第42話 六日目(5)

文字数 4,403文字

点描の様な花が飾る樟のもとに百人ほどの思惟の会のメンバーが集まったのは、空が眩しい五月のある日のことだった。香る芝の上に胡坐をかいて向き合う森田とマカラを囲む様に、若い彼らは幾重にも重なる輪をつくった。順に喋るのだが、丁寧な言葉を使う森田とマカラを除けば、もう誰が喋っているのかも分からない。一切の責を問わず、濁流の様な言葉の落ち着く先を心地よさだけで探すのが彼ら。もしも答えに辿り着いたら新しい声が消える。その時を待つのである。
騒めきの波長が揺らぎ、ひとむらの気持ちが徐々に整うと、瞑想していたマカラはゆっくりと目を開いた。口火を切ったのは視線の合った笑顔の森田。
「今日は久しぶりに宗教について考えたいと思います。」
森田が両手を挙げて一度手を叩くと、皆が遅れて一度手を叩いた。喋る度に手を二度叩き、流れをつくるのが最近の彼らの流行り。
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。広辞苑。」
即座に冗談が聞こえたのは、過去に何度も語り合ったことだから。笑顔の手拍子が響けば、次の誰かの言葉が続く。
「世界を説明するために絶対的な存在を仮定した。」「絶対者には全部が見える。」「いつもどこかで自分の生活が見られてると思ってる。」「誰も見てないのに。」「精神的に住居の不可侵が守られない一生。」「文明社会なら生きる上での最低限のルール。」「生きてないのと一緒。」「普通に生きてたら自己嫌悪しか感じられない。」「性的な欲求とか。」「酒を飲んでも酔えない。」「愚痴も不安。」「一人なのに隠れて着替えるぐらい。」「やって当たり前のことが無理になる。」「救われない人が出て来る。」「皆がおかしいと思った筈。」「でも、神を否定すると全部が説明できなくなる。」「欲のあるうちは受け入れられない。」「死ぬまでには受け入れる。」「全員が自分の間違いを思う。」「いつか自分の中に神の対極を見つける。」「敢えて悪を名乗るのも正直な逃げ方。」「詩人の道もある。」「心に強めに寄った文化かな。」
手拍子に混ざる笑い声で、皆の気持ちがいよいよ解されていく。
「昔は全員無期懲役と一緒だったかも。」「皆が罪深い。」
無知な議論も嫌いではないマカラは、会話の間を埋めた。
「普遍的な存在と弱い自分の対比ですべてを説明しようとしたのは前近代的な構図です。宇宙と核兵器を知る二十世紀の私達には、その普遍性を説明できないものとして受け入れる道もあります。」「別に受け入れなくてもいい。」「宗教を無意識に認めてる?」「存在を許す前提。」「集合的無意識に宗教の真の姿がある?」「シンクロニシティが正しいとは限らない。」「正しい?」「善悪の話?」「こうも繰返される悪が人として間違いとも言えない。」「暗い。」「でも事実。」「何のための懺悔?」「癒し?」「癒される?」
森田はマカラが導いた曖昧な会話の小休止に微笑んだ。
「こう考えるとどうでしょう。万物に共通する絶対的なものが情の及ばない物理化学的現象で、つまり野蛮。鳥や魚が求愛行動をする様に人もルールとして野蛮に回帰する。欲求が満たされると、野蛮が種を滅ぼさないために自己否定を始める。それが懺悔。」「神≒野蛮?」「神が与えたものが本能なんじゃないの?」「禁じるものを与えた理由は?」「程ほどにってことじゃない?」「ペーソス。」
思い思いの声は、あらゆる罪と縁遠く思える程に若い。
「本能よりは文化かな。」「いや、本能を語った文化でしょ。」「何のために語るの?」「人間の弱さを共有してる。」「必要?」「宗教全般で問うことじゃないね。」「懺悔をしない日本的な宗教なら?」「仏壇の力。」「仏壇の向こうの人数を想像したら怖い。」「累乗の世界。」「墓石も拝む。」「死んだら怖い的な奴。」「気休めだけど、いつかは本気で拝む。」「私は先祖を拝んだ記憶しかない。」「受験の時に合格祈願したけど。」「もらったお守りは大事にしたぐらい。」
そう遠くない昔の誰かの慈愛を懐かしむ間も、言葉の連鎖は広がり続ける。
「八百万の神は?」「アニミズム?」「狐でも拝むし。」「木に綱巻いたり。」「太い木見ると自然と立止まる。」「そんな話?」「スケールの違いは絶対だね。」「時間と空間を一瞬で擦り込まれる。」「でかい。樹齢何年?」「絶対そう。」「認めるのが素直。」「石でも拝める?」「墓石なら。」「違うね。」「拝みはしないけど凄いなって。」「違わない?」「自分の存在を超越するものと通じようとしてるんだと思う。」「それは職業でやる人。」「シャーマン。」「サニハ?」「全然分かんない。」
手拍子だけは欠かさない皆の小さな笑いが揃うと、マカラは自分だけが語れそうな気持ちを声にした。
「日本人の宗教感が私は好きです。どうやって始まったかは別にして、誰もが親を敬う様に作法だけを学んで大きくなります。飢饉や戦争が起きたり、知合いや自分が病気になったりすると深く祈りますが、救われたいだけで誰も神様を想っている訳ではありません。仏様でもないです。でも、それは人間の心の在り方にとても正直だと思います。」「アーメン!」
答えが浮かばなかった誰かの声はゴスペル風。本来は賛意を示すその声に手拍子も続かないのは、あくまでも逃げ道のひとつだから。
「アーメン!」「アーメン!」「アーメン!」
序盤のアーメンでは終われないのが彼ら。誰かの手が改めて拍子を刻むと、瞬く間に秩序は取戻された。
「宗教は現実主義者にどんなに否定されても、存在する理由をつくり続けてる。」「進化するね。」「分からないことがあるし、大切にしてる人もいるから、完全には否定しきれない。」「少しずつ正解に近付いてきた。」「今の宗教が宗教の本質を残しているかと言われると、それは難しい。」「アーメン!」「進化する前の宗教って分かるの?」「それが人間の本質なら、きっと原始人の頃から伝わってる。」「その頃だときっと怖いものも多い。」「とにかく地震と台風。」「あと火事。」「祈る。」「遭えば絶対祈る。」「親が祈ってれば、子供も祈る。」「原始人の親子が祈る。」「そのうち祈りが独り歩きする。」「挨拶みたいになる。」「寝る前とか。」「子供のためにとか。」「あなたのためにとか。」「怖くなくても念じる。」「呪術?」「大切にしたいものを祈る。」「皆で祈る。」「いつか馬鹿が自分を祈らせる。」「太陽に祈るよりは意味がありそうだけど。」「群れると宗教は堕落する。」「群れるとこから宗教でしょ。」「そこ飛ばそう。」「自分を祈らせるのは馬鹿じゃなくて、哲学者の気がするけど。」「原始時代なら哲学者は合理主義者だ。」「今もでしょ。」「人が集まってくるなら馬鹿じゃない。」「組織論?」「社会学でしょ。」「社会と宗教って、どっちが先?」「どっちでもいい。」
真面目に勉強している人が卒倒しそうな呟きでも、彼らの会話の果てにあるものだけが彼らの答え。但し、皆の会話がこの国の中でどんなに異質だろうと、マカラにすれば大した違いはない。
「古い宗教ではなく新しい宗教はどうでしょうか。神がいないことと宗教のパターンを知った上で興した宗教です。」「思想的に団結する必要があったか詐欺のどちらかだね。」「思想的に団結って?」「戦争が肝だね。」「戦争はそもそも文化の軋轢だし。」「宗教の軋轢とも言える。」「日本は神の国だったし。」「敗戦したなら字面で新しい神もありでしょ。」「元は仏教勢力に完敗して、その後、南蛮船だね。」「戦国時代なんか宗教戦争にしか見えない。」「信玄も謙信も坊さん。」「本願寺も。」「ゲーム好き?」「信長はキリスト教のルーティンに嵌ってるね。」「神木を切り倒す奴。」「香木ね。」「二百年後にペリーに大砲撃たれる理由があったのか知らないけど。」「クジラ漁の船員をリンチしたんだっけ。」「それは目を付けられた理由で、もっと奥は深い。」「リンチされて、大砲撃たれる?」「だから、アメリカがクジラ獲ってたんだけど。」「そこ逆転してる。」「南蛮船から後は原爆まで一気通貫だけど。」「大きくひっくり返った感じ?」「神の国じゃなくなった時。」「体制と一緒に新しい宗教も考える。」「事務的に必要な感じになる。」「宗教興して選挙も出るね。」
マカラには日本の歴史はほぼ呪文だが、ネイティブの言葉の渦は勢いを増していく。
「全部古過ぎる。」「最近ならどう?」「どうって、どう?」「社会に適合できなかったりとかして、心の支えが必要な人。」「語り合って救われる人もいるんじゃない?」「それで宗教に走るのは逃げ。」「逃げたら駄目だったっけ。」「自分でも負けてるって、思ってんじゃないかな。」「どっちでもいい。」「皆に否定された集団に行けば、その中で勝てるかもとか。」「偏見。」「祇園精舎の鐘も鳴るし。」「いつかひっくり返るって?」「いつかの戦いの狼煙。」「そんなに重い?」「本人にとっては。」「階級闘争的な?」「くだらない。」
それはこの時代を生きる彼らにはあまりに退屈なキーワード。あまつさえ古い色でくくられる覚えはない。森田は光り輝いていた皆の顔に差した影を放っておかない。
「この現代に誰かが新しいものを求めるなら、見えない対立の構図がそこにあるんだと思います。現代を生きる私達はその中にいるので、自分のいる場所によって違う密度で物事を理解します。多くの人と自分の思いを語りあえば真理に近付くのかもしれませんが、方法を整理しないと複雑化すると思います。まずはすべてを皆の言葉で批判だけしてみましょう。あらゆる立場にいる私達の批判によって、潮目が見えてくると思います。」
森田は手を叩かずに皆を見渡した。外国籍の仲間のための丁寧な言葉遣いのせいで、今日も森田は皆を超越している。穏やかな聖人の物腰を揶揄う者はいない。
その後、考える葦の束は手拍子に合わせて二時間議論し、結論が遠いことだけを確認すると、翌日以降あらゆる教義を批判し続けた。森田の見せた道を辿ることにしたのである。
この世で十万を超える宗教のどのひとつをとっても、科学的盲目の中で彷徨った感情の余韻。神秘を纏うための詐術も混ざっている。教義自体に民族を超える普遍性は期待できないが、教義に共鳴する刹那にいつかは囚われる人の儚さに普遍性がある。利権が絡んでも些末なこと。人は死ぬことが寂しい生き物なので、教義に害がなければ、皆で慰め合うことに問題がある筈はないのである。
それらしい答えを通り過ぎると、議論から大きな展開は少しずつ消えた。それは無駄を感じた者の思考停止の連鎖。樟のもとに集ってから三週間後、意味のある発言が影を潜め、手拍子ばかりが大きくなり、誠実なマカラがとうとう睡魔に負けた時、森田は結論を告げる鶴声を響かせた。
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