第64話 九日目(6)

文字数 3,540文字

マカラの慰めはその後も続き、森田は無理を感じさせない答えに徹した。違うレベルの問題に心を囚われる森田が探しているのは、マカラの話に生まれる空白の時間なので、実を言えば、流暢な相槌の何処にも心はない。彼にとっての好機がようやく訪れたのは、緋色の空を藍色が覆い始めた頃。博愛に徹したマカラが喉の疲れを意識し、言葉の代わりに微笑んだ時だった。
「こうして戻ってきてもらったのは、本当は大城さんのことだけではないんです。」
森田はマカラの視線が自分の表情を探るのを待ち、小さく頷いた。
「照屋さんのことです。」
照屋の不在は戻ってきたマカラが最初に確認したこと。照屋が洋子を殺して逃げたイメージが鮮明に頭を過ったのである。
「今から私が言うことを聞いても驚かないでください。」
森田は、マカラの心に邪推の波が押し寄せる様を眺めた。
「私が照屋さんを追い出しました。大城さんはその時に事故で亡くなったんです。」「あの人はどこに行ったんですか?」
マカラは洋子よりも照屋を気に掛けた。彼が何よりも気になるのは、我が身に降りかかるリスクである。
「多分誤解しているんじゃないかと思うんですが、照屋さんは大城さんに何もしていません。私と照屋さんが喧嘩を始めた時に、大城さんは私を止めようとして亡くなったんです。」「あなたを止めようとしたんですか?」
自分でオウム返しを感じたマカラは質問を重ねた。
「喧嘩の理由は何ですか?それになぜ喧嘩ぐらいで死ぬんですか?」「ちゃんと説明するのは難しいですが、でも死んだんです。私は自分が言えることはすべて言いました。あとは想像に任せます。」
マカラは簡単な引き算をした。生き残った二人のうち照屋が何もしていないなら、経緯はどうあれ、森田が洋子の命を奪ったのである。しかし、ディテールがまったく分からない。
何より残酷なのは森田がつくった静けさ。大虐殺を知るマカラの想像力は脳内に恐怖の連鎖を生み、心臓を鷲掴みに出来る。生々しいほどにそのままの感触。其処彼処に溢れ返る生まれっ放しの日本人とは訳が違うのである。
森田は項垂れたマカラの頭頂部を眺めた。今から自分が言うことを聞いて、その髪、その皮、その骨が覆う脳で何を思うのか。森田は洋子のそれをぼんやりと思い出した。築いてきたすべてが崩れる不安は禁じ得ないが、マカラはこの地を一度去っている。元よりないものと思えば、優先順位は明らかである。
「照屋さんがいなくなると、きっと移植を待ってた人が本気で怒ってきます。」
喋り始めた森田は自分自身が恥ずかしくなってきたが、ここで止める訳にはいかない。
「でも、私が本当に怖いのは本人よりは周りの人です。愛する誰かのことで頭が一杯の人とかお金が必要な人。私はそんな人達を説得できる気がしません。」
マカラは森田のための答えを簡単に見つけた。差し迫る危機への対処は彼の人生のテーゼに明確に示されているのである。
「逃げたらいいんです。別にあなたがここにどうしてもいなければならない理由はありません。私も逃げました。」
気の抜けた森田は声を出さずに笑った。
「そうですね。でも、私が逃げると他の誰かが責められることになります。」「その人も逃げればいいんです。」
「こちらが逃げても相手が追ってきますよ。命がかかってるんですから。」「皆も命をかけて逃げればいいんです。」
相手は普通ではないので、正解かもしれない。森田はすべてを捨てる自分達の未来を思い描いた。沈黙が続いたのは、森田が思うべき相手が多過ぎるから。
「無理ですか。それなら謝るしかないですね。」
マカラの言葉に森田が頷いたのは、それが彼も最初に思いついた答えだったから。但し完全に一緒ではない。
「愛する人のために怒った人にはひょっとしたら話せば分かってもらえるかもしれません。照屋さんがいなくなったので、これ以上は法を破れないと言えば、きっと納得してくれます。でもお金が欲しい人は難しいです。元々、正義がありませんから。」
何かを言い淀んだマカラは、森田から僅かに顔を遠ざけた。自分が呼び戻された理由に思い当たったのである。せめてもの抵抗で森田の表情の移ろいを暫く放置したマカラは、森田の目から完全に光が消えた頃、自分が納得するための条件を見つけてしまった。二度、三度と考え直しても変わらない、唯一無二の閃きである。
「森田さん。」「何ですか。」
「指をくれたら助けてあげます。」
耳を疑った森田が首を傾げると、マカラは穏やかに微笑んだ。
「だから、指をくれたら助けてあげますよ。きっとヤクザが来ます。簡単にはいきません。」
森田はこの国の常識を教えた。
「失敗をして指を切るのはヤクザですよ。職人も失敗すると指を失くしますし、彼らなりのけじめだと思います。ただ、私はヤクザではないので、私の指を渡しても向こうも困るだけです。」「違います。あなたの指が欲しいのは私です。」
笑顔のマカラは戸惑う森田の様を楽しんでいる様にも見える。
「考えてみてください。ずるいじゃないですか。洋子さんは死んだのにあなたは生きていて、ヤクザが来るからと言って、遠くにいた私を呼び戻して相手をさせようとしています。私が死んだらどうするんですか?」「死ぬと思うなら別に関わってくれなくていいです。」
「私があなたを放っておけないのは分かってますよね。」「そうかもしれません。でも、あなたならひょっとして知合いがいて、上手く解決できるんじゃないかと思ったんです。」
それは森田の本心だろうが、マカラの本心はまた別。
「それなら猶更です。私の知合いを相手にするなら、私はあなたに無理を言います。きっと普通では済みません。指をください。」
牧港派の影に囚われるマカラの態度は揺るぎないが、森田にとって考える余地はない。
「あなたがマカラさんだから言います。私は指をあなたにあげるのは嫌です。理由がありません。」「ありますよ。私は怒ってるんです。」
「何にですか?」「あなたの身勝手にです。」
生まれて初めて浴びた評価の理解に困った森田が選んだのは沈黙。
「私もやっと分かったんですが、あなたは別に理想を求めてる訳じゃないです。皆が議論してつくってきた正解のないルールを見つけるととにかく騒ぎ立てて、少し違う答えを選んで喜んでいる。ただの暇つぶしなんです。」
根底から否定された森田は、それでも黙って耳を傾けた。自分のこととは思えないので、自虐的な好奇心が勝つのである。
「教団の代表に私の名前をつけたのが間違いです。そのせいで、私にはあなたよりも皆の声が聞こえていたと思います。」
森田は傾く体をそのままに、自分の素直な気持ちを声にした。
「そういうところはあるかもしれません。でも、指をあなたにあげるのは嫌です。意味がないですから。」
マカラは無理な笑顔まで取繕った森田から目を逸らすと、無言のまま立ち上がり、台所に向かった。棚は古く、扉の開く音は大きい。マカラは急いで戻って森田に風を送り、机の上にまな板と包丁を置いた。カンボジアの包丁はほぼナタ。郷愁を感じて手に入れた希少品だが、銃刀法違反を嫌って置いて行ったのである。
「あなたにも身を切ってほしいんです。あなたがそれなりの痛みを感じないと、私はあなたの力になれません。」「どうして?」
「どうして?本当に?」「はい。本当に分かりません。」
笑顔のマカラは、この国の平和が生んだ絶望的な愚鈍を前にして、昂る気持ちのままに首を横に振った。
「全然分かってない。」「だから何をです。」
「あなたは幸せなんです。本気の人間が何処まで出来るか分かってない。最初から全部あなたが我慢すればいいんです。」
余りの困惑に呆けて見える森田に言葉の限界を感じたマカラは、素早く腕を伸ばした。頑丈な掌が掴んだのは森田の左手首。
「ちょっと待ってください。他に方法がある筈です。」
マカラは肉体労働で身に付けた筋力を使い、森田の手の位置を思いのままにした。まな板の上に左手を置かれた森田は指をとられまいと固く拳を握ったが、マカラは動じない。
「このままだと手首から先を落とすことになりますよ。」
マカラは森田が伸ばした右手を包丁で避けた。
「諦めてください。洋子さんは死んだんです。あなただけ綺麗なままでいられるなんて、おかしいじゃないですか。」
怯えた森田は呪文をかけられた様にまな板の上に掌を広げたが、それは一瞬。洋子に心で詫びたのだろうが、指と釣り合うか否かは結論出来ない。迷える森田の指は軽く曲がったまま。
「ヤクザは小指を落とします!」
半分正気に戻った森田が早口で唱えた最後の抗議も、マカラには届かなかった。包丁を振り上げたマカラは、渾身の力を込めて振り下ろした。音を立てて二度。人の指の骨は意外と硬いのである。
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