第62話 九日目(4)

文字数 3,129文字

夜が更けて皆が寝静まると、一人で時計を睨んでいた森田は鉄パイプを手に取り、照屋の部屋に向かった。合鍵で扉を開け、廊下から差し込んだ光が照らしたのはベッドに横たわる洋子。傍らにはテレビの砂の嵐の前で寝崩れる照屋。森田は土足のまま部屋に上がった。
光と音と振動。研ぎ澄まされた野生で目覚めた照屋が咄嗟にいつもの刃物を手に取ると、森田は鉄パイプを振り上げた。
その刹那、何がどうなったのか。中空のパイプは音を立て、洋子の後頭部をとらえた。理屈は分からないが即死。
その夜、洋子が照屋の部屋にいたのは、きっと森田の夢を醒ますためである。それだけは間違いない。弘にマカラに森田。他にも男はいただろうが、洋子の家族は照屋。どぶ川で育った魚が、川を綺麗にしようと人が水を抜くと捨てられる汚水に向かって飛び出して死んだ。仮に洋子が人でなければ、そのぐらいの話である。
タブーを犯した森田を気味悪がった照屋は、適当に悪態をつきながら目に付いた服と財布を手にとり、裸足のままその場を立ち去った。下らない犯罪を重ねてきた彼は、警察と同じ場に身を置く訳にはいかない。誤魔化せそうにない揉め事が起きたら、とにかく遠くへ逃げる。それが鉄則なのである。

飛散した血の臭いが立ち込める部屋。動かなくなった洋子と残された森田は、ただ時が過ぎるのを待った。自分でも驚くほどに冷静。エンバーミングの実務も知る彼にとって、人の死への抵抗は小さかったということ。あるいは或る種の達成感。洋子の悪夢の様な人生を終らせることが、森田が無意識に思い描いていた二人のゴールだったのかもしれない。
森田はベッドの布団を直し、まだ温かい洋子を抱き上げた。可哀そうな彼女を床に転がしておく訳にはいかない。しかし、流れ落ちる血の量に驚いた森田は洋子を元の場所に丁寧に下ろした。動かすには時期尚早。床に広がる血を眺めた森田は、霞のかかる視界で自分からも血の滴が垂れていることに気付いた。興奮して頭の中がどうにかなったのか、鼻血が流れ出したのである。
肩を落として室内をふらついた森田は、洗面台の鏡に映る血だらけの自分を見つけると力なく笑った。人を助けたい一心で身を削った成れの果て。袋小路に迷いこんだ自分が妙に納得できる不思議。
血から逃げたい森田はシャツを脱ぎ、次いでズボンを脱ごうとして靴を履いていたことを思い出した。衣服とゆっくりと格闘し、下着姿になった裸足の森田は、夢でも見ている様にそのまま自分の部屋に戻った。洋子を綺麗にしてやりたいという言葉が何度も頭の中を渦巻く。口に出したかもしれない。急ぐ森田は、最低限の身なりを整えると洋子の部屋に向かった。ピンクの彼女の部屋でかき集めたのはタオルと着替え、やはり最低限。
そして戻った照屋の部屋、血が溜まる世界。森田が扉を開けた先に広がる狂った光景と臭いはさっきのままだった。音もない夏の夜の空気に何が変わる予感もない。
次第に事実を受け入れ始めた森田は、人形の様な洋子に近寄り、顔から首筋、髪に付いた血を丁寧に拭き取り、血が抜けるのを待った。洋子の命を奪った打点が顔面でなかったのは不幸中の幸いである。

部屋を掃除しながら朝を迎えた森田は、血の止まった洋子を着替えさせるとベッドに運び、布団に寝かせた。筋力を失い、あらゆる表情が消え去った彼女はいつもより上品である。
自分なりに最後の拭き掃除を終え、窓を大きく開けた森田が内線で呼び出したのは、思惟の会以来の古参の仲間。昨夜、物音と悲鳴を耳にして、寝られない夜を過ごした皆は、銘々に気持ちを整えながら時間をかけて部屋の前に集まった。当然、廊下に散らばる血痕には気付いている。勇気ある一人が扉を開いた途端、血と排泄物の温い臭いが皆の鼻を襲ったことにも驚きはない。嫌でも目に入るのは血飛沫。事件の痕跡をまったく消せていないのである。何より、着替えたばかりの森田の服が血だらけ。殆どが鼻血だが、彼の判断力は完全に麻痺している。
誰からともなく泣き始め、遂にはむせび泣いたのは、穏やかに微笑む森田が可哀そうになったから。他の誰のためでもない。大風呂敷を広げて、皆を会話の輪に引き込み、冗談ばかり言っていた彼。金だろうと女だろうと親族だろうと、あらゆる問題を受け入れた彼の笑顔が血に染まっている。感情の堰が次々に崩壊し、泣き声が部屋を埋め尽くすと、ようやく森田本人が呟いた。
「皆に聞きたいんだけどさ。僕はこの罪への罰から逃げていいのかな。一般論を語るんじゃなくて、今のこの状態に限ってどう思うか教えてほしい。」
罪を認めた上での問い掛けが娑婆の住人の理解を得るのは難しい。森田は涙の残る皆の顔を眺め、自分のエゴを認めた。
「ごめん、説明が足りないね。この状況だけど、簡単に言ったら、照屋さんを追い出そうとしたら喧嘩になって、止めに入った洋子さんが死んで、照屋さんが出ていったんだ。それならどう思うかな?」
尋ねた時点で森田は許しを求めている。説明のバイアスは激しいが、これまで照屋から執拗に隷従を求められてきた皆にとって、森田が居場所を失くしたのは当人の順現業。死んだのは洋子だが、彼女の激し過ぎる人生は、ただこの瞬間に向かって転がっていたのかもしれない。誰も口に出来ないが、きっとそういうこと。
時の流れを意識した誰かが涙を拭かずに森田の傍らに近寄り、その背に手を添えた。言葉より行動。それ以外の選択肢が思い当たらない。別の涙の一人が続き、また一人、また一人。森田に寄り添いたい気持ちがモラルのかたちを変えていく。
誰も彼を見捨てることは出来ない。森田は皆と同じ被害者というだけではない。彼は勇気ある一歩を踏み出したせいで人より多くの苦しみを背負ってしまった。すべては未熟な社会で自己犠牲を極めた者に必ず待っているもの。森田は選ばれた男なのである。

翌日、洋子が緊急連絡先として書き残していた母親の家に電話をかけた森田は、想像していた範囲の情けない会話を終えると手際よく葬儀の準備を進めた。死因を確認した病院関係者が異変を看過する筈もないが、その綻びを繕う信者の数はあまりに多く、照屋が姿を消した事実を越えて森田の犯行まで辿り着く者はいなかった。
常に何かを考える森田は、ポジティブ思考の果てに悲劇を革命と解釈した。それが出来るのが森田だが、彼の思考はそこでは止まらない。礼服で茹だる真夏の葬儀に参列しながら思いを馳せたのは教団に迫るカタストロフィ。違法に臓器を売っていた照屋は消えたが、臓器を待っていた人間が黙って諦めるとは思えない。しかし、悩める森田は簡単に一人の人物の名前に辿り着いた。洋子の連絡先を探した朝、ぼやけた頭で捲ったページに名前を見つけたマカラである。
身寄りのないマカラは、教団設立当時、言われるままに森田の電話番号を緊急連絡先として書いた。しかし、教団の性格上、連絡先は教団関係者以外でないと意味がない。日々の生活を通じて少しずつ交友関係を広げたマカラは、本人の許可をとり、人知れず連絡先を増やしていった。数字が不自然に並ぶページに気付いた森田が指摘すると無駄な作業は終わったが、十人の名前が並ぶそれは人との繋がりに飢えていた当時のマカラの象徴。森田も無意識に開くほどインパクトのあるページを本人が忘れる筈がない。行き場を失くしたマカラは、確実にそのノートを手にしている。
自分を除く九人に順に電話をかけた森田は、最後の一人との短い通話から、マカラが解体工事の現場で働いていることを知った。森田に人の縁を思い出させてくれたのはいつかのトルコ人、ルスランの弟ゾルタン。本人は否定するが、中年太りが始まり、ルスランとほぼ同じ容姿になった彼だった。
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