第20話 フォーク創世記から
文字数 4,076文字
1960年代、日本フォーク・ソングの創世記より、活躍。日本のフォークの基盤を創ったひとり。以後30年間、ギター・バンジョーの弾き唄いで日本中を唄い巡っている。
代表作は「受験生ブルース」。
受験戦争
入学するための選抜試験が激化した状況を指す。 1960年代にマスコミによって使用され,一般に定着した。 その要因としては,第1次ベビーブーム世代の進学時期に該当したこと,高等教育の大衆化が始まり高校および大学への進学率が急上昇したことなどが挙げられる。
当時、すでに関西フォークシーンで活躍していた高石ともやは、自分のコンサートでも「受験生ブルース」を取り上げるようになる。
彼のステージを見て感動し、ギターを持ち始めたのが後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった。
そんな高石が、この「受験生ブルース」を自分が歌うにあたってメロディーを作り直したのだ。
「当時、五郎が作っていたメロディーは、ゆっくりと足を引きずるような三拍子の短調で暗いイメージがあったんです。これでは広まりにくいと思ったのでC調の二拍子にしたんです。」
軽快なメロディーに編曲された「受験生ブルース」は、高石のコンサートでたちまち人気の曲となる。
それにいち早く目をつけたビクターレコードの深井静史(ディレクター)がレコード化を実現させる。
1968年3月リリース。
ストイックな受験生活を自虐的に歌ったこの楽曲は、深井の“読み”通り、発売と同時に話題を呼び、90万枚のヒットを記録する。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/day/73198/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D
高石事務所には、岡林信康、中川五郎、高田渡も所属し、その中心人物であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖、旗手などとも呼ばれるようになる。
アングラとはアンダーグラウンド。高石友也、中川五郎、岡林信康など、意欲的なフォーク・シンガーが、若人たちを対象として作詞・作曲。新宿駅西口、その他アングラ集会で発表する現代むきフォーク・ソングをいい、多分に戦争反対、学校紛争、その他社会世相諷刺の内容をもっている。自分たちでレコードに吹込み発売しているものもある。
訳詞家としてボブ・ディランのすべての楽曲の歌詞を翻訳しているほか、フォークシンガー、翻訳家、小説家としても活動する人物だ。
かつて“関西プロテストフォークの旗手”といわれた彼がこの歌を創作したのは1967年(当時18歳・高校3年生)だった。
「夏休みの補修授業中、日本史の講義になんとなく身が入らずにボヤっとしいた時でした。その当時よく大阪のフォークソング集会で歌われていた炭坑街のブルース(ボブ・ディランの“North Country Blues”に日本語の歌詞を乗せた替え歌)のメロディーにのせて突然言葉が浮かんできたんです。僕は授業に使われていたプリントの裏に一節を書き始め…それにつられてスラスラと瞬く間に12番まで作ってしまったんです。」
曲のタイトルは歌詞の内容通り、ズバリ「受験生ブルース」とした。
翌1968年から中川はステージで歌い始めるが、曲調が暗過ぎたのか…当時はあまりウケなかったという。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/day/73198/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D
『春夏秋冬』(しゅんかしゅうとう)は、泉谷しげるの楽曲。1972年に発表され、その後も様々なバージョンがアルバムに収録されている。同年9月25日にはライブ音源が泉谷しげる通算2枚目のシングルとして発売された。泉谷の最大のヒット曲であり代表曲である。
作詞作曲 泉谷しげる
二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いてフォークシンガーを志す。1971年、全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加。1974年3月、宇崎竜童に見出され、シングル「上京の状況」でデビュー。1977年、「夜へ急ぐ人」をちあきなおみに楽曲提供。同年のNHK紅白歌合戦でちあきが歌った同曲は大きな反響を呼ぶ。
大島渚から『戦場のメリークリスマス』のヨノイ大尉役をオファーされていたが、秋田訛りを直すことを求められたために固辞。同役は坂本龍一が演じた。2004年、三池崇史が監督したカルト映画『IZO』に出演。
1980年代以降は、画家としても評価されている。また、小説家の中上健次は友人であり、友川の絵画を高く評価していた。
3枚目のアルバム『千羽鶴を口に咥えた日々』に収録の「生きてるって言ってみろ」は、テレビドラマ『一家だんらん物語』の主題歌に採用され、シングル発売された。
現在は学芸大学アピア40を拠点にライブ活動を行っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E5%B7%9D%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AD
杏さんが伝説のフォークシンガー加川良さんの「教訓1」を自然体で歌う動画がアップされ話題になった。杏さん世代とはかけ離れた半世紀前の1970年に発表された含蓄のある加川さんの曲であることも驚きを持って迎えられた。
その曲の冒頭は
「命はひとつ 人生は1回 だから 命を すてないようにネ……」
だ。50年前の反戦と平和を込めた曲だった。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/news_jp_5e967e7fc5b6ac7eb26241fd
かたくなにアンダーグラウンドの世界にこだわった加川良。彼の歌「教訓Ⅰ」です。(昭和46年(1971年)発売)
加川良のいいところはブレない考え方で生涯、商業ベースに乗らなかった。うまく乗っていれば吉田拓郎級の売れ方をしただろう。
加川良の才能を見いだした高田渡もこういうところがあった。
のちに続くニューミュージックと呼ばれる商業系フォークとの境目だった。
今でも「教訓1」が歌われているのはどうしてなんでしょう。70年、71年では反戦・反体制の歌で受け入れられた歌なのに。
そしてその時、心は燃え上がっていた。
直接的に反戦や反体制を訴えていないから今の世相でも共感されるんでしょうね。
『戦争を知らない子供たち』は、1970年に発表された、北山修が作詞し、杉田二郎が作曲した楽曲。
1970年8月23日、大阪万博でのコンサートで初めて歌われ、その模様がライブアルバム「戦争を知らない子供たち」として発売された。同年11月5日には、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされた。
翌年1971年2月5日には、ジローズの歌唱によるシングルが発売され、オリコン最高11位、累計売上30万枚以上のヒット曲となった。ジローズはこの年の第13回日本レコード大賞新人賞を、作詞を担当した北山修は作詞賞を受賞した。
1972年公開の映画「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」では挿入歌として使用され、1973年には、この曲の歌詞を原案にした同名の映画が制作された。
世はベトナム戦争の真っ最中であり、憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。
元々、歌詞が先に出来ており、北山は真っ先に盟友加藤和彦に作曲してもらおうと思ったら、鼻で吹いて突っ返されてしまい、やむなく杉田二郎の元に持って行ったという。
加藤とは逆に杉田は、北山の詞に素直に感動し、喜んで曲を付けたという。その後も北山自身、割り切れなさを感じることも多かったというこの歌詞に素直に曲を付け、胸を張って歌い続けた杉田の姿には励まされたと、5年後の1975年発売の杉田のシングル「男どうし」に寄せたコメントに書いている。
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