第17話 ママ、あなたは……

文字数 5,010文字

吉幾三が歌っていたが、『吾亦紅』は別の人の歌……

「吾亦紅」(われもこう)は、作曲家である杉本真人が歌手・すぎもとまさととして発表した楽曲。

2007年2月21日発売。

ちあき哲也(作詞)杉本眞人(作曲)

第49回日本レコード大賞・作詩賞

2008年度年間13位(オリコン、総合チャート)

登場回数102回(オリコン)

母を亡くした杉本が深く落胆している時に、杉本の母と文通していたちあき哲也が「吾亦紅」を制作。ちあきに杉本が「『吾亦紅』は何と読むのか?」と質問すると、ちあきは「われもこう」と回答したという。ちあきの詞に杉本が曲を付けて自ら歌っている。

2007年「第58回NHK紅白歌合戦」に初出場。58歳8ヶ月での初出場は、日本人男性ソロ歌手としては最年長記録(当時)になる。これをきっかけに、すぎもとの歌手・作曲家としての認知を広げた曲。


初回発売枚数はわずか258枚だったが、2007年3月に北海道のSTVラジオに於いて公開生放送の弾き語りライブをオンエアしたところ、放送中にもかかわらず問い合わせが殺到。徐々に人気を博し全国に飛び火した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E4%BA%A6%E7%B4%85_(%E6%9B%B2)

母を歌っている歌を思い出してみました。

古い歌ばかりですが。

「秋桜」(コスモス)は、1977年10月1日にリリースされた山口百恵の楽曲で、19枚目のシングルである。「日本の歌百選」に選ばれている。

作詞・作曲 さだまさし


1977年当時、山口百恵は阿木燿子・宇崎竜童によるいわゆるツッパリ路線の楽曲で売り出していたため、本作をリリースした際には山口に対し「なぜ、さだの曲を歌うのか」という疑問の声が多かった。また、さだファンからも「なぜ山口の歌を作るのか」という反響もあったという。さだは、山口には日本的な女性らしい面があるのではないかと考え、あえてそれまでのイメージを一変させるような曲作りを行ったという。

第19回日本レコード大賞では、本曲によって山口は歌唱賞を、さだは作詞で西条八十賞を受賞した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%A1%9C_(%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%99%BE%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%9B%B2)

角川プロデューサーの意向で、プロ・アマ問わず賞金500万円でシナリオを公募という日本映画史上初の試みを敢行した結果、大ベテラン脚本家の松山善三の応募作が入選。

同様に、映画本編の中でストーリーのカギとなる黒人青年ジョニー・ヘイワード役も公募が行なわれ、「20~30歳のやや細身の男性、身長165~175cm、多少の英語ができること」に該当する310名の応募者の中から抜擢され、賞金(出演料)100万円を獲得したのがジョー山中だった。

ジョー山中こと本名・山中明は、1946年9月2日アフリカ系米国人の父と日本人の母の間に横浜で生まれた。

66年にはGSの「4・9・1」にツイン・ヴォーカルの片割れとして参加。日本人ばなれした“声”とパワフルなシャウティングで注目を集めた。


ロック・シンガーとしてのキャリアを活かして主題歌も担当。劇中で重要なポイントとなる西條八十の詩「帽子」を角川春樹が英訳し、ジョーが歌詞に仕上げたものに、本編の音楽監督である大野雄二が曲を付けて誕生した主題歌「人間の証明のテーマ」は、映画公開の2カ月前となる1977年8月10日にリリースされた。同曲をバックに「帽子」の一節を読み上げる印象的なナレーションを用いたスポット広告が、 映画公開前からテレビ、TV・ラジオで大量に流されたことも功を奏して、オリコン・チャート第2位にランクされる大ヒットを記録した。


それまで知る人ぞ知る存在だったジョー山中の名が広く世間一般に認知され、大ブレイクする記念碑的作品となったわけが、発売直後に大麻取締法違反容疑で逮捕。「人間の証明のテーマ」がテレビのベストテン番組で1位になったことを知ったのは留置場の中であり、もちろん彼が番組に出て歌うことも無かった。半年以上に亘る活動停止を余儀なくされるものの、翌78年5月30日には日本武道館で初のソロ・コンサートを開催。アンコールで「人間の証明のテーマ」を熱唱し、約1万人の観衆を魅了した。


2011年8月7日、肺がんのため逝去。享年64歳だった。

https://www.diskgarage.com/digaonline/column/75222

人間の証明 公開 1977年10月8日

松田優作・岡田茉莉子・ジョージ・ケネディがそれぞれ黒歴史を持つ人物を演じ、日本映画で初めて本格的なニューヨークロケが行われた。


映画公開時に用いられた有名な台詞「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」は西條八十の詩がオリジナルであり、劇中でも語られている。ジョー山中が歌う「人間の証明のテーマ」もヒットし、ベストテン入りを果たしている。また映画公開に合わせ、文庫フェアも行われ、森村誠一は一躍ベストセラー作家に躍り出た。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E

『おが』は秋田弁でおかあさん。

歌詞がヒットしません。

「9ツ」は、子の刻0時。午前1時を「9ツ半」、丑の刻午前2時を「8ツ」??

聞き取れない。わからない。

『覚』(さとる)はかずきの弟。31歳で鉄道自殺している。

ママに捧げる詩(Mother of Mine)

この曲は1971年、当時12歳の少年、ニール・リードが歌って世界中でヒットした曲です。この12歳の少年の歌唱力に驚かされたものでした。

ニール・リードはスコットランド生まれで8歳の時に歌手として見出されました。そしてこの曲でイギリスのアルバムチャート1位の最年少記録を樹立しました。しかし2枚目のアルバムをリリースした2年後には声変わりで歌うのが困難になり歌手を辞めました。現在は金融関係の仕事をしているようです。

https://lynyrdburitto.hatenablog.com/entry/2020/06/07/153000

親元から引き離されてアフリカからアメリカへ連れて来られ、もう二度と生きて母親には会えないという過酷な運命を改めて顧みながら、その境遇が時々「母のない子のように」感じられると嘆き悲しむ黒人労働者たち。

歌詞には「A long ways from home」、すなわち「故郷アフリカから遠く離れて」とあるが、この「home」が意味する所は決して現実世界の生まれ故郷の意味だけではなく、彼らにとって唯一の心の支えでもある主イエスの御許、人間界での苦役を終えて魂が帰る安息の地を意味しているようにも思われる。

過酷な労働と劣悪な生活環境に晒され、黒人労働者たちは幾度も生死の境をさまよいながら、栄養状態も悪く痩せこけた体に鞭打ってひたすら労働を続ける。ついに「くたばる直前(I feel like I'm almos' gone)」までに至れば、死ぬほど苦しんだ過酷な運命も「もうすぐ終わりだ Soon-Ah Will Be Done」となるのだろうか。

https://www.worldfolksong.com/songbook/spiritual/motherless-child.html

「時には母のない子のように」は、1969年2月21日に発売された、カルメン・マキのデビュー盤シングル・レコードである。

作詞:寺山修司 作曲:田中未知

チャート最高順位

1969年度年間9位(オリコン)

寺山修司が主宰する劇団「天井桟敷」に新人女優として入団したカルメン・マキのデビュー曲として企画され、リリースされた。

作詞の寺山は、本作を作るに際してゴスペルソングとして有名なSometimes I feel like a motherless child(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得たとされている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%AF%8D%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB

岩壁の母

作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、1954(昭和29)年、テイチクレコードから発売され、100万枚を超える大ヒットとなる。

歌:二葉百合子。 1972(昭和47)年にはキングレコードから再発売。歌詞の合間に室町京之助作の台詞を加えたものを二葉百合子が歌い、300万枚を超える更なる大ヒットとなった。

https://www.umeshunkyo.or.jp/204/255/index.htm

ちあきなおみさんの歌で。

「岸壁の母」とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。


端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)。

明治32年9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫、端野清松と一人娘とともに居住していたが、昭和5年頃に夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。


終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。


しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年8月のことであった。


ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。

新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。旧満州の関東軍陸軍石頭予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている。


端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉百合子が証言している。


平成12年8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%AF%8D

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色