第15話 女王と神さまと……

文字数 3,405文字

 美空 ひばり(みそら ひばり、1937年〈昭和12年〉5月29日 - 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。

出生名 加藤 和枝(かとう かずえ) 生誕 1937年5月29日 死没 1989年6月24日(52歳没)

ジャンル 歌謡曲・演歌・ジャズ

 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝。愛称は「お嬢(おじょう)」

 1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。

 翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し

「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている。歌手になるなら頑張りなさい」

と激励した。

 当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、

「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」

という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し

「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」

と、批判的な論調の記事を書いている。

 1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。
美空ひばりさんは、英会話も楽譜を読むこともできませんでした。聴いただけで歌えてしまう。天才でした。

ひばりさんは、jazzに進みたかったようでしたが、それでは稼げない…‥と歌謡曲の方になったようです。

岡林信康さん。1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。フォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在となった方です。彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」

作者 美空ひばり

補作詞作曲 岡林信康

 2010年に、生前交流があった岡林信康が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。

『悲しき口笛』は、1949年9月10日に発売された美空ひばりのシングルである。

 同年10月に公開され、当時12歳にしてひばりが自身初の主演を務めた映画『悲しき口笛』の主題歌である。

 当時、45万枚程を売り上げ、ひばりにとって初めてのヒット曲となった。本楽曲はひばりにとって出世作となり、ひばりは本楽曲のヒットにより一躍有名になった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/悲しき口笛

『山谷ブルース』は岡林信康が作詞作曲を手がけた楽曲。

『色褪せない音楽』42、43話に岡林さんの特集があります。

『山谷ブルース』のjazzバージョン。

「ひばりさんとは、1975年に『月の夜汽車』のレコーディングで初めてお会いし、すぐに意気投合してひばり邸で一緒に飲んで以来、親しくさせていただきました。ひばりさんは100年か200年に1人のあらゆるジャンルを超越した世界最高のボーカリストだと思います」

と、ひばりさんを絶賛する岡林信康は

「1975年に中野サンプラザでコンサートを開いたときのテープがでてきたんです。コンサート終盤にひばりさんが飛び入りで出て歌ったのですが、そのテープが見つかったことがきっかけで、急にひばりさんの歌を歌いたくなって、今回のカバーアルバムを出すことになりました」

と話していた。

 ひばりプロダクション加藤和也社長は

「岡林信康さんは、母とはお互いにミュージシャンという魂に共感して、生前中、深いお付き合いをさせていただいた方で、今回のレコーディングではマスタリングまで押しかけ的に参加させていただきました。フォークの神様の岡林さんの音楽をつくる現場に携わらせていただいたことはこの上ない幸せで、天国の母に個人的に感謝しています」

とうれしそうに語っていた。

https://www.barks.jp/news/?id=1000057627

控え目な尾崎紀世彦さん。私が中学生の時にデビューし、ずーっと好きでした。岡林信康さんを詳しく知ったのは、このチャットノベルを始めてからです。
ちあきなおみの歌唱力をほとんど唯一「私に匹敵する」と高く評価していた。

 1992年9月11日に夫の郷鍈治が病死。彼が荼毘に付される時、ちあきは柩にしがみつきながら「私も一緒に焼いて」と号泣したという。

 その数日後ちあきは引退までは明言しなかったものの、歌手業を含めた芸能活動を全面的に停止し、公の場には姿を現さず、マスメディアの取材等にも一切応じず、事実上の引退状態となった。

 ちあきに対する歌手復帰への期待は根強いものがあり、ベスト盤などのCDのリリースや特集番組が放送されるたびに活動再開を待望する声も上がるが、亡夫から「もう無理して歌うことはない」という遺言があったとされ、本人も歌手復帰を期待する声や音楽関係者の説得に応じていないといわれている。

 2021年3月には『The Anthology of NAOMI CHIAKI ちあきなおみ大全集』が復刻された。人気や注目度は依然として高く、およそ30年にわたって活動再開はおろか公の場に姿さえ見せないことも相まって、「伝説の歌姫」等と称されるに至っている。このためちあきの消息や関係者の証言・回想などが芸能ニュースになることも少なくないが、その沈黙は依然として破られる気配はない。

 ちあきの義兄である宍戸錠は、

「ちあきの歌の上手さはハンパじゃないんだよ。好き嫌いはあると思うけど、俺は美空ひばりより上手いと思うね。ありとあらゆる流行歌、英語の歌も含めて、ちあきにかなう歌手はいないよ。リズム&ブルースでもゴスペルでもないんだけど、ちあきは心にその二つの精神を持っている。びっくりするぐらい上手い」

と語っている。ちあきの「育ての親」のひとりである鈴木淳は

「ちあきなおみの最大の武器は声だ。張りがあって、ハスキーさがプラスされた独自の声。世界に二つとないようなヴァイオリンにも似た『名器』たる響きがある」

と評価している。作曲家・船村徹はちあきの歌唱力や実力から、昭和の歌謡界を代表する歌手・美空ひばりと対比し(船村はちあきとひばりの双方の楽曲を数多く手がけている)

「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないかだ(ひばりは裏声が出る)」と発言している。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ちあきなおみ

このレコード、二十歳の頃の買いました。
 2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数)は約1億1700万枚に達する。 

 この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である。

 日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/美空ひばり

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

今回のは、60代以上じゃないと興味がないでしょうか?



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