第65話 九日目(7)

文字数 2,966文字

それから二週間ほど経ったある日の昼下がり、左手の指を四本切り落とされた森田の顔に血の気が戻って暫くのこと。土の香る林を越えて教団の敷地になだれ込んだ十人足らずの男達は、何を言って回る訳でもなかったが、僅かな時間で凡その素性を皆に教えた。歩くだけで穏やかな日常を壊せる程の外見。そんな仕上がりの人間が教団を闊歩するなら、今に限れば、ほぼ確実に照屋の関係者である。
件の来訪者が現れたと聞くと森田とマカラは走り出し、勢いの衰えないうちに信者達の前で対峙した。無数の視線に促されて足を踏み出そうとした森田を片手で制したのは、それが自分一人の役割と心に決めているマカラ。
しかし、マカラが男達に感じたのは寧ろノスタルジー、皆とは全く違うベクトルだった。物騒な男達の中心に、キャベンディッシュ弘を見つけたのである。彼だけではない。ジャクソン達也にマディソン進、懐かしいブラックの二人もいる。その気になって見れば、誰もが沖縄で共に過ごした仲間達。昔の面影を残す彼らが、目の前に揃っているのである。
皆を周囲から鮮明に際立たせたのは、照屋とはまた別の系統を極めた悪趣味な服装とカラフルな肌だけではない。皆、額に黒く塗りつぶした様な墨が入っている。思いつく理由は気に入らない刺青を安く消すことぐらい。人生に何も期待しない弘達ならありえる選択である。マカラが前に出ると、弘は軽く顎を上げた。いると知っていたのか、笑顔はない。
「みーどぅーさん。(久しぶり。)」
弘の声は前と変わらないが、マカラは言葉を返せなかった。あの日以来なのである。あの日、洋子の部屋を這い出したマカラは弘を止めるためにクラブ愛琉に向かったが、隣り町に足を踏み入れた途端に牧港派に襲われ、破れた服のまま走り出した。一日身を隠す間にヤクザと警察官の数が呼応する様に増えると、マカラは何故か港に向かい、慎重にフェリーに忍び込んだ。沖縄に居る限り、日の当たる場所なら逮捕、当たらない場所ならリンチ。片や、フェリーで二晩寝れば、東京で人生の仕切り直し。何より、弘に正義はない。マカラは、嘗て仲間の家族を海賊に渡した日と同じ様に弘達を見捨てた。自分のテーゼに従ったのである。
今、見る限り弘達はヤクザ。あの日、思い込みだけで上原を襲った弘達は、理不尽な暴力の代償として照屋に弄ばれた挙句、残りの人生も塗り替えられたに違いない。
一言目が自由にならないマカラを黙って眺めた弘は、思い思いの目を見せる仲間達を一瞥すると沈黙を破った。
「ゆまんなてぃゆたさん。ちかったるくとぅが合ーとーねー、頷ちくぃれー。(喋らなくていい。聞かれたことが合ってたら、頷いてくれ。)」
弘は感情を表に出さないので、言葉の先を読むのは難しい。マカラは気持ちだけでも繋ぐため、言われたままに頷いた。
「照屋ーうぅらんなたるぬが?(照屋はいなくなったのか?)」
想像から遠くない質問にマカラは頷いた。無視する理由はない。
「なーわたみーむのー売らんぬが?(もう内臓は売らないのか?)」
弘の質問は直球。仕事のそれである。マカラに出来るのは頷くことだけ。
「照屋ぬ母親ぬ酷さるみーんかいいちゃいんどー。ゆたさるぬが?(照屋の母親が酷い目に遭うぞ。いいのか?)」
照屋が臓器を流していたのは牧港派と繋がる母親で、しのぎを失くした照屋が牧港派から逃げ、弘達が追って来たということ。教団がこれだけ育ったぐらいなので、牧港派の怒りは計り知れない。一度は照屋に甚振られた彼らが追手に選ばれたのは、納得の人選である。
マカラは懐かしい顔を順に確かめた。皆の表情は一様ではないが、押しなべて怒りの色はない。この場の答えを探すマカラは、弘が自分に沈黙を許した理由を、時間を追って少しずつ理解した。
せめてもの慈悲の心である。もしも説明を求められれば、照屋の母親の身に降りかかる暴力を肯定するために、無様な言い訳を並べなければならない。能弁であればある程、卑劣に映るジレンマ。今は良くても、後になれば生涯の汚点。慣れているだけかもしれないが、きっと弘は昔のまま、繊細な部分を残しているのである。
遠方に住む邪悪な極道の母親より犯罪との決別が優先されるのは明らかだが、意識するべき構図はひとつではない。嘗ての沖縄の縁だけを思えば、人の情を知る弘達に老婆を乱暴させるか否かの二択。
瞬きを忘れていたマカラは、瞼を閉じ、非力な森田の指を断った夜を念じる様に思い起こした。小さな血だまりと鉄の臭いが広がっていく中、森田の呻き声を聞いたのはこの瞬間のためである。
人間は何かを食べる時点で残酷に決まっている。純粋な野蛮こそが本質。精神と肉体に降りかかるだろう、あらゆる種類の暴力に耐える動機を、マカラは敢えてつくった。その筈である。
無心に徹し、流れに身を任せたマカラが頷くと、弘は涼しい顔のまま動きを止め、やがて頷いた。彼が何を思ったかは分からない。
何事もなかった様に周囲の建物を見渡した弘は、首を傾げるといつかの海辺で見せた雰囲気を一瞬漂わせた。笑ったのかもしれない。
「洋子ーくまんかいうぅが?(洋子はここにいるか?)」
何を話しても、不愉快な時間しか待っていない。マカラは声を発することなく、やはり首を横に振った。洋子はもうこの世の何処にもいないのである。
懐かしい名前が無言で流されると弘が思っていたかどうか。マカラを眺めて時が過ぎるのを待った弘は、不意に自分の足元を気に掛けると微かに浮かんでいた明るい表情を消し、仲間を振返った。
「むどぅら。(戻ろう。)」
跨ぐ程度だった法の一線を大きく越えただろう彼らの正解は弘の指示。棘が覆い尽くす世界に道を見つけるには、信じるものが必要なのである。せめてもの救いは、カラフルな皆が弘の背を追う足取りが重かったこと。その先には照屋の母親の惨劇が待っている。気が進まないなら、まだ人の心は残っている。
我が身を護るためにやむなく袂を分かったマカラにとって一方的に懐かしく思える弘達は、ただばらばらと遠ざかって行った。何も語らないのは、皆の基本姿勢だったかもしれない。達也が一度振り返ったがそれだけ。裏切りの代償を求めないなら、人生に負い目しかない彼らが、逃げた相手に自分から近寄ることはないのである。

弘達があっさりと引き下がると、教団の敷地に張り詰めていた緊張は、何も理解できない信者達が視線を合わせる度に徐々に解けて行った。マカラを連れ戻した森田の選択は正しかった。教団にとってはそういうことである。
「あの人達は民主カンプチアの頃の知合いですか?」
皆と同様、森田は沖縄の方言を知らない。遠のいた弘達の背中をじっと眺めたマカラは、思い出した様に森田の方を振り返った。
「いいえ、日本人です。あの人が喋った言葉は日本語です。」
誠意だけは失わない森田が想像通りに恥じ入ると、マカラは堪らなくなった。小さいのである。大袈裟に世界を語っていた森田は、絶対的に優位な立場で雰囲気を出していただけ。評価のテーブルに乗せられれば他の誰とも違わない。普通の人なのである。
「あなたと同じ日本人にも、寂しい人がまだまだたくさんいるんです。」
マカラが、他人から買い取った書類だけの名前、森田信昭を普段から名乗り、正式に宗祖としての活動を始めたのはそれから間もなくのことである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み