第54話 八日目(4)

文字数 4,201文字

啓子の夫の勲が見舞いに訪れた病室。つがいの本質を垣間見て、目を閉じて感傷に浸っていたマカラが慌ただしい物音に振返ったのは、洋子と啓子の出会いから一か月後のある休日のことだった。教団から待望の配当を受け取った翌々日、自分の居場所を見つけた洋子が、病院とはおよそ縁のない仲間を連れてきたのである。それは結婚したばかりの由美子。ハイブランド・コーデの購入資金の出所は新郎の勉の財布だけではない。
遊び仲間だった由美子の結婚の知らせを聞いた洋子は、まずは素直に妬んで勉の目を覚まそうと思ったが、大好きな金が手に入ると心の棘が抜け、当たり前のことがしたくなった。友の門出を祝うことにしたのである。何が出来る訳でもない洋子は、新婚の小鳥遊夫婦と真昼の都心で待ち合わせをした。裏道を生きてきた洋子には、洒落た男女や高級車が飾る都会の街並みが宝物に思えるのである。
待合せの場所に早目に乗り込み、景色の一部になるのが嬉しい。時間をかけて自分に酔った洋子は、誰かにじゃれながら歩く由美子を目ざとく見つけた。まだ距離は遠い。隣りにいるのがおそらく被害者の勉。地味だが落ち着いた色合いの服装が誠実さを教え、笑顔も可愛い。結婚相手の理想像のひとつである。由美子の厚かましさを逆に清々しく感じた洋子は、満面に笑みを浮かべて二人に駆け寄り、結婚指輪と重ねた黄色のダイヤモンドに大袈裟に目を留めた。自己紹介も冷やかしもすべてが照れ臭く嬉しい。由美子も似た生き物なので、下世話な立ち話に終わりは見えない。
大人しい勉は洋子に軽く揶揄われた後は空気になったが、それが由美子と一緒に生きるということ。勉の細やかな笑顔は、由美子が時折視線を配るだけで永遠に続きそう。
どこにでもある幸せな気持ちの溢れる時間は、しかし揺れる洋子が発作の様に泣き出して終わった。それどころか走り出す。薬の量を疑った由美子は面倒を避け、ひとまず勉と別れて後を追った。結婚生活に影が差すだけなので説明はなし。残された勉は、走る由美子の背中を笑顔で見送った。雑な扱いを自分への信頼と思ったのか、友を想ってハイヒールで走る妻を愛おしく感じたのか。変わらず笑顔だったのだから、とにかく素敵な気持ちだったに違いない。本人も承知の上だろうが、由美子の術中である。
問題の洋子は、勉を振返ることも由美子に理由を告げることもなく、とにかく走った。向かったのは本屋に雑貨店。それも何軒も。今の洋子は明らかに異常で、気の利く人なら声を掛けそうなレベル。通報を嫌った由美子は近付くすべての店員の関心を自分に向けるため、洋子に輪をかけて派手に振舞った。店内は大騒ぎ。壊れた洋子は脈絡なく涙を流したがそれでも動き続け、遂には由美子を連れて啓子の個室に辿り着いたのである。

「お邪魔しまぁす。」
崩れた化粧を完全に落とした洋子が勢いよく扉を開けた先にはマカラと木住野夫婦がいた。洋子と勲は既に知った仲である。流れで続いた由美子が部屋に足を踏み入れると、マカラは素早く腰を上げた。部外者の入室は禁止に決まっている。加えて由美子の装いは不謹慎なレベル。啓子の前で勲の視線がチラつくのは耐えられない。
「私、洋子の付き添いです。」
通用しそうにない理由を声にした由美子は、マカラの面白くない顔を見ると取敢えず元気な笑顔を見せ、言葉を補った。
「小鳥遊由美子です。洋子の友達です。嘘じゃないですよ。」「あの、本当です。親友です。とても仲がいいです。」
マカラにとって洋子の助太刀は逆効果。事実なら危険人物である。
「そういうことではありません。この部屋は洋子さんの知合いというだけでは入れないですよね。」
流石に無理を感じた洋子は、マカラと由美子の間に滑り込んだ。
「ごめんなさい。何も言わなかったら、ついて来てしまいました。駄目ですか?」「駄目ですよ。ルールですから。」
マカラの背後の勲が腰を浮かせたのは、見つめていた啓子の目に心の動きを見つけたから。
「マカラさん、僕達は別にいいですよ。大城さんがいた方が楽しいから。」「お、勲ちゃん、流石。」
洋子はマカラを大袈裟に体で押しのけ、誰が見ても場違いな由美子を連れてベッドの脇に寄り添った。
「これプレゼント。お給料が出たから。啓子と喋ってただけなのに嘘みたいだよね。」
洋子が啓子に差し出したのは桜の写真集。代わりに受け取り、名画でも見る様に表紙を眺めた勲が啓子に向かってページを捲ると、いつか見た春の景色が啓子の眼前に広がった。
勲が続けてページを捲ろうとすると、啓子は指先を挙げた。彼女のペースではなかったのである。もう一度指が動いたのは、啓子の顔を見つめる勲の視線がうるさくなった頃。啓子が骨と皮だけの指に力を込めると、勲が指示に従う。その繰り返し。啓子の表情に明るい色を感じ始めた洋子は大きく息を吸い、背筋を伸ばした。
「お願いがあるんだけど。」
洋子が鞄から取出したのは流行りの使い捨てカメラ。ついさっき買ったものである。
「皆で写真撮りたいんだけど、いい?」
不可解な頼みを断り切れない勲を見ると、洋子はなし崩しにマカラにカメラを手渡した。
「お願い、マカラさん。由美子、一緒に撮ろう。」「私?」
「そう。結婚の記念だし。」
結婚という言葉の明るい響きで啓子の視線の先が僅かに動くと、勲も微笑んだ。
「結婚ですか。もう?これから?」「もうバリバリに人妻です。これ一本。プロだから。」
「あぁ、おめでとうございます。」
由美子の微妙なノリに付き合おうとする勲を笑った洋子は、当の啓子の気持ちを確かめた。
「いいよね。」
啓子が表情を変えずに沈黙を守ると、洋子はマカラを振返った。
「マカラさん、決まりです。この四人を撮ってくれませんか?」「撮れますけど、啓子さんの知らない人ですよ。」
「今、友達になりました。今日は啓子のお蔭で初めて給料をもらえたお祝いの日で、由美子の結婚のお祝いの日で、ここにいる皆が出会えたお祝いの日です。これから仲良くなります。十分ですよね。」
躊躇うマカラに構わず由美子を引き寄せた洋子は、空いた手を啓子の布団にそっと添えた。洋子に倣った勲が啓子に身を寄せると、マカラの目の前に四者四様の笑顔が並んだ。

洋子と由美子が無心に喋り続けて一時間後。勲の希望で部屋を出た三人は、桜の花弁の残る畦道を仄々と歩いた。バス停まで由美子を送るためである。口を開いたのはこの三時間疑問だらけの時間を過ごした由美子、高いヒールのせいで歩きづらい彼女。
「結局、何だったの?」
釈然としない由美子とマカラの気持ちを視線で受け止めた洋子は、頭に浮かんだすべてを声にする生き物である。
「お金があって結婚する友達がいて、ご飯のこと考えてたの。」「そういう約束だから、絶対そうじゃないとね。」
「そう。そういう約束。でも休みだ、遊ぶぞって思ったら物凄い幸せで、怖くなったの。」「その展開、無理。ふざけんなって。」
普通のお祝いを期待していた由美子の言葉に容赦はない。
「啓子と一緒にいてお金をもらって。休みの日は啓子と離れて好きに遊ぶの。」「普通じゃん。」
「啓子はずっと辛いのに。あの子、私の言うこと、多分凄く信じてくれてるのに、お金のためにやってるみたいでしょ。」「それ仕方なくない?」
「なくないの。」「そうなの?」
「そうなの。啓子といると泣いたり幸せとか思えたり、いろんなこと考えてたのに、全部自分のためみたいでしょ?」
歩きながらも時に体を揺らす洋子は、気持ちも常に揺らいでいる。
「死にそうな人を好きにして、全部自分が気持ちいいだけだったんだって思ったらもう吐きそう。死体で遊んでるみたいな?最近自分でもちょっと感動してたのに。」「昔から変にそういうとこあるよね。」
「自分の中に正しいとこなんて一ミリもないって思ったら、もう働けない気がして。そしたらお金ももらえないし、楽しい時間もないし。全部元に戻るの。もう怖くて怖くて怖くて怖くて。ね。ほら、私、自分が大好きだから、自分に同情しちゃって。でもそれだけじゃなくて、やっぱり啓子にも悪くて。もう無茶苦茶。」
悪路のせいで一瞬姿勢を崩した由美子は、眉を潜めて含み笑いをした。当然、自分のためだけではない。
「頭悪すぎるよ。」
否定的な言葉は常に前向きに通り過ぎる洋子は、この瞬間も顎を上げ、爽やかな残春の風だけを感じて微笑んだ。マカラが二人の会話に割って入ったのは、理解に苦しむことが残っているから。
「洋子さん。」「何?」
「なんで桜の写真集なんですか?」「それはあれです。啓子はもう来年の桜は見れないから可哀そうになったんです。」「桜がどうとかじゃなくて十分可哀そうでしょ。」
洋子はやはり由美子に笑顔を返した。この一か月、普通の人より少しは考えたのである。
「そこは皆が可哀そうなんだけどね。いつか死ぬから。」「やっばいじゃん。何?終わってる?」
洋子は由美子の言葉を受け流し、マカラの表情を探った。気持ちが正しく伝わっているか気になったのである。
「私は毎年春に桜を見ると幸せな気持ちになります。どんなに落ち込んでいても、絶対ちょっと気持ちいいと思います。春が一番好きだとその時は思います。他の季節も好きかもしれませんが、あの時間がもうないのかと思うと可哀そうだと思います。」
強めだが許せる主観に由美子が言葉を控えると、洋子の適当な呟きの余韻がその場の空気を決めた。彼女の沈黙が長く続く筈がないが、納得のいく答えを得たマカラは視線を逸らし、地表を飾っていた桜の花弁が宙に舞い上がるのを見た。魔法を思わせたのは紋白蝶である。マカラは、風の流れをなぞる様な動きを目で追った。記憶の底に埋もれかけた些細な疑問が蘇ったのは、多分心が動いたから。
「どうして四人の写真を撮ったんですか?」「何をしても、全部終わるのを待ってるみたいで、何かしたくなったんです。何かが始まる予感とか、誕生日以外のお祝いとか、欲しくないですか?」「激臭。」
似合わないセンチメンタルな言葉が由美子の爆笑を呼ぶと、照れた洋子は肘で由美子の脇腹を突いた。
「今度言ったら口縫う。」「怖すぎ。なんか、いちいちエグイのよ。」
「実際縫うのよ、エンバーミングって。知ってる?」「知っててどうすんの。やばいぐらいマニアックだよ。」
葬場のトリビアがルージュで飾る由美子の口元に華やかな笑みを呼ぶと、マカラは素直に生命力を感じた。
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