第49話 グレン・グールド
文字数 4,644文字
グールドはモーツァルトの音学に懐疑的で、挑発的な言動を繰り返した。
「夭折したのではなくて、むしろ死ぬのが遅すぎたのだ」と。
「これじゃ僕はつまらないんだよ。異常なくらいスローにして、ブーイングというか反応を仰いで、そうやって信じられないほど聴衆を焦らして……モーツァルトには悪いがアダージョの指定をアレグレットにして……」と語っている。
(クラシック徒然草グレングールドのモーツァルトより引用)
グレン・ハーバート・グールド(1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。
旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。
母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロントの王立音楽院に合格。
1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。
1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。
1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロントの王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。その後、
1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。
『ゴルトベルク変奏曲』を効果的に使った映画が『羊たちの沈黙』です。
レクター博士を怪演しているのはアンソニー・ホプキンスです。トマス・ハリスの原作では、ゴルトベルク変奏曲がお気に入りのレクター博士が収容された監獄で、グールドの55年盤のテープの差し入れを要求しています。
1955年1月2日、アメリカでの初演奏を行い、ワシントン・ポスト誌に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と高い評価が掲載された。続く1月11日のニューヨークでの公演で、米国CBSのディレクターがグールドの演奏に惚れ込み、翌日終身録音契約が結ばれた。グールドは、プロデューサーなどの反対を押し切り、デビュー盤としてヨハン・ゼバスティアン・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。
1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。
バッハは当時でも、もはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。
バイエルのような曲は左手が伴奏右手がメロディーのように、伴奏とメロディに分かれているものがありますが、これを『ホモフォニー』といいます。
それに対し、伴奏という形ではなく、メロディー+メロディー+メロディー・・・・
というように、2つ以上のメロディー(各声部)が絡み合いながら協和し一つの音楽になっているものを『ポリフォニー』と言います。
簡単なもので言えば『かえるの歌』ですね
かえるの歌のように同じメロディーを2小節遅れて追いかけるようなものを「カノン」とも言いますが、このかえるの歌もメロディー+メロディーですので『ポリフォニー』ですね
とにかく、同じメロディーであれ、違うメロディーであれ、伴奏という形ではなく、メロディー同士が同時に流れひとつの音楽を作っているものを『ポリフォニー』と呼んでいます。
「これは私のやりたいスタイルの演奏ではない。ミスター・グールドの意思でこうなったのだ」と、異様にテンポが遅い言い訳のようなことを言っている。(コメントより引用しました)
ベートーヴェンについて、その楽曲ごとに賛否両論を唱えたグールドは、若年より、多くの録音を残している。ベートーヴェンについても、グールドの極端なテンポ設定などの異端な解釈が賛否を呼んでいる。
グレン・グールドは稀有なピアニストだった。
演奏の巧みさ、曲の掘り下げ方、情熱の込め方も稀有だが、選曲も稀有だった。ピアニストなら必ず弾くショパンとリストの作品を全く録音していない。
全く、と書いてしまったが、正確に記しておくとする。
ショパンについては一曲、ソナタ第三番が、グールドの死後、CD化されている。放送用に作ったテープが使われているのだろうか。
リストについては、ベートーヴェンの交響曲第五番をリストがピアノ用に編曲したものがあり、これをグールドは弾き、正規のレコーディングをして発売している。
こういう次第だから、グールドが全くショパンとリストを弾かなかった、と言ったら語弊がある。でも、他のピアニストならば必ず弾くショパンとリストのスタンダード・ナンバーが、彼のディスコグラフィーには一曲もない、と言いたくなる様子はわかってもらえるだろう。
その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍時の人となった。1957年には、ソビエト連邦およびヨーロッパへの演奏旅行に赴く。
第二次世界大戦以降、ソ連へ初めて演奏旅行に赴いた北米の音楽家となったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びた。その演奏により、当時鉄のカーテンの向こう側と言われていたソ連と東欧諸国でもセンセーションを起こした。グールドは、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。
グールドは、自身の奏法について、ほとんどの点において有利であるが、「本当のフォルテが出せない」と分析していた。演奏時にはスタジオ内録音の際でも常にメロディーや主題の一部を歌いながら演奏するため、一聴しただけでグールドの「鼻歌」が聞こえ、彼の演奏と分かることが多い。レコーディング・エンジニア等が再三注意し止めさせようとしたにも関わらず、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯そのスタイルを貫いた。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができる。また、歌っていることにより、旋律がなめらかに聞こえるという者もある。
なお、猫背でかがみこむような奏法や指の独立には、その師であるゲレーロの「フィンガー・タッピング技法」の影響も指摘されている。
演奏会において正しく燕尾服を纏い観客を圧倒するパフォーマンスをみせることが優れた演奏家の当然の条件のようにいわれた時代にあって、自身の気に入ったセーターを着て特注の椅子に座って演奏するなど奇抜なスタイルで演奏会に臨んでいたグールドは、そもそも演奏会そのものに対して批判的であり、デビュー以来ライヴ演奏に対する疑問や批判を繰り返していた。
演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールドは、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引いた。これ以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場とする。
1982年9月27日、脳卒中によりトロント総合病院に緊急入院。この後、容態は急速に悪化。10月4日、父親の判断により延命措置の停止が決断され、同日死亡。遺体はトロントにあるマウント・プレザント墓地に埋葬された。墓石にはゴルトベルク変奏曲の一節の楽譜が刻まれている。50歳没。
幼い頃から不眠や情緒不安定に悩まされていたグールドは、大量の処方薬が手放せなかったと言われています。周囲とも打ち解けることができず、同年代の友人とは全く遊ばなかったそうですが、動物はこよなく愛していたそうです。グールドにとっては、他人といるよりも音楽や動物と触れ合う方が、心の平穏を保てたのかもしれません。
グールドの死後、彼の偉大なる功績を讃えてグレン・グールド賞が制定されました。日本人では、世界的作曲家の武満徹が受賞しています。
グールドは生涯独身でした。異常な神経質と潔癖から、生涯孤独であったと思われがちですが、実はそんなことはありません。ラジオ音楽を共同制作することになった、指揮者ルーカス・フォスの妻コルネリアに猛烈に恋をし、結婚を申し込んだそうです。紆余曲折あり2人は一緒になることはありませんでしたが、グールドが心から愛していたのは間違いないでしょう。
グールドの死後、仲間たちが遺品を整理していると、遺品のなかから「恋文」が発見されました。誰に宛てた物かは不明ですが、もしかしたらコルネリア宛てだったのかもしれません。
(ログインが必要です)