第8話 指揮者 岩城宏之
文字数 7,239文字
東京府にて生まれた。
小学校に入学して間もなく父の転任で京都に転居、9歳で木琴を始める。小学4年生の3学期で東京に戻る。
1945年5月、旧制中学1年生のとき空襲で罹災したため、親類を頼って金沢市に疎開、2学期間を旧制金沢第一中学校に学ぶ。
敗戦後、父の勤めの関係で岐阜県瑞浪に転居、ここで1年半を過ごし、旧制多治見中学校に通学する。
1947年、学習院中等科に編入学する。学習院高等科2年の時、映画『オーケストラの少女』を観て感動し、音楽家を志すに至る。同校在学中から放送局で木琴を独奏する。
1951年、学習院高等科を卒業する。東京大学独文学科への進学を志していたが、第二次試験の前の晩に高熱を発して受験を断念する。
現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生の終わり頃から学内規則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏し始め、授業に出ることなく1年分の単位も取得しないまま、6年間在学ののち中退。
学校には、1年後輩の友人山本直純と後輩たちに声を掛け合って集めた学生オーケストラを指揮するために顔を出す一方で、山本とともに東京芸大指揮科教員渡邉暁雄の音羽の自宅や目白の齋藤秀雄指揮教室にたびたび通って指揮のレッスンを受けた。
この楽章では楽器編成にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが加わる。そのため色彩的な管楽器が増強され他の楽章に比べて響きが非常に華やかになっている。
「暗から明へ」における「明」の絶頂で華やかに曲を閉じる。ベートーヴェンの交響曲は比較的あっけない音で終わることが多いが、この第5では執拗に念を押し、彼の交響曲の中では唯一「ジャーン」とフェルマータの音で終わる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/交響曲第5番_(ベートーヴェン)
「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、『お父さまにタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれたのヨ』なんて追っ払われたことが何度もある」と語っている。
学生時代から、各所の音楽ホールに忍び込み、観客席ではなく舞台裏などで音楽を聴くことを繰り返していてブラックリスト扱いになっていた。
指揮者を正面から見るために、舞台上の管楽器用のヒナ段の中に忍び込んでコンサートを聴くこともたびたびであった。
数々の悪行から、後年、岩城が指揮者に就任したのちも、舞台関係者に誤って不法侵入者扱いされたことがある。
ベートーベン交響曲第6番『田園』第4楽章
交響曲第6番 ヘ長調 作品68『田園』は、ドイツ出身の古典派音楽の作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年 - 1827年)が1808年に完成させた6番目の交響曲。 演奏時間は約39分(第1楽章:11分、第2楽章:13分、第3楽章 - 第4楽章 - 第5楽章:15分)
古典派交響曲としては異例の5楽章で構成されており、第3楽章から第5楽章は連続して演奏され、全曲及び各楽章に描写的な標題が付けられるなど、ベートーヴェンが完成させた9つの交響曲の中では合唱を導入した交響曲第9番と並んで独特の外形的特徴を持つ。
また、徹底した動機展開による統一的な楽曲構成法という点で、前作交響曲第5番(作品67)とともにベートーヴェン作品のひとつの究極をなす。
第6交響曲は、ベートーヴェンの交響曲の中で標題が記された唯一の作品である。ベートーヴェンが自作に標題を付した例は、他に「告別」ピアノソナタなどがあるが、きわめて珍しい。
また、各楽章についても次のような標題が付されている。
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
NHK交響楽団初代事務長有馬大五郎からの誘いと推薦により、1954年(芸大4年)の9月から同楽団指揮研究員として副指揮やライブラリアンの仕事を始め、1960年の同楽団世界一周演奏旅行では常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター、指揮研究員同僚の外山雄三とともに指揮者陣の一人として同行、ヨーロッパ・デビューを果たす。
これが機縁となり、1963年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれてオール・チャイコフスキー・プログラムを指揮した。
1970年の日本万国博覧会開会式では、NHK交響楽団が当日の式典での楽曲演奏を担当したが、その指揮をしている。
1977年、急病のベルナルト・ハイティンクの代役として、日本人として初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の指揮台に登り、ベルリオーズの幻想交響曲他を指揮した。
翌シーズンのウィーン・フィル定期にも登場、バルトークの管弦楽のための協奏曲他を指揮した。
そのほか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台にも立った。
交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲。『英雄』のほか、イタリア語の原題に由来する『エロイカ』の名で呼ばれることも多い。
ベートーヴェンの最も重要な作品のひとつであると同時に、器楽音楽による表現の可能性を大きく広げた画期的大作である。
フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンのナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。
しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは「奴も俗物に過ぎなかったか」とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている。
第4楽章フィナーレ
変ホ長調。4分の2拍子。自由な変奏曲の形式。パッサカリアであるという指摘もある。
主題と10の変奏による。ただし、第4、第7変奏については、ソナタ形式における展開部の様相を示すため、変奏に数えず変奏と変奏の間の間奏のような形で捉えることもある。第10変奏もコーダの様相を示すため、変奏に数えないことがある。
なお、第4楽章の主題はバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲から転用している。ベートーヴェンは他にもこの主題をピアノのための変奏曲(通称:エロイカ変奏曲)にも用いているが、この曲以降この主題を用いた楽曲を書いていない。
同様の公演は、翌2005年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。なお、2回目の公演では健康面に配慮して途中1時間の休憩時間を設けたり、医師を聴衆として立ち会わせ、休憩時間に体調チェックを行ってプログラムを消化していった。
この演奏会はインターネットでもストリーミング中継された。
しばしばオーケストラのコンサートなどで、オペラとは独立に演奏される。ただし、オペラでは合唱を伴うが、演奏会では合唱のパートを省略することが多い。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/だったん人の踊り
ピアニストの木村かをりは妻。
指揮活動のほかにも、打楽器奏者としての演奏活動、テレビ・ラジオへの出演、プロデューサー、音楽アドバイザー、執筆など多彩な活動を行った。
また、東京芸術大学指揮科客員教授として後進の育成にも当たった。
スケルツォ形式によるオーケストラのための幻想曲だが、演奏に5分とかからない文字通りの小品である。
ストラヴィンスキーが作曲家として名を揚げる上で役立ったが、成熟期の代表作として認められてはいない。
その後の作風に比べると、大部分において非常に調的ではあるものの、複調的な響きも仄めかされている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/花火_(ストラヴィンスキー)
メルボルン交響楽団時代にストラヴィンスキー作曲『春の祭典』の演奏で振り間違えたことがある。
テレビ・コンサートの公開収録中、並の指揮者なら混乱しつつも何くわぬ顔で演奏を続け、自らの責任を回避しようとするところであるが、岩城はあえて演奏を中断し、聴衆に向かって指揮を間違えたことを詫びた。
異例の事態に聴衆も楽員も凍りついていたが、テレビ用に編集しやすい部分をコンサートマスターと相談し、楽員全員に演奏再開の箇所を告げた。
すると聴衆だけでなく楽員からも大拍手が沸き起こり、岩城に対する同楽団の信頼はより固いものになったという。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲
OE金沢のコンマスを務めるダウスの独奏による協奏曲。
日頃統率しているオケとの協演だけに,双方とも「物分かりが良すぎ」て駆け引きの緊張感には少々欠けるが,一方で仲間との室内楽を愉しむような寛いだ味わいは捨て難い。神経を休めたい時に聴こう。
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
チャイコフスキーほど初演につまずきのあった人も少ない。
(中略)この曲(チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲)など、今日傑作として知られている彼の作品の初演の時の評判はさっぱりだったのである。彼はそれだけ、その当時の聴衆の感覚よりも、50年先、100年先を先取りした作曲家だったといえよう。
この曲は、(中略)民族的な情感こそが、この曲の最大の魅力なのである。ことに、カンツォネッタ(小さい歌)と題された第2楽章にただようスラブ的憂愁の美しさは、比類がない 。
出典:志鳥栄八郎 著 「不滅の名曲はこのCDで」p216より引用
しかし、2006年5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後に体調を崩して入院し、同年6月13日午前0時20分、心不全のため都内の病院にて没した。73歳没。
これは指揮を乗馬になぞらえたもので、ドライブとは手綱を絞って強引に馬を従わせること、キャリーとは手綱を緩めて馬の自由に任せながら、騎手の意図した進路に馬を導くことだという。
世界で活躍する日本のスポーツ選手の応援に熱心であり、音楽監督を務めるオーケストラ・アンサンブル金沢で石川県出身の松井秀喜選手の応援歌を企画していた。
亡くなる直前には骨折で離脱した松井へエールを送っており、これが岩城が生前に出した最後の手紙だった。
なお、岩城の企画した応援歌は2006年に、公式応援歌『栄光(ひかり)の道』(作詞:響敏也・作曲:宮川彬良)として成就した。
著書も多く、楽器運送業に関する執筆のために、実際に運送会社で働いたこともあった。あるハープ奏者がハープの運搬を依頼したところ、業者と一緒に岩城が現れ、依頼主は大いに驚いた。
1987年 独眼竜政宗
作曲:池辺晋一郎 指揮:岩城宏之 演奏:NHK交響楽団
N響正指揮者の称号を贈られた1969年10月、岩城はN響史上画期的で大胆な試みを持った定期公演を2度にわたり指揮をした。
2つのプログラムは当時の先端をゆく日本の作曲家の現代作品だけで構成され、岩城はこの手の演奏会に対して「一度やってみたかった」と「強行することに対する不安」の2つの相反する気持ちを持ち合わせつつ指揮台に上がった。
事件は10月29日の第531回定期公演で起こった。
三善の『管弦楽のための変奏曲』が終わった直後、岩城は指揮台を降りて観客に対して次のように言った。
「お義理で拍手するのはやめてほしい。つまらないと思ったらヤジってけっこうです。よいと思ったら盛大に拍手してほしい」
続く武満の『テクスチュアズ』の演奏が終わったあと、岩城は再び観客に対して「ああいうことをいったからといって、そう拍手してくれなくても……」と二度にわたり語った。
岩城によれば、第530回定期公演は「反響も大きく、僕自身も実に感動した」内容であった。
その流れで第531回の指揮台に上がったところ、第1曲の柴田『シンフォニア』の演奏に対する拍手が「儀礼的で、冷たい」と岩城は感じた。
2曲目の三善『管弦楽のための変奏曲』は「演奏困難なくらいむずかしい」作品であったが、この時は「うまくいった」。
岩城はコンサートマスターの田中千香士に「うまくいったね」という意味合いで笑顔を返したところ、観客が「曲が終わっていない」と勘違いしたのか拍手を止めてしまった。
このハプニングに岩城は「演奏家のわがままをいわせてもらえば哀しかったんです」。
岩城が「お義理で拍手するのは……」と言ったのにはそのような背景があり、次の『テクスチュアズ』終了後の拍手に対して思わず「ああいうことを……」と言ったのであるが、岩城自身はこれについては「まったく余計だったと思います」と反省し、さらに演奏会終了後には一連の「演説」について「ああしたことはいうべきでなかったか、と苦しんだ」という。
観客の反応としては1つ例を挙げるなら、女性会員の一人が「ああいう曲になれていないから、曲がどこで終わるものかわからない、あの場合は、多くの人が拍手するタイミングを逸してしまったのではないか」、「邦人作品は必ずしも慰めやら憩にはならないのではないか、プログラムのうちに1曲ぐらいだったら我慢もできるが、全曲ではとてもかならわない」といった趣旨の感想を述べた。
ほかにも「岩城は不遜だったのではないか」という趣旨の厳しい意見や、逆に岩城の発言や意思を理解して擁護する意見も寄せられた。
岩城の「演説」に関する論争はN響会員の間のみならず、やがて週刊誌も取り上げるほどの話題となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E5%AE%8F%E4%B9%8B
からの引用です。
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