第14話 ユジャ・ワン ミニスカート、ハイヒールのピアニスト
文字数 2,524文字
ユジャ・ワンは1987年に中国の北京で生まれた。
父親はパーカッショニスト、母親はダンサー。
ピアノを弾き始めたのは6歳の時。数ある楽器の中でピアノを選んだのは、「家にあったから」
7歳にして北京中央音楽院に入学。ピアノを始めてからわずか1年での入学。
14歳でカルガリーでの語学留学。15歳からの5年間をフィラデルフィアのカーティス音楽学校で過ごす。
14歳からずっと一人で海外生活を送っていることから、彼女の芯の強さを感じる。
彼女が挑戦した数少ないコンクールが2001年の仙台国際音楽コンクール。記念すべき第1回でもあったこの大会において、14歳にして3位&審査員特別賞受賞の結果を残している。
カーティス音楽学院での師、ゲイリー・グラフマンは同じ中国出身の大人気ピアニスト、ラン・ランも指導している。
カーティス音楽院在学中も多くの交響楽団との共演を重ね、着実にピアニストとしてのキャリアを築いていく。NHK交響楽団との共演歴もある。
第一楽章。
2007年、ユジャ・ワンにチャンスが訪れた。
80歳となった今日でもなお、世界最高のピアニストとの呼び声高い、マルタ・アルゲリッチがボストン交響楽団との共演を急遽取りやめた。
そして、代役に選ばれたピアニストがユジャ・ワンだった。アルゲリッチ直々の指名だった。
ユジャ・ワンにとってはまさに試金石。
もしも聴衆を満足させることができなければ、順調なキャリアを送ってきたユジャ・ワンの評価に傷が付いてしまう。
そのプレッシャーは相当なものだったはず。
しかし、蓋を開けてみれば、コンサートは大成功。デュトワが指揮するチャイコフスキーのピアノ協奏曲のソリストを見事に務め上げた。
聴衆の想像をはるかに上回る出来であったことから、ユジャ・ワンはこのコンサートによって現代を代表するのヴィルトオーソ(超一流の演奏家を示す言葉)としての立場を確固たるものとした。
ユジャ・ワンの魅力は人間離れしたテクニック。
テクニックばかりに注目すると、彼女の演奏の本質を見誤ることになってしまうかもしれないが、ユジャ・ワンが現在世界屈指のテクニシャンであることは紛れも無い事実。
手の大きさも10度届くか届かないか、ピアニストの中では手が大きい部類ではない。
超絶技巧を要する曲として知られる、『トルコ行進曲』(モーツァルト作曲・ヴォロドス編曲)や『熊蜂の飛行』(リムスキー・コルサコフ作曲・シフラ編曲)はもうすっかり彼女の十八番となっている。
編曲は現代を代表するヴィルトゥオーソ、アルカディ・ヴォラドス、ファジル・サイとユジャの合作みたいです。
https://nishigawa0323.hatenablog.com/entry/2019/11/22/181133
ユジャ・ワンは必要以上に速く演奏することで、テクニックをひけらかすようなピアニストでは決してない。
彼女はたっぷりと歌うような叙情的な演奏も非常に巧みだ。
とにかく安定感が素晴らしい。
指揮 シャルル・デュトワ
NHK交響楽団
ユジャ・ワンのお辞儀は超高速かつ激しい。クラシック音楽のコンサートでこんなお辞儀をするのは彼女くらいだろう。
しかし、お辞儀を改善する気は全く無いようで、小さい頃からのお辞儀の癖をずっと気に入っているようだ。
その屈指の美しさによって、協奏曲作家としての名声を打ち立てたラフマニノフの出世作である。発表以来、あらゆる時代を通じて常に最も人気のあるピアノ協奏曲のひとつであり、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つに数えられている。
多くのラフマニノフのピアノ曲と同じく、ピアノの難曲として知られ、きわめて高度な演奏技巧が要求される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピアノ協奏曲第2番_(ラフマニノフ)
クラシック音楽のコンサートでは、1~2曲おまけで演奏する「アンコール」があるのが慣例となっている。
ユジャ・ワンの場合、アンコールだけで8曲演奏することは日常茶飯事。
これは聴衆からすると、大変喜ばしいサプライズで、彼女のサービス精神が伺える。
ユジャ・ワンはプログラムを変更することが多いことでも知られている。
「2年先に何を弾きたいかなんて今わかるはずがないじゃないの。アンコールたくさん弾くからいいでしょ」
https://narushare.com/yuja-wang/を参考にしました。
指揮 セミヨン・ビシュコフ
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ピアノ協奏曲第1番嬰ハ短調作品1はセルゲイ・ラフマニノフが1890年から1891年にかけて作曲したピアノ協奏曲。
モスクワ音楽院在学中であった1890年から1891年にかけて、同音楽院の卒業試験のために書かれた。
その後、ロシアではソヴィエト政権が樹立し、ラフマニノフは一家でフィンランドに亡命したため、この作品は彼がロシアで完成させた最後の曲ということになる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピアノ協奏曲第1番_(ラフマニノフ)
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