第23話 アルゲリッチ

文字数 5,501文字

 マリア・マルタ・アルゲリッチ(1941年6月5日- )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のピアニスト。2021年現在、世界のクラシック音楽界で高い評価を受けているピアニストの一人である。

 保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された際、やすやすと弾きこなしたことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。

 5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。

 1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調とバッハのフランス組曲ト長調を演奏した。

 1955年初頭から一家でオーストリアに移住したアルゲリッチは、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーブでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。

 1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。

ショパン国際ピアノコンクールには、優勝や入賞とともに、マズルカ賞、ポロネーズ賞、ソナタ賞、コンチェルト賞という副賞が用意されている。とりわけマズルカ賞はピアニストにとって大きな意味をもち、歴代の受賞者が「とても誇りに思う」と語っている。

マズルカとは本来ポーランドの一地方「マゾフシェの」を意味するポーランド語で、ショパンは古くからこの地方に伝わる国民的舞曲をもとにして生涯50曲以上のマズルカを生み出した。そして、マズルカに祖国への思いを託したともいわれる。

作曲は少年時代から死の年まで生涯にわたっており、最初はシンプルで優雅で親しみやすい曲想をもっていたが、徐々に様式や作風が変化し、晩年のマズルカは和声や形式が充実して独創性も増している。


付点リズムを多用したマズルカは、そのリズム感覚を把握するのが非常に難しく、楽譜通りに弾くと跳ねるような感じが失われ、重くなってしまう場合がある。ショパン・コンクールに賞が設けられ、全参加者のなかからもっともすぐれたマズルカを演奏した人に賞が与えられるわけだが、ポーランド人にとってもショパンにとっても、マズルカは大切な意味合いをもっている。ショパンは折りに触れて日記を綴るようにマズルカを書き、3分ほどの短い曲のなかにあらゆる心情を盛り込んだ。

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 アルゲリッチは絶対音感の持ち主ではなく、調性を正しく認識していないこともあり、聴衆の一人から「ト長調の前奏曲」の演奏を褒められても自分が弾いた曲のどれを褒められたのか判らず、考え込んだことがある。(Wikipediaより)

ト長調は3分過ぎから。
絶対音感がある事が無条件に素晴らしい事かどうか、疑問は残る。 絶対音感にもメリットとデメリットがあるのは確かなようだ。 現代最高のピアニストとして名前が挙げられる事が多いマルタ・アルゲリッチは絶対音感を持っていない。 音を正確に記憶する事と、美しい旋律を奏でる事とは別の能力である。

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 1960年ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。

 22歳の時、中国系スイス人の作曲家で指揮者のロバート・チェンと最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に離婚。

 1965年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞も受賞した。

 1969年、指揮者のシャルル・デュトワと結婚(2度目)、後にデュトワとの間に娘が出来る。

『水の戯れ』 モーリス・ラヴェル
『トッカータ』 セルゲイ・プロコフィエフ
『舟唄』 フレデリック・ショパン

ショパン・コンクールで優勝する5年も前に名門ドイツ・グラモフォンに録音されたデビュー・アルバム。

収録曲は、ショパン《スケルツォ第3番》、ブラームス《2つのラプソディ》、プロコフィエフ《トッカータ》、ラヴェル《水の戯れ》、ショパン《舟歌》、リスト《ハンガリー狂詩曲第6番》である。

「全部を通して3回弾きます。あとはそちらで選んでください!」

とアルゲリッチは言った。合間にコーヒーをがぶがぶ飲み、煙草をパカパカ吸いながら。


聴講生たちが部屋でかけていた《水の戯れ》を、通りかかったミケランジェリが「僕のレコードかい?」と訊いたのもこのレコードである。

若さゆえの荒削りな音を必死で整えようとする制作者側(ドイツ・グラモフォン)。その手をくぐり抜けほとばしる、生命感に溢れた音。そうかと思えば、このピアノを弾いているのはどこの巨匠だ、と思えるくらいの太々しさ、そして老獪なフレージング。〝天才〟が端々から発露している名盤。

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 1970年1月、万博の年の幕開けに初来日。浜松市などの諸都市でリサイタルを開く。当時は「アルゲリッヒ」と表記されていた。

 1974年の2度目の来日の際に飛行機の中で夫婦喧嘩となり、アルゲリッチは日本の地を踏まずUターンし、離婚。

 後に、ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。

野心あふれる指揮者シャルル・デュトワがアルゲリッチに「あれを弾け、これを弾け」とワイワイ言うたびにアルゲリッチは「いやよ」と言い続けた。結果、アルゲリッチがコンチェルトで共演・録音した数はクラウディオ・アバドの方が多い。

こんなふうに、私生活では夫婦だったのに音楽家としては良きパートナーになりきれなかった2人だが、1998年にモントリオールで録音されたアルバムだけは別のようだ。しかも、この時はもう夫婦ではないから興味深い。

自分の人生から大切なものが失われていくことを経験したアルゲリッチは、もう突っかかることをやめた。匂い立つようなロマン派の香り、次の瞬間どんな光を放つか分からないアルゲリッチの輝かしい音。

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『タンゴ・パセティーク』 ペーター・キーゼヴェッター

ヴァイオリン ギドン・クレーメル 

チェロ ミーシャ・マイスキー

 ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり、室内楽に傾倒していき、世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。

 1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。

 1998年から別府アルゲリッチ音楽祭を開催している。

冒頭と3楽章にコマーシャルが入り、興が削がれます。仕方ないですが。

若き日のアルゲリッチなら、とにかくライヴ録音がいい。ソロかコンチェルトのアルゲリッチは、親の仇と戦っているようなピアノを弾く。私はこんなところでピアノなんか弾きたくないの、と叫んでいるように弾く。

ラフマニノフのコンチェルトはラジオ放送用に録音された音源で、お聴きのとおりミスタッチはそのままだし、トーンのバランスも悪い。だが、この録音のアルゲリッチは何かに取り憑かれたように時折ボッと炎が立ち上るような瞬間があり、オーケストラを引っ張り回し、死ぬほど美しい弱音を弾いたかと思うと急に全速力で走り始める。まるで、この曲を得意としたホロヴィッツの生霊から逃げ出すように。

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アルゲリッチさん、髪に触られるのを嫌うそうですが、鬱陶しくないんですかね? 片目塞がれて。
ラフマニノフの3番、どうしても『シャイン』のディヴィッド・ヘルフゴットを思い出してしまう。

伝説的なピアニストでアカデミー賞受賞作『シャイン』のモデルとなったデイヴィッド・ヘルフゴットは、小さい頃から厳格な父からピアニストになるべく英才教育を受け、神童と言われる天才的ピアニストだった。

10代で数々のコンクールで入賞し、神童と讃えられる存在となっていた。世界屈指の音楽大学、英国王立音楽大学に特待生として進学し、音楽の殿堂ロイヤル・アルバート・ホールではチケットを完売させる。そのコンサートでは、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を演奏し、大成功を収める。

しかし、直後に精神病に陥り、11年もの歳月をピアノに触れることなく陰鬱な人生を神経科病院で過す。

その後、不安定な精神を抱えながらも、ワインバーのピアニストとして働き、社会復帰への道を歩み始めていた。

そんな彼に突然人生の大きな転機が訪れた。その後、妻となるギリアンとの出会いだった。出会った翌日にプロポーズされたギリアンは、唐突な出来事に戸惑いながらも、情熱的で人懐こいデイヴィッドにだんだんと惹かれていき、深く愛するようになる。少年のようにはしゃぎ、ユーモアに溢れ、誰とでも握手しキスをしてしまいながらも時折人生哲学を語る風変わりで愛らしいデイヴィッドを愛さずにはいられなかったのだ。

愛妻ギリアンの助けを得て、デイヴィッドはコンサートへのカムバックを成功させていく。

https://unitedpeople.jp/h/about

 アルゲリッチは母語であるスペイン語の他に、フランス語、英語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語などを自在に操ることができる。

 精神的に納得できない場合は、しばしば演奏会をキャンセルすることもある。メディア嫌いで知られ、インタビューの回数は多くない。

 若い頃、職業ピアニストであることが嫌になり、語学が堪能なことから秘書になろうと思ったことがあると、インタビューで語っている。

 また、この当時は、ピアノを弾かずテレビばかり観ていたとも語っている。

ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 S.124/R.455  

フランツ・リストが1830年代から1856年にかけて作曲したピアノ協奏曲。

 3度の結婚で3人の娘をもうけたが、いずれも離婚している。子どもたちはみなアルゲリッチが引き取り育てた。アルゲリッチの3人の娘には、いずれもプロフェッショナルの音楽家はいない。

 しかし、ロバート・チェンとの間に生まれたリダ・チェンは、ヴィオラ奏者として母親と共演することがしばしばある。

 シャルル・デュトワとの娘アニー・デュトワは、アルゲリッチのいくつかのCDをはじめ、しばしばクラシック音楽のCDのライナーノートや音楽専門誌に執筆している。デュトワとの結婚生活は、デュトワがチョン・キョンファと浮気したことにより終焉を迎えた。

 ピアニストのスティーブン・コヴァセヴィチとの間に生まれたステファニー・アルゲリッチは、主にアルゲリッチのCDの表紙やドキュメンタリー映像などを撮影しているプロの映像アーティストである。

 コヴァセヴィチとの別離の後、「わたしは恋愛に向いていないと思う」と語っていたが、10歳下のミシェル・ベロフと4年間、4歳下のアレクサンドル・ラビノヴィチアと10年間、恋愛関係にあった。ロストロポーヴィチと恋仲だった旨が取沙汰されたこともあるが、アルゲリッチは「何も記憶にない」と言っている。

1980年の第10回ショパン国際コンクールの審査員であったアルゲリッチは、ユーゴスラヴィアからの参加者イーヴォ・ポゴレリチが本選に選ばれなかったことに猛烈に抗議して、審査員を辞退した。

ポゴレリチのことを「だって彼は天才よ!」と言い残して帰国した件だけが取り上げられることが多いが、アルゲリッチは「審査席に座ったことを恥じる」と述べ、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めてしまうのではなく、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。

1990年代後半ドイツで、急病のポゴレリチに代わって、アルゲリッチが登場したことがある。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を演奏した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マルタ・アルゲリッチ

2007年、アルゲリッチがボストン交響楽団との共演を急遽取りやめたときは、ユジャ・ワンが代役に選ばれた。アルゲリッチ直々の指名だった。

アルゲリッチのパートナーだったスティーヴン・コヴァセヴィッチは、ジャクリーヌ・デュ・プレの最初のパートナーだった(バレンボイムの前)。そしてそのダニエル・バレンボイムはアルゲリッチが多く競演するバイオリニストのギドン・クレーメルの最初の妻(エレーナ・バシキローヴァ)と再婚している。


アルゲリッチがシャルル・デュトワと別れたのは、彼がキョンファ・チョンと隠れて付き合っていたことが発覚したためである。

イーヴォ・ポゴレリチはショパンコンクウールで落ちた21歳の時すでにピアノの師でありずっと年長のアリス・ケゼラーゼと結婚していた。

https://hankichi.exblog.jp/16780936/

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