第10話 70年代の洋楽

文字数 9,257文字

『Hotel California』(ホテル・カリフォルニア)Eagles(イーグルス)

歴史に残る名曲「ホテル・カリフォルニア」を収録したイーグルス5枚目のアルバム。

空前の大ヒットとなったベスト盤「グレイテスト・ヒッツ 1971-1975」の後に発売。 すでに絶頂だった人気をさらに強固にし、イーグルス旋風を巻き起こした。 米国内のセールスでは、「スリラー」及び自分たちの「グレイテスト・ヒッツ 1971-1975」に次ぐ史上3位。

A面の1曲目にタイトル曲が登場。 砂漠をドライブしていた旅人が、 たどりついたホテルで目にした堕落的な世界を哀愁いっぱいに語る。 アメリカの夢の象徴とされたカリフォルニアをテーマに、 現実の空虚さを描いた。 ドン・ヘンリーの憂いを帯びた歌声と、 ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュの2人によるリードギターが圧巻。 

https://www.we-love-soulmusic.com/pcindex.html

作詞・作曲:ドン・フェルダー、ドン・ヘンリー、グレン・フライ

On a dark desert highway     暗い砂漠のハイウェイ

Cool wind in my hair     涼しい風が髪をなでる

Warm smell of colitas     コリタスの穏やかな匂いが

Rising up through the air     あたりに立ち込める

<注:コリタスとは砂漠に咲くサボテンの花で、マリファナ(マリワナ)の暗喩でもある。>


Up ahead in the distance      遠くにかすかな

I saw a shimmering light       光が見える

My head grew heavy       頭は重くなり

And my sight grew dim       視界はかすんでいた

I had to stop for the night      今夜はもう休まなければ


There she stood in the doorway       入口に女が立っていて

I heard the mission bell         礼拝の鐘が聴こえた

And I was thinking to myself        俺は自分に問いかけた

“This could be Heaven or this could be Hell"   「ここは天国か それとも地獄か」


Then she lit up a candle      女はロウソクを灯して

And she showed me the way        俺を案内した

There were voices down the corridor       廊下の先から聞こえた声は

I thought I heard them say       こんな風に言っていた


“Welcome to the Hotel California        「ようこそホテル・カリフォルニアへ

Such a lovely place       とても素敵な場所

Such a lovely face       とても素敵な外観


Plenty of room at the Hotel California      たくさん部屋があるホテル・カリフォルニア

Any time of year      一年中いつでも

You can find it here"       ご利用できます」


Her mind is Tiffany-twisted        彼女はティファニーに夢中

She got the Mercedes bends      メルセデス・ベンツにもご執心

She got a lot of pretty, pretty boys       素敵な彼氏達もたくさんいる

That she calls friends         彼女は「友達」と呼んでいる

<注:bends(ベンズ)とbenz(ベンツ)の言葉遊び>

<注:ティファニーは「高級ブランド・高級装飾品」の象徴、ベンツは「高級車」の象徴としての意味合い>


How they dance in the courtyard        彼女たちは中庭で踊ってる

Sweet summer sweat        甘い夏 ほとばしる汗

Some dance to remember       思い出に浸るダンスや

Some dance to forget      忘れたい気分のダンスも


So I called up the Captain       俺はマスターを呼んだ

“Please bring me my wine"     「ワインを頼む」

He said, “We haven’t had        彼は言った

That spirit here since 1969"     「1969年から そういうお酒は置いていないんです」

<注:spirit(スピリット)は「酒」と「精神」のダブルミーニング>

<注:大事に保管され熟成されたワインは、伝統的な文化や精神の象徴。それが1969年以降、失われてしまったとの意味合い>


And still those voices        そしてまだその声は

Are calling from far away        遠くから聞こえている

Wake you up in the middle of the night        真夜中に目を覚まさせ

Just to hear them say        その声はこう聞こえるんだ


“Welcome to the Hotel California      「ようこそホテル・カリフォルニアへ

Such a lovely place       とても素敵な場所

Such a lovely face       とても素敵な外観


They living it up at the Hotel California          みな楽しく過ごしています。ホテル・カリフォルニア

What a nice surprise        なんて素敵な驚き

Bring your alibis"         アリバイをご用意ください」

<注:アリバイとは、その場所にいなかったことを証明するための証拠のこと。つまり、このホテルは居たことが知られてはいけないようなヤバイ場所だということ。>


Mirrors on the ceiling          鏡張りの天井

The pink champagne on ice         氷の上にピンク・シャンパン

And she said:         彼女は言った

“We are all just prisoners here     「私たちは皆ただここで

Of our own device"        自分自身のオリに囚われてる」


And in the master’s chambers       支配人の部屋へ

They gathered for the feast          宴に集まる人々

They stab it with their steely knives         鋭いナイフで突き刺すが

But they just can’t kill the beast         獣を殺すことはできない


Last thing I remember, I was         最後に覚えているのは

Running for the door         俺がドアへ走っていった事

I had to find the passage back        見つけなければ

To the place I was before         元の場所へ戻る道を


“Relax," said the night man        「落ち着いて」夜警が言った

“We are programmed to receive          「私たちは受入れるよう指示されてる

You can check out any time you like          あなたはいつでもチェックアウトできる

But you can never leave!"        だが決してここを去る事はできない!」

https://www.worldfolksong.com/popular/hotel-california.html

『Hotel California』は世界中で爆発的なヒット曲となり、イーグルスの曲の中で知名度はダントツでしょう。

『ホテル・カリフォルニア』の人気の秘密は、楽曲の良さはもちろんのこと、聴く者の想像力を駆り立てる短編小説のような歌詞にあるのかもしれません。

『ホテル・カリフォルニア』の歌詞については、たくさんの憶測や解釈が飛び交ってきました。

『ホテル・カリフォルニア』の解釈として、インターネット上では、次のようなものが散見されます。

メキシコでマリファナのことをコリータス(colitas)という。

メキシコ人だったイーグルスのツアーマネージャーがマリファナのコリータスという呼び方をメンバーに教えた。

離婚したばかりの男の歌。

ドラッグが止められない人の歌。

悪魔崇拝のアントン・ラヴェイのことを歌っている。


メンバーが語った歌詞の意味

アメリカの文化の節操のないところと、メンバーが知っているある女の子たちについての曲。

芸術と商業の危ういバランスついての曲でもある。

未熟な状態から成熟した状態へ変容していく道のりについて歌った曲。

コリータス(colitas)は植物一般的に思い浮かぶカリフォルニアの姿がベースになっている。

https://usamimieigo.com/truth-meaning-of-hotelcalifornia/

タイトル・トラック、「Desperado」。

歌詞の内容は、作者であるドン・ヘンリー(当時29歳)が友人に宛てて書いたものとのことです。

「Desperado」を辞書で引くと、

“(特に初期の米国西部の)命知らずの無法者、ならず者” とあります。

荒野で生きる無法者のイメージと、

孤独で刹那的生き方を続ける友人とを重ね合わせ

心配と忠告の意を込めしたためた歌詞だと言うことがうかがえます。

https://ameblo.jp/higashiemi/entry-10502877097.html

「ストレンジャー」は、ロックアーティスト、ビリー・ジョエルによる楽曲で、1977年の同名のアルバムに収録されている。この曲は日本、ニュージーランド、オランダ、オーストラリアでシングルとしてリリースされ、特に日本ではソニーのCMソングとして起用されて大人気になり、オリコン総合チャートで最高2位にまで達した。

ジャンル ロック 時間 5:10 

作詞・作曲 ビリー・ジョエル

ビリー・ジョエルはもともとインストルメンタルとして演奏したかったが、ビリーが口笛でこのメロディーを作った際に、プロデューサーのフィル・ラモーンがビリーにインストルメンタルの案をやめ、代わりに口笛を吹くようにビリーに説得した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC_(%E6%9B%B2)

この曲は衝撃でした。でも、アメリカではシングルカットされませんでした。

日本独自のシングル発売

日本で大きな注目を浴びたのはデビューから遅れること5年、「ストレンジャー」のヒットによってだ。正確には「ストレンジャー」がテレビCMで使われるようになったからだ。

アメリカから届いた旬なヒット曲「素顔のままで」(’78年2月全米3位)を含むアルバム『ストレンジャー』を携えた’78年3月の初来日公演が大成功したことで、日本独自のシングル発売が米CBSから許可された。来日公演でも客席の反応が良く、日本人好みの哀愁感漂わせた口笛のイントロから一転、ダンサブルなポップ・ナンバーは『サタデー・ナイト・フィーヴァー』のダンス・フィーヴァー・ムーヴメントのなかで好意的に受け止められた。

アルバムからの本命ヒットを確信したCBS・ソニーは’78年5月にEPシングル「ストレンジャー」の発売に踏み切った。

同時期に、本国アメリカではアルバムからの2ndシングル「ムーヴィン・アウト」(’78年5月全米17位)がヒット中だったことを考えると、アメリカと足並みを揃えることを当然とする洋楽プロモーション時代ではまさに異例中の異例の戦略だった。

https://www.110107.com/s/oto/diary/detail/4256?ima=0000&oto=ROBO004&cd=rensai

ウィリアム・マーティン・ジョエル(1949年5月9日 - )は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガーソングライター、歌手、ピアニスト、作曲家。ポップなメロディと、都会的なアダルト・コンテンポラリー・サウンドで、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録している。代表曲に、「ピアノ・マン」、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。イギリスのエルトン・ジョンと共に、20世紀後半〜21世紀前半、ピアノ・ロックというジャンルを確立した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A8%E3%83%AB

当時の妻エリザベスに捧げられたラヴ・ソング。

当初はアルバムから外される可能性もあったが、当時ビリーの妻がマネージメントを担当していたフィービー・スノウが、バッキング・ボーカルとしてアルバム・セッションに参加していた際にこの曲を絶賛し、アルバムに収録することになったという逸話がある。

ビルボード誌のシングル・チャートで、ビリーにとって初のトップ10入りを果たした曲で、最高位では3位まで達した曲でもある。また、同誌のアダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位を獲得し、その後、グラミー賞最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞の2部門を受賞 。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E9%A1%94%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%A7_(%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%9B%B2)

マネージャーとしてもビリーを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーは、ビリーの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に1983年7月に離婚に至っている。

「ピアノ・マン」 は、ビリー・ジョエルによってリリースされた最初のシングル。1973年11月2日にリリースされ、数枚のアルバムに収録された。ビリー・ジョエルの最初のヒット曲となり、代表曲でもあるこの曲は、1974年4月にBillboard Hot 100チャートで25位を記録した。

「ピアノ・マン」は、ロサンゼルスのピアノラウンジExecutive Roomで歌手として活動していたビリーの経験を曲にしたものであり、歌詞中の登場人物は全て実在の人物をもとにしているとビリー自身が述べている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E6%9B%B2)

T・レックスは、イングランド出身のロックバンド。旧名ティラノザウルス・レックス。

ロンドン出身のマーク・ボランがリーダー。1970代前半のグラムロック・ムーブメントでは、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルなどとともに、ジャンルを代表するアーティストとなった。その音楽は、T・レクスタシーと呼ばれることもあった。

1970年12月に「T.Rex」とバンド名を短縮、「ライド・ア・ホワイト・スワン」(全英2位)の大ヒットでスターダムに。

1971年に『電気の武者』がUKチャート1位の大ヒット。「ゲット・イット・オン」(全英1位・全米10位)。

イギリスでは人気グラムロック・グループとなった。また、この当時の彼らは「第2のビートルズ」との呼び声も高かった。

1972年に『ザ・スライダー』(全英4位・全米17位)、1973年には『タンクス』(全英4位)など、数多くの大ヒットを連発していった。

日本でも武道館公演を行なうほどの人気で、1973年にリリースされたシングル、「20センチュリー・ボーイ」(全英3位)は当時の日本盤の発売元、東芝EMIのスタジオでレコーディングされた。

しかし、アメリカでヒットしたのは「ゲット・イット・オン」1曲だけで、大きな成功をおさめることができなかった。

1970年代前半には、ラウドなハードロックや、演奏技術や長尺曲が特徴だったプログレッシブ・ロックが流行していた。それらとは異なった中性的なファッションやメイク、グルーブ感あふれるビートや、ポップなメロディーを演奏していたのがグラムロックのミュージシャンたちだった。グラム・ロックは70年代後半のパンク・ロックの一部にも影響を与えることになる。

グラム・ロックは、音楽性よりもメイクや、ステージングなどの面で区別されることが多かった。

1975年に入るとグラムロックブームが終わり、急速に人気はしぼんでいった。

人気急落後のマーク・ボランは、自身の麻薬中毒ともあいまって、危機的な状況を迎える。

この時期の楽曲はブラック・ミュージック色を取り入れたもので、現在ではそれなりに評価されているが、不摂生の祟ったマークは太ってしまい、ビジュアル面でも精彩を欠いた。

だがやがて、息子の誕生などを機に、生活を改め、バンド・メンバーも一新、ソウルミュージックにも興味を示して再起を目指していた。

黒人女性シンガーのグロリア・ジョーンズ(1945〜)とは、1969年に最初に出会い、1972年に再会し、恋愛関係になっていた。マークが恋人だったジューン・チャイルドと1970年に既に結婚していたために、グロリアとは婚姻届なしの事実婚となった。1975年に二人の間には男の子も誕生した(ロラン・ボラン)

しかし、1977年にグロリア・ジョーンズが運転する車が街路樹に激突し、同乗していた彼は29歳で死去した。

生前、「30歳まで生きられないだろう」と言っており、偶然だが30歳の誕生日の2週間前に死去した。

バンド名がT.Rexとなってからは、殆どマークのソロプロジェクト状態だったが、後年はそれがより鮮明になっていた。そのため、彼の死でT.Rexは活動を休止した。 

2020年、「ロックの殿堂」入りを果たす。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/T・レックス

T・レックスは70年代初期のイギリス・チャートを支配した。

ボランの非現実的なヴォーカルと、恥知らずなまでのエゴマニアぶりがこのバンドを牽引していた。

1972年のローリングストーン誌の巻頭特集記事で、彼は「T・レックスはモンスターで、俺はむち打ち名人だ」と語っている。

彼はまばゆいグラム・ロック界で最も可愛い男の子であり、マンボの太陽の下でレスポールをかき鳴らす中性的な王子様であり、自分と同類の神秘的な女性たちに囲まれて銀色の剣歯を持つ夢を実現していた。

彼の代表作は2枚の完璧なアルバム、1971年の『電気の武者』と1972年の『ザ・スライダー』だ。


T・レックスは時にバブルガム・ポップとして片付けられることもあるが、音楽界の奇人変人たちは常に彼らの虜になってきた。

プリンスはT・レックスへの賛辞を表した1985年の「ラズベリー・ベレー」でチャート2位となり、もっとあからさまな曲「クリーム」でチャート1位となった。

ザ・スミスは「パニック」で「メタル・グルー」のリフを拝借した。

らせん状にカールしたヘアに帽子というスラッシュの風貌はボランが始めたものだ。

ガンズ・アンド・ローゼスは1993年のアルバム『ザ・スパゲッティ・インシデント』で「ビューイック・マッケイン」をカバーしてT・レックスからの恩恵に応えた。

そして、昨年の夏、ハリー・スタイルズは著しくボラン風のポップ・アルバム『ファイン・ライン』の制作中に、「トリート・ピープル・ウィズ・カインドネス」で弦楽四重奏団を招いた。そしてT・レックスの「コズミック・ダンサー」をスピーカーから流して、自分が求めるヴァイブを彼らに伝えた。「うん、かなりT・レックスっぽいね。今まで聞いたストリングスの中でベストだよ」と、ワンテイクを終えてハリーが言ったという。


悲しいことに、彼の栄光が終わりを告げるときは、あっという間にやってきた。人生のほとんどで飲酒しなかったボランも、『ザ・スライダー』後にアルコールとコカインのかすみの中に迷い込んでしまった。そして、彼は人生の最後の年に、それまでのことをすべて整理して、60年代にR&Bシンガーだったアメリカ人の恋人グロリア・ジョーンズとともに、二人の間に生まれた息子ローラン・ボランを育てていた。


それから2週間後、ボランは交通事故で死亡してしまった。ボウイ、ヴィスコンティ、ロッド・スチュワートが彼の葬儀に出席した。ボウイはこう語った。「恐ろしいほど心がズタズタに引き裂かれている。彼に贈る唯一の言葉は、彼がこの世界で最も偉大な“小さな巨人”だった、だ」と。しかし、ボランのファンには、彼が自ら進んで爆弾の中に身を投じたと言う者もいる。あれから何十年を経た現在もT・レックスのスピリットが息衝いている理由はこれだ。火星のボールルームからロックの殿堂へと途切れることなく。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/32976/3/1/1

毎年マーク・ボランの命日である9月16日に「マーク・ボラン追悼~グラムロックイースター」というイベントが行われる。
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