第5話 何度聴いても
文字数 5,120文字
ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える。
この曲は世間からは評価を受けたが、ラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されなかった。ラヴェル自身もこの曲に対して、「大胆さに欠ける」「かなり貧弱な形式」と批判的なコメントを行っている。一方で、ラヴェルが晩年重度の失語症に陥った状態でこの曲を聴いた際、「美しい曲だね。これは誰の曲だい?」と尋ねたという逸話が残っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/亡き王女のためのパヴァーヌ
まさにフランス音楽って雰囲気の作品です。
この曲はフランスの詩人ステファン・マラルメの「牧神の午後」という長大な詩にインスピレーションを受けて、 フランス人作曲家のドビュッシーが作曲しました。
当初は「前奏曲」「間奏曲」「終曲」の3部構成の予定が、「前奏曲」でマラメルの詩を全部語ってしまい、 曲の出来もあまりにもすばらしかったので、「前奏曲」だけで完成になったそうです。
なんだかぼやけた感じの、あまりパッとしない曲ですが、
神牧が見た、”ニンフ(妖精)との戯れ”の夢の光景が、そのまま音となってうまく表現されています。
『ダフニスとクロエ』は、ロシアのバレエダンサー・振付師ミハイル・フォーキン、フランスの作曲家モーリス・ラヴェル、ロシアの美術家レオン・バクストらによって制作されたバレエ、またはこのバレエのためにラヴェルが作曲したバレエ音楽、あるいはラヴェルの同楽曲に基づいて後世に再創造されたバレエである。 2~3世紀古代ギリシアのロンゴスによる物語『ダフニスとクロエ』を題材にしており、全3場が連続して上演される。上演時間は約55分。
このバレエのためにラヴェルが作曲した管弦楽曲は、彼の傑作の一つとして高く評価され、バレエ音楽全曲、または作曲者自身による2つの組曲(「第1組曲」、「第2組曲」)の形で演奏される。
晩年病に倒れて仕事の不振に打ちのめされていたとき、かれは好んで初期の作品をくり返し聞いた。かれが最後に《ダフニス》を聞いたとき、かれはひどく感動し、さっとホールを出て私を自動車のところへ引っぱっていき、そして静かに泣いた。「あれはやっぱりいい曲だった!ぼくの頭のなかにはまだいっぱい音楽があったのに!」 私はなんとかしてかれを慰めたかったので、かれの音楽はすばらしい、完璧だ、と言ったのだが、かれは憤然として答えた。「とんでもない、とんでもないよ。ぼくは言いたいことをまだなにも云ってないんだ・・・・・・」
— エレーヌ・ジョルダン=モランジュ、エレーヌ・ジョルダン=モランジュ 安川加寿子、嘉乃海隆子共訳『ラヴェルと私たち』、音楽之友社、1968年8月、56-57頁より引用
『トリスタンとイゾルデ』は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。
全3幕からなり、1857年から1859年にかけて作曲された。演奏時間は約3時間55分(第1幕80分、第2幕80分、第3幕75分)
物語は、古代トリスタン伝説によっており、ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク(? - 1210年)の叙事詩を土台として用いている。
ワーグナー自身が「あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑」と述べているように、この作品は愛の究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするものともなっている。作品全体に浸透した不協和音の解放によって『トリスタンとイゾルデ』は、ヨーロッパ音楽史上の里程標と見なされている。また、この作品の極限的な感情表現は、あらゆる分野にわたって何世代もの芸術家に圧倒的な影響を及ぼすものとなった。
第1幕への前奏曲と第3幕終結部(イゾルデの「愛の死」)は、ワーグナーが全曲の初演に先立って演奏会形式で発表したことにちなみ、現在でも独立して演奏会で演奏される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トリスタンとイゾルデ_(楽劇)
フランツ・リストに宛てた手紙に、ワーグナーは次のように書いた。
「自分はこれまでに一度も愛の幸福を味わったことがないので、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました。」
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。
別名 楽劇王 職業 作曲家、指揮者
活動期間 1832年 - 1883年
ロマン派オペラの頂点であり、また楽劇の創始者であることから「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。
物語は、人間と芸術の価値を輝かしく肯定するとともに、天才が得た霊感を形式の枠の中で鍛え上げる必要性を説いた寓話にもなっている。その豊かで鋭い洞察と暖かな人間性によって、本作品は幅広い人気を保っている一方、当時のワーグナーの思想である「ドイツ精神」の復興とともに反ユダヤ主義が織り込まれており、底に潜む暗い部分として疑問が投げかけられてもいる。
ワーグナーには熱狂的なファンが多数存在する。彼らのワーグナーへの傾倒ぶりは、信仰に近いものがあるという。ワーグナーを聴くためにバイロイト祝祭劇場に行くことを、しばしば「バイロイト詣で」と呼ぶのがひとつの証左である。ワグネリアンという言葉がネガティブな意味合いを持つに至った理由のひとつに、ワーグナーの反ユダヤ主義がある。
ワーグナー自身の反ユダヤ主義的傾向は生前から知られており、さらにはアドルフ・ヒトラーがワグネリアンを自称したため、ワーグナー作品はナチスのプロパガンダに大いに利用されることとなった。例えばナチスのニュルンベルク党大会では『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲や『リエンツィ』序曲などのワーグナー作品が演奏され、ナチスの宣伝トーキー映画にはワーグナーの曲が多く使用されていた。
このような経緯のため、イスラエルでは建国以来長らくワーグナー作品の演奏や鑑賞がタブー視されてきた。ワグネリアンの中にはワーグナーとヒトラーの関係を認める者もいるが、あくまでワーグナーとヒトラーは無関係であり、ワーグナーの音楽自体は政治的意図を孕まない純粋な芸術だと主張する者も多く存在する。
このように、ワーグナー自身に対する評価としては、ワーグナーの人間的欠陥と作品の良否は別と考える者、人間的欠陥故に数々の作品を生み出したと考える者など、ワグネリアンにおいても数々の解釈があり、その一筋縄で理解しがたい点がワーグナーの魅力でもあり、イスラエルでのワーグナーの再考と議論は芸術の限界や可能性を表している。
現在でもイスラエルではワーグナーの楽曲がタブー視されており、公に演奏されることは許されない。しかし、1981年、ズービン・メータが「民主主義国家イスラエルではすべての音楽が演奏されるべきではないでしょうか」と演説し、聞きたくない観客には辞退してもらい、『トリスタンとイゾルデ』の一曲をアンコールで演奏した。ユダヤ系指揮者ダニエル・バレンボイムは2001年イスラエル音楽祭でベルリン国立歌劇場を指揮して『トリスタンとイゾルデ』序曲を演奏し、騒ぎとなった。イスラエル国営ラジオの音楽部長Avi Chananiはワーグナーのイスラエルにおける演奏を擁護したが、演奏すべきではないという意見も多々あった。その後バレンボイムは、ワーグナーがヒトラーのお気に入りの作曲家だったからといって、ワーグナーにホロコーストの責任を押し付けるのは間違っている、とイスラエルを批判した。
ドイツではワーグナーの「音楽」を賞賛することは許されても、ワーグナーの反ユダヤ思想を賞賛することはユダヤ人差別として非難の対象となる。
私は断然ブラームス派。
・夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかったという。
・常軌を逸した浪費癖の持ち主で、若い頃から贅沢をして支援者から多額の借金をしながら踏み倒したり、専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。リガからパリへの移住も、借金を踏み倒した夜逃げ同然の逃亡だった。
・過剰なほどの自信家で、「自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ」と公言して憚らなかった(とはいえリストやウェーバーなど、彼が敬意を払っていた作曲家は少なくなかったようだが)。このような態度は多くの信奉者を生むと同時に敵や反対者も生む結果となった。
・哲学者フリードリヒ・ニーチェとの親交があり、ニーチェによるワーグナー評論は何篇かあるが、中でも第1作『悲劇の誕生』はワーグナーが重要なテーマとなっていることで有名である。しかしのちに両者は決別する。
・ブラームスとそりが合わず、犬猿の仲だった。1870年にウィーンで催されたベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したが、土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否した。
・動物好きで犬とオウムを飼っており、動物実験に反対する投書を寄稿したこともある。
(ログインが必要です)