第24話 ポゴレリチ事件
文字数 5,732文字
イーヴォ・ポゴレリチ(1958年10月20日 - )は、クロアチアのクラシック音楽のピアニスト。
ユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラード生まれ。22歳で、師事していた43歳の女流ピアニスト、アリザ・ケゼラーゼと結婚したり、作曲家が弱音と指定している箇所を強打するなど、私生活・ピアノ演奏の双方で型破りなことで知られる。
現在はスイスに在住。レパートリーはショパン、ラヴェル、シューマン、ベートーヴェン、リスト、スクリャービン、プロコフィエフ、バッハ、スカルラッティ等であり幅広い。現代音楽は一切手掛けないとしている。
1958年、10月20日旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードにて、クロアチア人の父イヴァンとセルビア人の母ダリンカの間に生まれる。父イヴァン・ポゴレリチはコントラバス奏者・指揮者。
1970年、親元を離れ、単身、モスクワ中央音楽学校に留学し、寮生活を始める。
1975年、中央音楽学校卒業、引き続きチャイコフスキー記念モスクワ音楽院に進学。エフゲニ・マリーニン、ヴェラ・ゴルノスターエヴァらに師事。このころから、生来の反骨精神から伝統に敢えて刃向かう演奏に傾倒し、教師たちとたびたび衝突、3度にわたって音楽院を退学処分寸前になる。派手な服装や目立つ言動のため、西側寄りの要注意学生として音楽院側から再三、忠告・指導を受ける。
1976年、モスクワ市内の某科学者宅で開かれたパーティーで、グルジア(現・ジョージア)人ピアニストで著名な学者でもあったアリザ・ケゼラーゼに出会う。10月、ケゼラーゼから個人的にピアノの指導を受け始める。ケゼラーゼとの出会いは、ポゴレリチの演奏家人生に大きな影響を与えた。
ショパンエチュード25の6
ショパンの「3度の練習曲」といえばピアニストを志したことのある人にとってみれば鬼門の一つでしょう。
3度というのは音程のことです。例えばドの音に対して3度上の音はミです。ドとミを同時鳴らすとハモって聞こえます。美しいですね。三度の音程を右手だけで、しかも絶え間なく超高速に弾く、というのがこの25の6です。
さあみなさん、机に右手を乗せて。
親指と中指で机を押さえる。次に人差し指と薬指で机を押さえる。再び親指と中指へ。この動き、一秒間に8回以上できますか。出来る方、ほとんどいませんよね。普通の人は出来ません。
しかも、これをもっと複雑な動きにしたのがこの練習曲です。
どれぐらい難しいかというと「プロのピアニストでも弾けない人が多い」というぐらい難しいです。
1978年、イタリア、モンテルニのアレッサンドロ・カサグランデ国際コンクール第一位。指揮者ダニエル・オレンとの共演でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を演奏。
1980年、カナダ、モントリオール国際コンクール第一位。審査員の満場一致での優勝であった。
同年、ポーランド、第10回ショパン国際ピアノコンクールの本選落選、審査員特別賞受賞。
これまでのショパン解釈からは到底考えられない彼の演奏は奇抜すぎるとする他審査員に対し、審査員の一人マルタ・アルゲリッチが「彼こそ天才よ」といい、その場から立ち去り抗議。審査員を辞任する騒ぎとなった。また、パウル・バドゥラ=スコダを始めとする他の数名の審査員は辞任はしなかったが、アルゲリッチに賛同の意見を述べた。
なお、アルゲリッチがショパン国際ピアノコンクールの審査員に復帰したのはこの20年後、2000年である。
ショパンのプレリュード 24の前奏曲の最後の曲です。
プレリュードの最後にふさわしく、全体的にかっこいい曲ですが、
特に最後、断末魔のように一番下のレの音を、三回鳴らして終わるという締めくくりがとてもドラマティックです。
TVアニメ『ピアノの森』では、ショパンコンクール第1次予選で、一ノ瀬 海が演奏し、最後のレを三回鳴らす箇所をこぶしで叩くという演出がされています。
この一連の出来事は「ポゴレリチ事件」と呼ばれるようになり、ショパン国際ピアノコンクールの歴史を語る上で避けられない出来事となった。
またコンクール期間中にもかかわらず、審査委員長のコルド氏、落選者のポゴレリチの異例の記者会見がなされた。事態を重く見た審査員達は急遽ポゴレリチに審査員特別賞を与えることを決定。入賞はしなかったものの、一気にスターダムにのし上がった。
ポゴレリチ本人は、この事件は自身の音楽的解釈ではなく、審査員同士の政治的要因によって引き起こされたと語っている。モントリオール国際コンクール優勝後、モスクワ音楽院のピアノ科主任であったドレンスキーから1980年のショパン国際ピアノコンクールを捨てる代わりに2年後のチャイコフスキー国際コンクールで第一位を取らせるという提案を受けたが、ポゴレリチがこれに従わなかったため一部の審査員は彼に点を入れなかった。
コンクール後はドイツ・グラモフォンと契約、ショパンやラヴェルなどアルバムを多数リリースした。同年、アリザ・ケゼラーゼと結婚。
異形の芸術性で闘う彼の精神的支柱となっていた人物がピアノ教師アリザ・ケゼラーゼでした。
22歳のポゴレリッチは43歳のケゼラーゼに結婚を申し込み、夫と息子がいた彼女は一度はプロポーズを断ったといいますが、息子を連れて彼のもとに走ります。
「義理の息子」となった連れ子は、ポゴレリッチと年がそれほど離れていなかったとも。これも彼の伝説のひとつでした。
ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(1685年10月26日 - 1757年7月23日)は、イタリアのナポリ出身で、スペインのマドリードで没した作曲家。現在では、もっぱら民族色豊かな鍵盤語法が繰り広げられる多数のチェンバロのためのソナタとチェンバロのための練習曲集によって知られる。
ピアノソナタ第2番 変ロ短調 作品35 は、フレデリック・ショパンが作曲したピアノソナタである。
第3楽章に有名な葬送行進曲が用いられていることから「葬送」または「葬送行進曲付き」の愛称でよく知られる。
全体に悲劇的かつ陰鬱で、葬送行進曲が用いられていることなどから、当時のポーランドの悲劇的状況を反映したものではないかとも言われるが、ショパンの真意は定かでない。
このあとのソナタ作品は完全なピアノ独奏でなく室内楽を志向した構造になっているので、事実上ピアニズムの精華といえるのは本作だけである。葬送行進曲を中心として構成された最高傑作という点に人間ショパンの一面が象徴されている。
また、全ての楽章が短調で書かれてはいるものの、上記のように前半楽章は両者とも長調で閉じられる他、第1楽章の第2主題や、スケルツォと葬送行進曲、それぞれのトリオも優美な長調の音楽なので、暗いばかりの作品というわけではない。
なおこの曲は古典的なソナタの構成感に乏しいと指摘される。ロベルト・シューマンは当時の評論の中で「ショパンは乱暴な4人の子供をソナタの名で無理やりくくりつけた」と評し、「田舎の音楽教師がソナタの名につられて、素晴しい古典だろうと思って楽譜を買い求め、いざ弾いてみて激怒する」様子を面白おかしく想像している。もちろんシューマンはショパンを批判しているのではなく、その古典的形式にとらわれない斬新な独創性を(「旧態依然たる音楽観の持ち主たちにはこの曲は理解できまい」という皮肉を込めて)絶賛しているのである。
アントン・ルビンシテインはこのソナタを「死の詩(うた)」と評した。
自分の小説の主人公になにを弾かせようか考えていた時に、第1楽章の冒頭を聴いてこれだ! と思ったのだ。誰の演奏だったのだろう? レコードはすでにない。
1980年、ワルシャワで開催された第10回国際ショパン国際ピアノコンクールの第3ラウンドでポゴレリッチが敗退し、審査員から物議を醸した意見が出された。
陪審員の一人であるマルタ・アルゲリッチは、彼を「天才」と宣言し、抗議して審査員を辞任した。他の2人の審査員は、「このようなアーティストが決勝に進出しないとは考えられない」と述べた。
しかし、他の審査員は、ポゴレリッチの奇行と思われる点を不服として口にした。ユージン・リストは彼に非常に低いスコアを与え、「彼は音楽を尊重していません。彼は歪むほど極端な音を使用しています。そして彼はあまりにも多くの演技をします。」
ルイス・ケントナーは彼の自分の生徒が落選した後、「ポゴレリッチのような人々が第2ステージに進むなら、私は審査員の仕事に参加できません。私たちは異なる美的基準を持っています。」と述べて審査員を辞任した。
スキャンダルの宣伝はポゴレリッチがキャリアを始めるのを助けた。
この曲の完成をもってベートーヴェンは初期より続けてきたピアノソナタ作曲の筆を折る。
また、この曲はベートーヴェンの全ピアノソナタのうち唯一強弱記号としてメゾピアノを使用している曲である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピアノソナタ第32番_(ベートーヴェン)
1981年、ニューヨーク・カーネギーホールでリサイタルデビュー。
1983年2月、クラウディオ・アバド指揮、シカゴ交響楽団との共演で、ショパン『ピアノ協奏曲第2番』を演奏、同曲及びショパン『ポロネーズ第5番』をシカゴのオーケストラホールにて録音。
同年、4月、ザルツブルク復活祭音楽祭の公開プローベにおいて、ヘルベルト・フォン・カラヤンが後援者たちの前で正式にポゴレリチを紹介する。
同年、6月、初の来日公演。
同年、8月24日、アメリカ、ハリウッドボウルにて野外コンサートを開催、2万5千人が詰めかける。
1984年、3月16日、演奏会と録音を前提に、カラヤン指揮のウィーン・フィルとの共演で、チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』を試演するが、ただ一度のリハーサルのみでカラヤンと決裂、18日に予定されていたムジークフェライン・ホールでの演奏会にポゴレリチは不出演。
同年、5月20日、ウィーン音楽祭で小澤征爾指揮、ウィーン・フィルと共演、ショパン『ピアノ協奏曲第2番』
1988年、ユネスコ、親善大使に任命、5月に5年ぶりの来日公演。ドイツ、バート・ヴェーリスホーフェン、第1回イーヴォ・ポゴレリチ音楽祭を開催。
超絶技巧練習曲 S.139 R2b 第5番「鬼火」(Feux follets) フランツ・リスト
世界最高難度と称されるピアノ曲といえば、超絶技巧練習曲第5番「鬼火」でしょう。
鬼火とは、ヨーロッパに古くから伝わる夜の墓地などに出現する謎の光のこと。音楽の題材としてはシューベルトの歌曲集「冬の旅」で初めて取り入れられ、リストもこの正体のない怪奇的な現象を「鬼火」で音楽に昇華させました。
半音階、重音、跳躍のパッセージが高速のテンポの中で交錯するさまは、まさに暗闇で怪しい光が行き交うよう。ピアニストの華麗な手さばきに注目しながらお聴きいただきたい、世界最高難度の名曲です。
1991年6月、クロアチアがユーゴスラヴィア連邦からの独立を宣言、これをきっかけにクロアチア人とセルビア人との間に内戦が勃発。ポゴレリチは母の故国セルビアと訣別し、クロアチア人として生きることを選択する。
1995年9月、ワトフォードにて、ショパン『4つのスケルツォ』録音、これが妻アリザ・ケゼラーゼとの最後の仕事になる。
1996年2月16日、妻のアリザ・ケゼラーゼが肝癌により死去。そのショックを受け、多くのリサイタルがキャンセルになる。これ以降、2019年まで新作アルバムをリリースしていない。
2016年現在、頻繁に来日してコンサートを行っている。
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