第30話 シベリウス
文字数 7,222文字
フィンランドを代表する作曲家として知られるシベリウス(1865〜1957)は,ドイツやロシアなどの作曲家から大きな影響を受けながらも,フィンランドの伝統や自然に根ざした作品の創作に力を注いだ人物です。
幼いころからピアノやヴァイオリンを学び,また作曲も独学で身につけたシベリウスは,やがてヘルシンキ音楽院に入学し,さらにその後ベルリンとウィーンに留学して,音楽家としての確かな技術を身につけました。
デビュー作「クレルヴォ交響曲」で注目を浴びたシベリウスは,ヘルシンキ音楽院で作曲とヴァイオリンを指導する一方で,交響詩「フィンランディア」などの 作品を発表し続け,やがては国の年金を受けて作曲活動に専念するようになりました。
フィンランドの民族的な要素を素材としたシベリウスの作品は,当時ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド国民によって支持され,彼は国民の英雄として尊敬を集めました。また,海外にもたびたび足を運び,自作の演奏会を開いて大きな成功を収めました。
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47は、ジャン・シベリウスが作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲である。1903年に作曲されたが1905年に改訂され、これが現行版となっている。
1904年に初稿版で初演が行われたが結果は芳しくなく、
「美しい部分が多々あるものの、全体として冗長である」
という評価が多かった。
初演後の1905年にブラームスのヴァイオリン協奏曲を初めて聴いたシベリウスは、自らの協奏曲よりもさらに徹底してシンフォニックなこの作品に衝撃を受け、本作を現在我々が耳にする形に改訂したのだった。
それは独奏楽器の名技性を抑えて構成を緊密化、凝縮し、より交響的な響きを追求したオーケストレーションへと変更したものである。
庄司 紗矢香(しょうじ さやか、1983年1月30日 - )は、東京都国分寺市出身の、日本のヴァイオリニスト。
画家である母の留学に伴い、3歳からシエーナ(イタリア)に移り、2年間を送る。最初ピアノを習っていたが、キジアーナ音楽院のコンサートでヴァイオリン演奏を見たことがきっかけとなり、5歳からヴァイオリンを始めた。
帰国後、国分寺市内の小学校に進み、1994年、6年生の時に第48回全日本学生音楽コンクール東京大会、全国大会で第1位を獲得した。
1997年、14歳でリピンスキ・ヴィエニヤフスキ国際コンクール・ジュニア(17歳未満)部門で日本人として初めて優勝。
1999年、第46回パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールに同コンクール史上最年少、かつ日本人として初めて優勝した。
2000年、ズービン・メータにその才能を認められ各地でオーケストラと協演、ドイツ・グラモフォンと専属契約を結んだ。その後ロリン・マゼール、ウラディーミル・アシュケナージ、シャルル・デュトワ、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ネヴィル・マリナー、チョン・ミュンフンなどと共演。ヨーロッパを中心に、日本、アメリカ、南米、ロシア、イスラエルで定期的に活動している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%8F%B8%E7%B4%97%E7%9F%A2%E9%A6%99
シベリウスはフィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。
フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。
演奏会ではチャイコフスキーの『1812年』に変わり、『フィンランディア』が演奏されるようになっているようです。
シベリウスの有名な作品である交響詩「フィンランディア」は、映画『ダイ・ハード2』の中で、ストーリーに合わせて効果的に流れていた音楽です。フィンランド出身のレニー・ハーリン監督にとって、主人公が果敢にテロリストと戦う姿と、「フィンランディア」が結びついていたんでしょうね。
シベリウスは20世紀を代表する大作曲家で、名曲もたくさんあるが、もっとも有名なのは、
重苦しく始まり、激しい戦いのような部分を経て、最後は晴れやかな賛歌が歌われる。
この曲が書かれたのは1899年、当時のフィンランドはロシアの支配下で圧政に苦しんでいた。そんな状況でこの曲は、単なる音楽作品を超えた民族意識の象徴となる。
ロシア政府はこの曲を警戒し、なんとか演奏をやめさせようとした。しかし演奏家たちは、たとえば《フィンランドの春が目覚めるときの幸せな感覚》だとか《スカンジナビア合唱行進曲》とか、別の名前でプログラムに載せることで、ロシアを出し抜いた。
やがて、この曲の最後に出てくる賛歌のメロディは歌詞を付けられて歌われるようになり、フィンランドが独立国となった現在でも第2の国歌として親しまれている。
https://ontomo-mag.com/article/column/suomi-japan-100-year-sibelius/
『フィンランディア賛歌 』は作曲家シベリウスによる
交響詩『フィンランディア』の一部のメロディを合唱向けに編曲したフィンランド愛国歌で、
フィンランドの第2の国歌としても愛唱されています。
歌詞自体は古いもので、1752年にドイツの修道女カタリーナ・シュレーゲル(1697–1768)によって作詞されました。
それが1855年に『Be Still, My Soul』のタイトルで英訳され、1932年にアメリカ長老派の歌集
「The Hymnal」に掲載され広まったそうで、この歌詞を『フィンランディア』のメロディに当てはめる際は、
作曲者であるシベリウス本人に編曲を直接依頼したそうです。
https://blog.goo.ne.jp/yuyumitake/e/20a3a774b7560d789ea65c35033a2446
讃美歌298番
1) 安かれ我が心よ 主イエスはともにいます
いたみも苦しみをも おおしく忍びたえよ
主イエスのともにませば 耐えぬ悩みはなし
2) 安かれ我が心よ 波風猛るときも
父なるあまつ神の み胸に委ねまつる
み手もて導きたもう 望みの岸はちかし
3) 安かれ我が心よ 月日のうつろい無き
み国はやがて来たらん 憂いは永久(とわ)に消えて
輝くみ顔仰ぐ 命の幸(さち)をぞ受けん
フィンランドは19世紀初頭からロシアに支配されていたが、ある程度の自治は認められていた。ところが1898年にニコライ・ボブリコフがフィンランド総督に任命されると、自治権の廃止、ロシア語の強制、フィンランド軍の廃止など、ロシアはフィンランドに対する圧政を強める。
フィンランドでは、これに抵抗する機運が高まる。総督ボブリコフは1904年にフィンランドの青年オイゲン・シャウマンによって暗殺されるが、この時期はフィンランドにとって非常に暗い時代だった。
ボブリコフ時代のあるとき『報道の記念日』というイベントが行なわれた。これは、ボブリコフが反ロシア的な新聞のいくつかを発行禁止にしたことに反発して行なわれたもので、その目玉のひとつが『歴史的情景』という、フィンランドの神話時代から現代までの情景を描く舞台劇だった。
シベリウスはこの音楽を担当したが、特に人気を集めたのが、最終場面〈フィンランドは目覚める〉だった。この伴奏音楽に手を加えて独立した曲としたのが《フィンランディア》だ。この劇音楽からは、別の3曲も組曲としてまとめられている。これが
祝祭(ボレロ)
組曲「歴史的情景」第1番は、1899年に上演された民族的歴史劇ための音楽から3曲を抜粋・編曲したもので、以下の3楽章から成る。
1.序曲風に 2.情景 3.祝祭
ちなみに、この劇音楽の終曲は交響詩「フィンランディア」に編曲されました。
知名度は低いとはいえ、いかにもシベリウス的な魅力的な音楽。
(クラシック音楽日記より)
『ロマンス』は初期の「ピアノのための10の作品集 Op.24」の第9曲で、ウィーンからの帰国後に結婚した妻アイノへの想いが込められていると言われています。
ピアノ曲ですが重厚感がありスケール感のある作品で、交響曲大家シベリウスならではの、オーケストラ曲のスケッチともとれるような趣きが感じられます。
https://music-specialty.com/classic/category89/entry3002.html”5つの小品 作品75”第5曲「モミの木」
5つの小品は、1つ1つの曲の全てに樹木の名前がつけられていることから、「樹の組曲」とも言われています。
「モミの木」は、常緑樹で、一年中、葉が枯れることなく青々と茂り続けることから、「永遠の命」の象徴とされていて、クリスマス・ツリーにも使われるようになったそうです。
しかし、シベリウスは、クリスマス・ツリーの華やかなイメージではなく、長く厳しい冬の大地に根を張り、風雪に耐えながら、緑の葉を絶やすことなく立ち続ける「モミの木」の力強い姿を表現しています。
短い小品ではありますが、ミステリアスなアルペジオで始まる序奏の後、憂いをたたえつつも、深く力強く歌うテーマが始まります。
中間部はcadenzaのような長いアルペジオのパッセージが続き、まるで厳しい風雪がモミの木に吹きつけているかのようです。
しかし、再びテーマが戻ってくると、堂々と立つモミの木の姿がよみがえってきて、演奏を終えた後には、不思議と心が温まるような余韻が残ります。
ピアニスト
Clare Hammond (クレア・ハモンド)。イギリスの女性ピアニスト。1985年生まれ。
ケンブリッジのエマニュエル・カレッジで学び、音楽でダブル・ファースト(卒業試験2科目で最優秀)を達成した。
その後、ギルドホール音楽演劇学校でRonan O'Horaのもとで大学院課程を修了。また、ロンドンのシティ大学でDMA(Doctor of Musical Arts)を取得。ヨーロッパ各地のコンサートホールやフェスティバルで演奏しており、BBCラジオ3やその他のヨーロッパのラジオネットワークで定期的に放送されている。
2016年にはロイヤル・フィルハーモニック・ソサエティのヤング・アーティスト賞を受賞。現代音楽では、ロバート・サクストン、ケネス・ヘスケス、エドウィン・ロクスバーグ、ジョン・マッケイブ、アーリーン・シエラなどの作曲家の主要作品を世界初演している。
2014年にはワルシャワで開催された「Chopin and his Europe Festival」に出演。BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団(マーティン・ブラビンス)とケネス・ヘスケスの『Uncoiling The River』を世界初演し、2019年にはスウェーデン室内管弦楽団(ニコラス・マクゲガン)との『マイスリベチェクのキーボード作品全集』をBISレコードからリリースした。ブロツキー、エンデリオン、バドケのカルテットや、ヘニング・クラッゲルード、アンドリュー・ケネディ、ジェニファー・パイク、ローレンス・パワーなどのアーティストと共演している。
「悲しきワルツ (Valse Triste)」Op.44-1
『クオレマ』(Kuolema)という戯曲の劇付随音楽として作られた曲の中の1曲で、クオレマ(フィンランド語)は、「死」を意味します。
主人公の母が、病床にありながらも踊り出し、死神が訪れ、死んで逝くまでを音にしたもののようです。
が、重々しい冷ややかな空気に包まれた中に美しさを持つとても不思議な曲です。
テンポ、曲調の変化があり、短い曲の中に色々なものが見えてくるようです。
Boris Giltburg (ボリス・ギルトブルグ)。イスラエルの男性ピアニスト。1984年生まれ。
ロシアのモスクワでユダヤ人の両親のもとに生まれる。5歳の時に母の指導でピアノを始める。イスラエルに移り、1995年から2007年の間アリエ・ヴァルディに師事。
2011年にアルトゥールルービンシュタイン国際ピアノコンクールで第2位。
2013年のエリザベート王妃国際コンクールで優勝。演奏活動、録音活動ともに精力的に取り組んでいる。フィルハーモニア管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、デンマーク放送交響楽団、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ボルティモア交響楽団などの一流オーケストラと協演。
ラフマニノフ自身が大ピアニストでしたので、スラー一つで魔法にかけることができるとわかっているような曲です。
スラーは呼吸を表すことが多いですが、様々な息の吸い方があるはずです。
新鮮な空気をいっぱいに吸う時もあれば、花の香りをそっと嗅ぐような時もあります。それはピアノに命を吹き込むことでもある……
超絶素敵なギルトブルグの演奏です。
ギルトブルグは姿勢が悪いのではありません。肩甲骨のあたりに筋肉がしっかりついているのだと思います。直接お会いすると、歩く姿はバレリーナかと思うくらい美しいです。
https://blog.goo.ne.jp/pecorin1117/e/c23e2640950f8d904c3dbf218b090395
パリ演奏旅行の成功によって音楽以外の事で忙殺され、彼は神経を消耗し、憂鬱症に陥り、耳の疾患にも罹り、アイノラ荘へ転居します。
こうした心身の危機からの脱却のために、静かな田園での生活が必要だったのです。
そんな不遇の生活をしてきた晩年のシベリウスでしたが、ついに最後の日を迎えます。音楽家としては不遇の辛い晩年でした。
シベリウスは1957年、脳出血を発症し、91年の生涯を終えました。葬儀は国葬として行われ、彼は自宅の庭に葬られます。
妻アイノは彼が亡くなった後、12年間アイノア荘で過ごしました。彼女が亡くなった後は、夫の隣に葬られ、今でも2人並んで永眠しています。
シベリウスは偉大な作曲家でした。フィンランド人は今でも祖国の生んだ大作曲家シベリウスを誇りにしています。
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