第22話 フォークその後
文字数 7,394文字
1970年代のフォークソングは自らの内面を吐露したものが多く、私たちが人間である以上、失うことができない感情を歌い上げているものが多い。齢を重ね、青春などとは疎遠になった今も、なんだか当時の風を感じさせるのはそんなとこだろう。
「花嫁」は、はしだのりひことクライマックス名義のファースト・シングル。1971年1月10日発売。
ギターのイントロから始まる、1970年代フォークソングを代表する楽曲のひとつ。ヴォーカルは、藤沢ミエで、このギターは石川鷹彦が弾いている。
1971年2月15日・22日付のオリコン週間ヒット・チャートで2週連続第1位を獲得したほか、年間ヒットチャートで第7位を記録した。累計売上はミリオンセラーを記録。
歌詞は花嫁が「帰れない 何があっても」「何もかも捨てた」と誓い、花嫁衣装もなく、夫になる人の元へ夜汽車で1人で旅立つ内容であり、駆け落ちを描いたものである。駆け落ちはそれまでテーマ的に暗いものとされ、演歌の題材にはなっていたが、それをさわやかで明るく前向きに表現した衝撃的な作品と評された。「花嫁」の詞は北山修が書いたものとは別にもうひとつあり、レコーディング時に、はしだから突然知らされた北山は驚いたが、こっちでも歌入れさせてくれと懇願され、歌入れ後どちらの詞を選ぶか、もめていたところ、たまたま遊びに来ていた岡林信康が北山版を気に入ったことから決まった。
このことがきっかけで、北山とはしだは30年近く仲違いしていたが、はしだが入院時に、この件について北山に詫びたことで和解することになったと、『週刊現代』2019年3月9日号の「週現『熱討スタジアム』」で北山が告白している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/花嫁_(はしだのりひことクライマックスの曲)
1971年にヤマハ音楽振興会主催「第二回世界歌謡祭」選考の「第三回合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル(司会は永六輔)」が三重の合歓の郷・ヤマハのリゾートで行われた。
小室等率いる六文銭と上條恒彦は別々にエントリーしていたが、キングレコード・ディレクターの三浦光紀が、小室等にそれぞれ1曲ずつ作曲を頼んでいたものの、当日までに1曲しか仕上げられなかったことから、急遽一緒に組んで上條恒彦+六文銭として参加することになった。
「出発(たびだち)の歌」の作詞は、元々はかぜ耕士が書く予定だったが、「体調が悪くて書けない、降ろしてくれ」と連絡が来たことから、及川恒平が「出発の歌 -失なわれた時を求めて-」というタイトルで詩を書き、会場に向かう新幹線の中で、手直しして完成させた。
なお、詩の構想は上條恒彦が1年前からあたためていたもの。
フォーク+ロック・リズムに仕立てた小室等の曲は前日にやっとでき、編曲の木田高介を同行、これも新幹線の中でアレンジさせ、六文銭が写譜し、会場へ来てはじめて音を出した。
赤い鳥、トワ・エ・モア、弘田三枝子、中尾ミエ、沢田研二、伊東ゆかり、ピンキーとキラーズ、ブルー・コメッツといった出演者に交じると場違いに見え、とてもグランプリになんか取れそうもないと、みな諦めていたが、結果グランプリを取った。
パーティーが終わって、宿泊所である合歓の郷の大部屋で、みんなで雑魚寝して呑んでいたところ、夜中の二時くらいに作曲家の中村八大が来て、1時間くらい一緒に呑んでつきあってくれた。
小室等は、この八大から受ける言葉を一言も聞き漏らすまいと酒の酔いと戦っていたという。その中で
「いい編曲だけど、後半はもう少し手を加えたほうがいい」
と八大はアドバイスした。
「だったら八大先生、補編曲をしてください」
と木田が言ったところ、快く引き受けてくれ、大きくは違わなかったものの、続く11月27日に日本武道館で開催された第二回世界歌謡祭ではこの編曲で演奏し、こちらもグランプリを受賞した。
世界歌謡祭の反響は大きく、この「出発の歌」は、シングルレコードとして発売され、累計で70万枚を売り上げた。
この年の紅白歌合戦にも、この「出発の歌」で出場している。
1974年に音楽之友社が発行する高等学校の音楽教科書に「出発の歌」が掲載された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/出発の歌
「あの素晴しい愛をもう一度」は、北山修が作詞、加藤和彦が作曲し2人の連名で発表した歌曲。
1971年4月5日にレコード発売。
「あの素晴らしい愛をもう一度」と誤って表記されることが多い。
2002年のザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)新結成のときも「素晴しい」とクレジットされた。
もともとはシモンズのデビュー曲として用意され、作曲を依頼された加藤・北山コンビが、加藤が作曲に1日、北山が作詞に1日で作り上げたという。
加藤は北山から送られてきた歌詞を見て北山に電話をし「最高だよ最高」とはしゃいだと、北山が加藤の追悼文に記している。
結局、シモンズには別の曲「恋人もいないのに」が用意され、この楽曲は加藤と北山で歌うことになった。
この曲のオリジナル録音(1971年)のきっかけは、東芝音楽工業がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人にはたらきかけたものであるとされる。
当時、フォークルの再結成はあり得ないと明言していた2人は、ジャケットでもカメラを全く無視している。これには東芝に対する抗議の意味を込めていると加藤・北山ともに当時のラジオ番組で語った。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/あの素晴しい愛をもう一度
「サルビアの花」は、相沢靖子が作詞し、早川義夫が作曲した楽曲。1969年に発表された早川のソロ・デビュー・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』に収録され、後に1972年に、もとまろ、岩渕リリ、鳳蘭などによるカバーが、各社競作のシングルとしてリリースされた。
「サルビアの花」は1971年に、当時はプロを対象としたコンテストだったヤマハ音楽振興会主催のヤマハポピュラーソングコンテストの前身'71作曲コンクールで、オフコースの歌唱により入賞した。
さらにその後、ラジオ番組『コッキーポップ』を通して紹介され、広く知られるところとなり、1972年に多数のカバーが制作される契機となった。
『コッキーポップ』で「サルビアの花」が広く知られるようになると、レコード各社は競ってカバーシングルをリリースした。その中で最も大きなヒットとなったのは、青山学院大学の女学生たち3人のグループだった、もとまろによるバージョンであった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%8A%B1
「神田川」は、かぐや姫(当時のグループ名は「南こうせつとかぐや姫」)が歌ったフォークソング。
1973年(昭和48年)9月20日にシングルレコードが発売された。喜多條忠が、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くの アパートで暮らした思い出を歌詞にして、青春の悲しみが若者の共感を呼んでヒット曲となった。
作詞・作曲 喜多条忠、南こうせつ
チャート最高順位 週間1位(オリコン) 1973年度年間6位(オリコン) 1974年度年間41位(オリコン)
南から作詞を依頼された喜多條は当時25歳で、早稲田大学を中退したのち放送作家として売り出し中だった。
彼はタクシーで早稲田通りの小滝橋を通りかかった時、19歳の時に1年間だけ早大生の髪の長い女学生と三畳一間のアパートで同棲した日々を思い出した。
窓から汚い神田川と大正製薬の煙突が見えるアパートだった。そしてその「青春時代を総括するつもりで」、約30分で一気に詞を書き上げた。
さっそく南に電話をかけて詞を読み上げると、南はそれを折りこみチラシに書き留めながら、即興で思い浮かんだメロディを口ずさんでいった。詞を書きながらメロディが湧いてくるのは南も初めての体験で、電話を切った3分後にはもう曲が完成していた。
第一番の歌詞にて、女性が風呂屋(銭湯)で何時も待たされるという描写があるが、これは喜多条が銭湯で飼われていた鯉または金魚に餌をやったり、脱衣所のテレビでプロレス中継を見たりして、寒がりの恋人は赤いマフラーを首に巻いて待っていたことによるという。
歌詞にある風呂屋のモデルは、早稲田通りから少し入ったところにあった「安兵衛湯」とされ、跡地にマンションが建っている。
当初、この作品は『かぐや姫さあど』(LPレコード、1973年7月20日発売)の収録曲だったが、南こうせつが当時DJを担当していたTBSラジオの深夜放送ラジオ番組『パックインミュージック』で本作を流したところ、聴取者からのリクエストが殺到し、同番組のリクエストランキング1位を獲得した。
これを受けて日本クラウン社内で制作会議を開いてシングル盤として発売するかどうかを決める際、名物プロデューサーであった馬渕玄三が
「この曲は歴史に残る名曲になる。これを出さなかったら日本クラウンは一生の恥をかくことになるぞ」
と強力にシングルカットを推したため、『神田川』はフラット・マンドリンの演奏を追加したバージョンをレコーディングした上で改めてシングル盤として発売された。
このシングル盤は、最終的に200万枚以上を売り上げ、かぐや姫にとって最大のヒット曲となった。
これだけのヒットを飛ばした『神田川』だったが、歌詞の2番に登場する「24色の『クレパス』買って」が商標名であることから、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』の出演依頼が来た際にNHKから『クレパス』という歌詞を『クレヨン』に修正せよ」と要請されたため出場を拒否している。
NHK紅白歌合戦で、この歌がオリジナルのままで歌われたのは、南こうせつがソロで初出場を果たした1992年(平成4年)の『第43回NHK紅白歌合戦』であり、レコード発売から19年後のことだった。
1970年代の若者文化を象徴する作品の一つに数えられており、中野区内の末広橋近くの公園には『神田川』の歌碑が建てられている。
なお、実際の歌の舞台はもっと下流の戸田平橋付近で、喜多條が住んでいた「三畳一間の小さな下宿」があったのは高田馬場2丁目の現在の専門学校敷地または豊島区高田3丁目7-17に所在した「千登世旅館」(2008年廃業)の隣といわれる。
2005年にNHKが実施した「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」で白組28位にランクインされた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D_(%E6%9B%B2)
「さよならをするために」は、ビリー・バンバンの楽曲。
1972年2月10日に芸音レコードから発売され、1993年9月22日にキングレコードから「さよならをするために (ニュー・ヴァージョン)」として再発売された。
石坂浩二(作詞) 坂田晃一(作曲)
第3回日本歌謡大賞・放送音楽賞
チャート最高順位 1位(オリコン) 1972年度年間3位(オリコン)
日本テレビのテレビドラマ『3丁目4番地』の主題歌として発売され、1993年にリリースした「さよならをするために (ニュー・ヴァージョン)」が、日本テレビ系『ザ・サンデー』のエンディングテーマ及び三和酒類の焼酎「いいちこ」のコマーシャルソング(1993年~1994年)として使われていた。
1972年の『第23回NHK紅白歌合戦』にこの曲で初出場した。
1986年以降、高等学校の音楽教科書にも何度か掲載された。
石坂浩二が作詞、坂田晃一によって作曲された。しかし、当時のフォーク歌手の風潮として、他人の作詞、作曲したものを歌うのは一種の恥であると受け取る面があり、ビリー・バンバンのメンバーである菅原進は、この曲のレコーディングをボイコットしたという逸話がある。
累計では約80万枚を売り上げ、当時人気が低迷していたビリー・バンバンにとっては、1969年に発売された「白いブランコ」以来の大ヒット曲となった。
「22才の別れ」は、日本のフォークデュオ「風」のデビューシングルである。1975年2月5日発売。
作詞・作曲 伊勢正三
チャート最高順位 週間1位(オリコン)1975年度年間7位(オリコン)
元々は「かぐや姫」の伊勢正三が1974年のアルバム『三階建の詩』のために書いた2曲のうちの1曲(もう1曲は「なごり雪」)で、シングルカットの要望が出るなど当初から評価は高かったものの、かぐや姫LIVEに収録されるにとどまり、リアルタイムではかぐや姫のシングルとしては発売されなかった。
かぐや姫解散後「風」を結成しデビューシングルとして発売すると、「風」のシングルとしては最大のヒット曲となった。
累計売上はミリオンセラーに達した。オリコンチャートでは売上70.8万枚、オリコン年間チャート7位。
印象的なギターイントロは、編曲を担当した石川鷹彦によるものである。
制作の経緯を伊勢正三自らが語っている。
「なごり雪」に反して「22才の別れ」は計算して作った。実は、この2曲は同じアルバムに入っている。1974年に発表された「三階建の詩」というアルバムだ。このアルバムには2曲書いた。最初に「なごり雪」を、その次にもう1曲別の作品をレコーディングした。
だけど、なんだか気に入らなかった。「これは売れないなぁ」と直感してしまったのだ。だから、1日待ってもらうことにした。その日、家に帰って、絶対売れる歌を作ってやろうと思った。そうして、徹夜で作ったのが「22才の別れ」だ。
だから、「なごり雪」は自分の好きな世界が自然に沸き上がってできた作品、「22才の別れ」はヒットを意識して作った作品だ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/22%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C
バンバンのメンバーである、ばんばひろふみは、当時ラジオの深夜番組においてディスクジョッキーとして活動し人気も高かったが、デビューから4年経過してもまだヒット曲がないことに焦りを感じていた。
その頃、荒井由実(現・松任谷由美)の曲を聞き「他の女性シンガーとは違う。キラキラしたすごい才能」と感銘を受けた、ばんばは「彼女の曲で売れなければ諦めもつく」と考え、最後の曲として荒井に書いてもらいたいと思い、荒井に会うためあらゆる伝を探し行き着いた所が松任谷正隆であった。
そしてばんばは荒井と直接会い、条件を何も付けずに一曲依頼した。この曲のヒットによりバンバンを継続することになり、ばんばは「バンバンの寿命を延ばしてくれた曲」と語っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/『いちご白書』をもう一度
「涙そうそう」(なだそうそう)は、森山良子作詞、BEGIN作曲による楽曲。
「涙そうそう」の意味は、涙がポロポロこぼれる様子であり、森山が早世した兄への思いを歌詞に込めたもの。
1998年の森山によるバージョンや2000年のBEGINによるバージョンのほか、2001年の夏川りみによるバージョンがヒットするなど、多くのアーティストにカバーされている。
別れの歌・卒業ソングとしても親しまれ、日本の歌百選にも選ばれている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォークソング
夏川りみの現在の名義における3枚目のシングルとして2001年3月23日に発売。
夏川は、沖縄サミットのテレビ中継でBEGINがこの曲を演奏しているのを見て、カバーしたいと思うようになった。
BEGINは夏川の依頼に応えて「あなたの風」を提供するが、夏川はなおも「涙そうそう」にこだわり、最終的にカバーが実現した。
沖縄県の大手CDショップ「照屋楽器店」の売上ランキングでは発売1週目にしてB'zの「ultra soul」に次ぐ2位を記録。
2001年、沖縄のラジオ3局で年間チャート1位となる。
全国に知られるようになるまでには時間がかかったものの、2002年から3年あまりに渡ってヒットし続けた。累計売上は120万枚突破。
2019年9月23日付けまでのオリコン週間シングルランキングでのトップ100ランクイン週数は通算157週であり、SMAPの「世界に一つだけの花」、中島みゆきの「地上の星/ヘッドライト・テールライト」に続いて歴代3位である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォークソング
(ログインが必要です)