも関わらず、冬の寒い中、急いで先回りして車のドアを開けました。

「ささ、どうぞ」

ハンスリックに続きブラームスが馬車に乗ろうとした時、彼は口を開きました。

「アントン君。私。あなたの交響曲。理解不能」

ブルックナーは答えます。

「そうでっか。ワシも博士殿の交響曲に関しては同感ですな」


帰りの車中、ハンスリックは静かにつぶやきます。

「あのリンツの田舎合唱指揮者がここまで成長するとはな。である」

ブラームスもわずかに同調するように頷きました。

「ブルックナー、確かに天才」


交響曲第8番初演当日、ブルックナーは指揮者リヒターへのねぎらいとして、本当に48個の揚げパンを皿に盛って、出口で待っていました。リヒターと一緒にたいらげるつもりだったようです。また当時の演奏会では楽章間に拍手が入るのは通常のことでした。

https://shirokuroneko.com/archives/3903.html

1959年にカラヤン=ウィーン・フィルの来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、「『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった」という逸話もあったという。
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102は、ヨハネス・ブラームスが1887年に作曲した、ヴァイオリンとチェロを独奏楽器とする二重協奏曲である。優れた独奏者でなければ演奏効果の上がらない難曲である。ブラームスの作曲した最後の管弦楽作品であり、その後ブラームスはピアノ曲や歌曲、室内楽曲の作曲に専念することになる。

指揮 秋山 和慶

NHK交響楽団

ヴァイオリン アイザック・スターン

チェロ ヨーヨーマ

ブルックナーは最後の交響曲である第9番を第3楽章まで書き上げましたが、完成をさせることが出来ずにこの世を去りました。終楽章には巨大なフーガ楽章を置こうと考えていたようです。けれども、この曲は未完成であるにもかかわらず、音楽のとてつもない深遠さによって圧倒的な存在感を与えています。幸いなのは第3楽章アダージョが、あたかも完成された曲の終結部のように感じられることです。この楽章までを聴き終わった後に少しも不自然さを感じずに済みます。むしろ、この楽章に続くのにふさわしい音楽が果たして存在し得るかどうか疑問に感じてしまいます。もしや未完成に終わったのは、ブルックナーの命の時間切れの為ではなく、人智では到底作曲が不可能だったからなのではないでしょうか。


それにしても、この第9交響曲はとんでもない曲です。これはもう音楽であって音楽でない、とてもこの世界のものとは思えない、宇宙そのもののような印象です。初めてこの曲を聴いた時には、遠い宇宙の果てに一瞬にしてワープさせられたような感覚に陥りました。音楽を聴いていて、そんな体験をしたのは、後にも先にもこの曲のみです。

第1楽章の導入部は真に圧倒的で、これほどまでに印象的なファンファーレはリヒャルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りき」ぐらいしか思いつきません。正にカオスの中に生れた宇宙のビッグバンです。そして宇宙の鳴動のような第2楽章を経て、第3楽章アダージョの終結部のカタルシスが過ぎ去ったあとに訪れる静寂は、天国的というよりも、全てが「無」に帰ってしまったかのごとき印象を与えられます。


この曲を鑑賞して「愉しむ」ことはなかなか難しいかと思います。余りに音楽が厳し過ぎるからです。けれども、この曲に真摯に向きあった時には、とてつもない感動が得られます。これほどの音楽に匹敵するのは、交響曲に限定すれば、マーラーの9番、ブルックナーの8番、ベートーヴェンの第九ぐらいではないでしょうか。

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-2a1c.html

ブルックナー交響曲第9番

指揮 クラウディオ・アバド

ザンクトフローリアン・アルトモンテ管弦楽団
第2楽章(27分頃)が好きで、そこだけよく聴いていた。そしてなぜか、ドボルザークの『新世界』4楽章に繋がっちゃうのはなぜだろう?
ブルックナーの葬儀の際、ブラームスは自宅の目の前にあったカールス教会の入り口に佇み、葬儀の様子を遠巻きに見ていた。(プロテスタント教徒であったブラームスはカトリック教会に入るのを遠慮していたが、他のカトリック教徒の知人の葬儀に出席しなかったわけではない)

会衆の一人が中に入るように促すと、

「次は私の棺を担ぐがいい」

と言い捨てて雑踏に消えた。

しかしまた戻ってきて、当時8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーによると「好奇心の強い会衆から隠れるようにして」

柱の影で泣いていたのが目撃されている。ブラームスもそれから半年後の翌1897年4月3日に死去した。

https://www.weblio.jp/content/ブラームスとの関係

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