第12話 ブルックナーとブラームス

文字数 4,492文字

ベートーヴェン亡き後、19世紀半ば以降のドイツでは、ベートーヴェンが築きあげたものをどう受け継いでいくかという方針の違いにより、【保守派】と【革新派】のグループに分かれてゆきます。

【保守】ヨアヒム(1831-1907)、ブラームス(1833-1897)

【革新】リスト(1811-1886)、ワーグナー(1813-1883)

あくまでも、音楽そのものだけで音楽を成り立たせようと考えていたブラームスと、ヴァイオリニストで作曲家のヨアヒム。

それに対し、リストとワーグナーは、音楽に文学や物語の要素を持ち込むことで、新しい音楽の可能性を切り開こうとしていたのです。


こんな対立構図になっていた19世紀後半のドイツの音楽シーンに、遅れてきたルーキーとして登場したのが、アントン・ブルックナー(1824-1896)でした。年齢的にはワーグナーとブラームスの間ぐらいなのですが、作曲家として本格的に活動をはじめたのが40歳からと、非常に遅かったのです。


ブルックナーは作曲を習っている30代の頃に、師事していた先生からの薦めでワーグナーにハマり、後にはワーグナーに面会した上で自作を献呈しています。ところが、ブルックナーには重大な欠陥がありました。ワーグナーのオペラ(正確には楽劇)を観ても、物語をキチンと理解できなかったのです。

そもそも、ブルックナーの本棚には、楽譜などを除けば、聖書ぐらいしかちゃんとしたものはなく、文学的素養が欠如していたのです。


だからこそ、ワーグナーを敬愛していてもオペラや、リストが創始した交響詩を書くわけもなく、文学・物語・歴史といった要素のない交響曲をひたすら書き続けたのでした。ですから【革新派】としても異端の存在だったのです。

https://note.com/kota1986/n/nc220cde72dcd

ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』に対する無理解にもとづく感想(「何故ブリュンヒルデが焼き殺されたのか?」と述べたと伝えられている。実際の内容は、身を守るために周囲を炎で覆わせるのであり、焼き殺される訳ではない)からも推察されるものである。

ブルックナーの音楽はオーストリア的であり、大ドイツ主義の範疇でのドイツ的なローカル性を持っている。

ブルックナー指揮者のカール・ベームも、著書でブルックナーの交響曲に必要な「オルガン的発想」と「オーストリア情緒」を指摘している。

そのため、20世紀前半まではドイツ語圏でしか評価されなかった。

同時代の作曲家の中では、ドイツ語圏以外の諸国でも早くから受け入れられたヨハネス・ブラームスと対立する存在としばしば捉えられる。

交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点でマーラーとしばしば比較される。

ブルックナー交響曲第4番

指揮 ギュンター・ヴァント

NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

旧称ハンブルク北ドイツ放送交響楽団

交響曲第4番(ロマンティック)」はヨーゼフ・アントン・ブルックナーが作曲した交響曲で、1874年にその第1稿が完成しました。

ロマンティックという副題が付けられていますが、これがブルックナー自身が付けたものかどうかはわかっておりません。

ブルックナーが作曲した9つの交響曲の中では、この「交響曲第4番」が最も変化に富んでおり印象に残るメロディも使われています。

またブルックナーの作品の中では演奏時間が長すぎない(初稿:約72分/第2稿:約66分)ことから、人気の高い作品でもあります。

https://tsvocalschool.com/classic/die-romantische/

ブルックナーを聴くようになったのはずいぶんあとだ。なにしろ長い。

この4番の第一楽章は馴染みやすい。

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77は、ヨハネス・ブラームスが1878年に作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲である。

ブラームスが最初の、そして唯一のヴァイオリン協奏曲を書き上げたのは45歳になってからだった。

これは、彼の創作活動が頂点に達した時期にあたり、交響的な重厚な響き、入念な主題操作、独奏楽器を突出させないバランス感覚、いずれもブラームスの個性が存分に表現された名作となった。

本作品は、ベートーヴェンの作品61、メンデルスゾーンの作品64と並んで3大ヴァイオリン協奏曲と称されている。 

この作品を聴いたシベリウスは、その交響的な響きに衝撃を受け、自作のヴァイオリン協奏曲を全面的に改訂するきっかけとなった。

構成、各主題の性格などベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の影響が強い。

1877年9月にブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番をサラサーテが演奏するのを聴いた時が作曲動機であるとされている。

1879年1月1日 ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて、ヨーゼフ・ヨアヒムの独奏、ヨハネス・ブラームス指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により演奏された。

当初ブラームスはライプツィヒでの初演に反対した。それは20年前にこの地で行ったピアノ協奏曲第1番の演奏会が惨憺たる大失敗(拍手をしたのは3人だけだった)に終わった記憶によると言われている。

ヨアヒムの熱心な説得により行われたヴァイオリン協奏曲の初演は、今度は大成功で、音楽批評家からも絶賛された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9)

指揮 Peter Dobszay 

ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団

ヴァイオリン 高木凜々子 

数年か、数十年ぶりに聴いた。メンデルスゾーン、チャイコフスキー、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は染み付いているけど、ブラームス、ベートーベンのは聴いてみて思い出す。やはり、いいわ。 

コマーシャルが入るけど、指揮者が素敵なので、この動画にしました。

ブラームスはブルックナーについて、

「彼は知らず知らずのうちに人を瞞すという病気にかかっている。それは、交響曲という病だ。あのピュートーン(ギリシャ神話に登場する巨大な蛇の怪物)のような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ」と非難していた。

1872年に着手し、1873年に初稿が完成した。

初稿執筆の最中のブルックナーはリヒャルト・ワーグナーに面会し、この第3交響曲の初稿と、前作交響曲第2番の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け入れた。

この初稿により1875年、初演が計画されたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られた。

1876年、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成した(第2稿)

同じ1877年、ブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して、この曲は初演された。もっともこの初演は、オーケストラ奏者も聴衆もこの曲に理解を示さず、ブルックナーが指揮に不慣れであったことも手伝い、演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったという逸話を残している。

とはいえ、残っていた数少ない客の中には、若き日のグスタフ・マーラーもいた。この初演の失敗により、ブルックナーはその後約1年間、作曲活動から遠ざかった。

1878年、この曲が出版されることとなり、それにあわせて一部修正を行った。

1888年、再度この曲は大幅改訂され、1889年に完成した(第3稿)

この稿は1890年に、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演された。この第3稿での初演は成功を収めた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

ブルックナーの交響曲第3番は、朝比奈隆が晩年に愛し、そのスコアが棺に入れられたとも言われる作品です。

トランペットの高名な第1主題が奏される前の弦楽器による刻みだけで、朝比奈はブルックナー好きの魂をわしづかみにする。新日フィルへの客演ながら、巨匠は楽員を完璧に掌握して気概に満ちた迫真の演奏を生み出す。奥義を窮めた解釈は至高の境地と言ってよい。(彦)(CDジャーナル データベースより)

ブルックナーはブラームスのことを

「彼は、自分の仕事を非常によく心得ているが、思想の思想たるを持っていない。彼は冷血なプロテスタント気質の人間である」と評していたという。

ブルックナーはまた次のようにも言っている。

「ブラームスのすべての交響曲よりも、ヨハン・シュトラウスの1曲のワルツの方が好きだ」

「彼はブラームスである。全く尊敬する。私はブルックナーであり、自分のものが好きだ」。

ブルックナーがブラームスの動向を気にしていたのは事実で、ブラームスのドイツ・レクイエムが

「ヴィオラとコントラバスの天才的な対位法による職人芸……」

と評されると、

「あのブラームスのレクイエムの批評を書いたのは誰だ?

私は何も評価しない。対位法は天才ではないし、目的を達成する手段に過ぎない」

と批判している。 

一方でウィーンの音楽会が何でもかんでもブラームス派とワーグナー/ブルックナー派の真っ二つに分かれていたわけではなくブラームスの親友として知られるヨハン・シュトラウスはブルックナーを称賛しており、「私は昨日ブルックナーの交響曲を聴いた。偉大でベートーヴェンのようだ!」と評している。
1889年10月25日、共通の友人たちの仲介でウィーン楽友協会の脇の食堂でブルックナーとブラームスが会食することとなった。

ブラームスの行きつけの食堂として知られるが、音楽家や批評家の集まる店として知られ、ブルックナーやマーラーも頻繁に訪れていた。

ブルックナーの手帳には「10月25日、ブラームスと赤いハリネズミで外食」と書き込んである。

当日、ブルックナーが先に来ていて、後から来たブラームスは黙って長いテーブルの反対側に座るなりメニューを見たまま黙り込み、気まずい雰囲気となった。

メニューを決めたブラームスが

「団子添え燻製豚、これが私の好物だ」

と言うと、すかさずブルックナーが

「ほらね先生、団子添え燻製豚、これがわしらの合意点ですて」 

と応じ、一同は爆笑して一気に座が和んだ。

しかしその後も二人の仲が好転することはなかった。 

次回に続く。

アクセス数が増えてきました。投稿した日に読んでくださる方が数人いらっしゃるので、張り切ってしまいます。

実は、ブルックナーは4、8、9番はよく聴いたのですが、3番は初めてで、今回何度も聴こうとし、何度も眠ってしまって、通して聴いてないのです。

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