第36話 冬

文字数 3,318文字

湯山 昭 :ピアノ小品集 冬のエチュード
ブエノスアイレスの冬

ピアソラの『ブエノスアイレスの四季』の中の1曲で、哀愁ただようメロディーにタンゴのリズムがからむ、魅力的な作品です。

ヴィヴァルディ『四季』冬 

第1楽章 

寒さの中で身震いしている。足の冷たさを振り解くために歩き回る。辛さから歯が鳴る。

ソロヴァイオリンの重音で身震いを表現している。

第2楽章 

外は大雨が降っている、中で暖炉で満足そうに休息。

ゆっくりしたテンポで平和な時間が流れる。

第3楽章 
私たちはゆっくりと用心深く、つまづいて倒れないようにして氷の上を歩く。しかし突然、滑って氷に叩きつけられた。氷が裂けて割れ、頑丈なドアから出ると外はシロッコと北風がビュービューと吹いていく。そんな冬であるが、もうすぐ楽しい春がやってくる。
チャイコフスキー 四季 12月 クリスマス

交響曲第1番ト短調冬の日の幻想』 は、チャイコフスキーが発表した最初の交響曲で、1866年3月から6月にかけて作曲された。

チャイコフスキーの交響曲は、番号付きのものが6曲、『マンフレッド』を含めると7曲あるが、演奏機会が多いのは第4番以降のものである。第1番は、初期の3曲のなかでは、親しみやすい曲想と魅力的な旋律で比較的よく知られる。標題の「冬の日の幻想」は第1楽章に付けられたものに由来している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/交響曲第1番_(チャイコフスキー)
シューベルト 冬の旅 第一曲『おやすみ』

トーマス・クヴァストホフは1959年11月9日に西ドイツのヒルデスハイムで生まれる。

母は妊娠中につわりを抑えるため制吐剤としてサリドマイドを服用しており、この薬害によってトーマスは重篤な障害を持って生まれた。身長は134cmと低く足は長管骨に影響が出て短く形成され、アザラシ肢症により手も短い。

肉体的なハンデを背負ったトーマスではあったが、17歳のころから声楽の勉強を開始し、ハノーファーの音楽院への進学を希望するが、「ピアノが弾けない」という理由により入学できなかった。

トーマスはハノーファー大学に進学して3年間法学を専攻。卒業後は北ドイツ放送に入り、ラジオアナウンサーを務めたほか、テレビ番組の音声担当も行った。

トーマスが音楽活動を始めたのは1984年のことである。

ヴュルツブルク、ブラチスラヴァでのコンクールに入賞ののち、1988年にミュンヘン国際音楽コンクール声楽(バリトン)部門に出場して優勝。歌手に専念し、1989年にはグスタフ・マーラー・フェスティヴァルにおいて『さすらう若者の歌』を歌い、1995年にはアメリカデビューを果たす。

1998年の同音楽祭では世界初演となるペンデレツキの『クレード』でソリストの一人となり、そのライヴ録音は2003年度グラミー賞の最優秀合唱作品部門を受賞した。

2003年、トーマスはザルツブルク復活音楽祭に出演し、オペラデビューを果たす。

カーネギー・ホール進出が企図された2006年、トーマスはこれまでとは違うジャズの分野にも進出し、ドイツ・グラモフォンからアルバム をリリースした。

2011年10月、喉頭炎と診断され、ジャズのステージからの引退を発表。次いで2012年1月11日、トーマスは自身の公式サイトで健康上の理由により歌手生活からも引退することを発表した。引退声明の中でトーマスは「自分の健康状態が、自己の持つ高い芸術水準を維持するには無理が生じた」とした上で「新しい人生への挑戦が楽しみである」ことを述べた。 

引退後は教職活動、2009年に自ら立ち上げた2年に一度の声楽コンクールである「ダス・リート "Das Lied"」での芸術監督としての活動を継続し、それらに加えて朗読の部門などで活躍している。 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トーマス・クヴァストホフ

「歌に関しては障害と一緒に評価されたくない、一人の歌手として評価されたい、自分はそれを求められるだけのレベルに達している」

バレンボエムはどうしてもジャクリーヌ・デュプレを思う出してしまうのですが……
『詩人の恋』(ドイツ語: Dichterliebe)作品48 『10. Hör' ich das Liedchen klingen (あの歌を聞くと)』

ハインリヒ・ハイネの詩によるロベルト・シューマン作曲の連作歌曲。1840年作曲。

シューベルトを継ぐ代表的ドイツ歌曲作家となったシューマンの、最も有名な歌曲集であるが、典型的ピアノ作曲家の彼らしく、ピアノ伴奏も声楽にも増して表現力豊かである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%81%8B

32話のシューマンの協奏曲のピアニスト、エレーヌ・グリモーさんが伴奏してます。先日、検索して、知ったばかりの方なのに、なぜか嬉しい。
『色褪せない音楽』2話に、ダイナ・ショア、フランク・シナトラ、西城秀樹の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』があります。

トーマス・クヴァストホフは2012年に引退している。

クヴァストホフはサリドマイド児として生まれたというハンディキャップがあるが、ミュンヘン国際コンクールで優勝、審査員のフィッシャー=ディースカウからも絶賛され、キャリアを築いていった。


引退の理由は体調不良と言われていたが、お兄様の病気(肺がん)と死だった。

「兄の余命は9ヶ月と宣告を受け、3日間文字通り声が出なくなった。ただ、もともと早く引退したいと思っていたし、クラシック音楽業界の不毛さ、堅苦しさも感じていた」


クヴァストホフは身長は1m35cmしかなく、腕も脚も短く、指は7本しかない。

「私がステージに登場したら誰がそれを無視できるだろうか?

しかし、リサイタルで口を開けば、観客がそれを忘れることを願っていた」


「音楽の勉強がしたかったのだが、大学では楽器が弾けないからダメだと言われた。そこで個人的に歌を勉強することにした。重要なのはネガティブなことが起きているかどうかではなく、それにどう対処し、その状況から何を得るかである」


10年半以上にわたって学び、キャリアを積んできたが、彼を突き動かしてきたのはある大きな動機だった。

「私が生まれたときから母は(サリドマイドを服用したことに)罪の意識を感じていた。

『その必要はない』と私がいくら言っても母はきかなかった。なので私は母に、私の人生と才能を最大限に活かした姿を見せたいと思った」


声がもどってきてからクヴァストホフはクラシック音楽の世界を離れ、ジャズに転向した。引退前からジャズをいつも楽しんでいて、ジャズのアルバムも2007年にリリースしていた。

「歌い方が違うのでほとんどやっていなかったが、いまではマイクという新しい楽器を習得した。とても気に入っている。

カルテットの一員であることは、親密でプレッシャーもなく、素晴らしくリラックスした音楽の姿だと感じている」


エジンバラ音楽祭ではカルテットでジャズを歌い、講師として、そしてオペラ《ナクソス島のアリアドネ》に出演する。ただし、語り手役だ。


オペラの場合、自分の見た目が聴衆の関心を惹きつけてしまうかもしれないことが心配だったが、リート(歌曲)のリサイタルの場合はそのような心配はなかった。リート歌手は最高の役者でなければならないと彼は言う。

「今のひとたちにはそれが欠けていると思う。キャラクターよりも音色の美しさが優先されてしまっている。小さな情景を表現や色彩で埋めていかなければならない。オペラの場合は衣装や舞台セットなどでそれらを隠すことが出来る」


クラシックの世界に戻ってくる気はない。エコー賞を6回、グラミー賞を3回受賞した。

「私が証明すべきものはもうなにもない」


「私は障碍があったアーティストとして認められたかった。アーティストでもあった障碍者としてではなく」

ガーディアン(イギリスの新聞)のインタビューから。

https://mcsya.org/quasthoff-guardian/

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