第30話 四日目(9)

文字数 4,349文字

一人残されたマカラは、上原が転がる砂浜からそう遠くない街中を走り続けていた。別行動の仲間を探し出し、クラブ愛瑠に向かわせるためである。店内を埋め尽くせる程度の頭数が揃い、何人かが隣り町までの足を探し始めると、しかしマカラはすべてを見届けることなく、何も言わずに一人で走り出した。行先は弘に教えられた洋子の家。かなりの確率で必要になるので、着替えを準備する様に頼まれたのである。
マカラは傷んだ舗装に躓き、時に平衡感覚を失いながら暗がりを走り抜けた。弘が教えた洋子の家の目印は福州園のエントランス。沖縄がアメリカでも日本でもなかった時代の名残。
照明が仄かに照らす長い壁に沿って走り続けたマカラは、目当ての軒反りを見つけると周囲を見渡し、一軒のアパートに目を止めた。クリーム色のそれの二階の一室が洋子の部屋である。横断歩道を渡り、アパートを見上げたマカラは、一気に階段を駆け上がった。
部屋番号を見ながら横歩きをしていたマカラが足を止めたのは、想定外の事態に気付いたから。並びでそうと分かる洋子の部屋の窓に灯りを見つけたのである。
マカラはポケットに潜ませていた石を取出し、ベルトにかけていた布巾で包んだ。布巾を燃やすだけで証拠がなくなる手製のハンマーである。マカラは立つ側を慎重に選んで壁に身を寄せ、ドアを二度ノックした。
「洋子さん、マカラです。そこにいますか?」
囁くほどの声が上下の廊下に挟まれて響き渡る。深夜だけ分かる風情のない鳴き竜。間を置かずに玄関口で何かが床を擦る音、次いで錠を開ける金属音が響いた。勢いよく開いたドアから顔を出したのはよく知るダーク・ブロンドの女。ドアを開ききり、左右を見渡した彼女は、壁に隠れたマカラを見つけて小刻みにおののいた。
「うどぅるちゃん!(びっくりした!)」
思考が止まったマカラは、日焼けで火照った頬に遅れて笑みを浮かべる洋子を見つめた。

小さな犯罪の臭いを見つけた賀喜は、信憑性を問えない前提を無視した。我慢できなくなったのである。
「大城さんには戸籍がないんですよね。どうやって一人で家を借りてたんですか?」
壁を見つめていた宗祖は取り留めもなく瞳を揺らし、時間をかけて記憶の奥底に埋もれていた答えに辿り着いた。
「牧港派ガ借リ上ゲテイル部屋デス。キャベンディッシュサンハ知ラナカッタンデスガ、ソレガ答エデシタ。」
宗祖は乾いた唇を閉じ、追う様に瞼も閉じた。

ピンクが基調の洋子の部屋は、先刻、暗闇で鈍い暴力に手を染めていたマカラには眩し過ぎた。マカラが一瞬閉じた目を遠慮気味に開くと、洋子は安い香水を撒いた。香りを広げた理由は分からない。正しい言葉を探したマカラの表情が強張ると、薄着の洋子は悩める彼を部屋に上げ、窓際を飾る艶のあるソファに飛び込んだ。
「弘はあなたに何を言ったんですか?」
他人の痴情のもつれを語る語彙を持ち合わせていないマカラは、誠意だけで言葉を重ねた。
「あなたが照屋にさらわれたと聞いて、皆が探しています。私はあなたの服を取りに来たんです。」
確かめる様に喋るマカラを眺めた洋子は途中から含み笑いをしていたが、やがてマカラの視線に潜む力に気付くと大きく揺れた。
「何がおかしいんですか?」「ごめんなさい。それはそうですね。」
洋子が僅かに眉を潜めたのは、遅れて繋がった絵が物騒だったから。その方が腑に落ちるのは悲しい事実。
「ひょっとして、弘は照屋を襲いましたか?」「今、話しに行ってます。でも、もう上原に酷いことをしました。弘君はあなたを助けるためにこの街を出るつもりです。勿論、皆も一緒です。」
洋子が小さく何度か頷いたのは弘を想ったのだろうが、マカラにとって意味を持つのはストレートな言葉だけである。
「あなたが姿を消している間に、照屋と一緒にいるあなたを見たと言う人がいます。」
洋子は滅多にしない無表情を見せた。マカラが意識するほど続いた沈黙は、彼女が何かを決意するのに必要な時間。誰もが少なからず持つ暗部、裏側、汚れた一面、真っ黒なそれを見せる。その兆し。
「それは私が照屋と付き合っているからです。」
言葉の壁を疑ったマカラは分かり切った質問をした。無駄かもしれないが重要なことである。
「あなたは弘君と付き合っています。」「はい、そうです。」
「よく意味が分かりません。」「私は弘と照屋と付き合っています。照屋との方が長いですが、弘はそれを知りません。」
洋子は言葉を失くしたマカラを放っておかない。
「最近は家に来なかったので飽きたのかと思っていましたが、違ったみたいです。」
下卑た響きを耳にしたマカラの顔を不快感が覆い尽くすと、洋子はすかさず喋り出した。中途半端に綺麗な気持ちのままでは小さな汚れが気になる。すべてを黒く塗り潰すのである。
「女の子達の住む家は、私が交渉して、照屋の母親に手配してもらっています。戸籍がないので家賃はかなり高いですが、照屋の母親から貰った仕事を回して、家賃が絶対に払える様にしています。」
マカラがこの国で見た人間の生き様は殆どが底辺のそれだが、出だしだけでもその典型のひとつ。座る姿勢を変えた洋子は、マカラの表情がまた少し変わるのを小さく揺れながら見つめた。
「私が薬を手配できるのは、全部、照屋の母親のお蔭です。普通よりは高いですが、保険のことを考えたら、彼女から買った方が安いです。女の子達は病気をもらったり、子供ができたりすることもありますが、照屋の母親は何でも解決してくれます。」
洋子の言葉の刺激が増すのを感じたマカラは、披瀝の出口を探した。
「弘君は全部知っているんですか?」「聞かない約束なので彼は聞きません。皆が大変なことは分かっていると思いますが、知らない振りをしてくれていると思います。」
「でも、女の子達が可哀そうです。」
洋子は笑顔のまま揺れ、素足を組んだ。聞き飽きた言葉なのである。
「誰かの借金のためなら私も逃げる様に言いますが、そうではありません。自分のためです。女の子達の殆どはもうお母さんです。子供を一人でも産めば、いざとなったら出来ることが増えます。出産に立ち会えば分かります。」「しなくてもいいことです。」
「それは、あなたが一人で子供を育てる母親ではないから思うことです。戸籍がないだけで、いい仕事は残っていません。子守りまでしてくれる訳がないでしょう。子供を捨てずに頑張っているので、私は皆が偉いと思います。」「可哀そうとは思わないんですか?」
主観の繰返しは気持ちの強さの仕業だが、問われる洋子にとっては的外れな侮辱のリフレイン。
「同じ年の人と比べて、短い時間でいいお金をもらっています。お客さんが付くほど綺麗で、お金を払う価値があるからです。あなたは、皆に同情できる程、偉い人なんですか?」
日本語が分からなくなったマカラは、処理しきれない気持ちのやり場を探して顔の皺を増やした。それでも洋子は喋り足りない。気持ちを声にしているうちに、感情が抑えられなくなったのである。
「よく言う幸せな生活はテレビや新聞で見たものです。私はそんな生活を一度もしたことがありませんが、いつも楽しいです。嫌な時もありますが、死にはしません。あなたはそういう時間を見ないで、自分の基準で他人を可哀そうな人だと決めつけています。難しい生き方をしなくてはならなくて悩んだ人が、自分で選んだ答えです。皆に勝手な同情をする前に、最初に難しい生き方をしないでいい様にしてください。可哀そうだと言われて今の生活を捨てると、本当に難しい生き方しか出来なくなります。家族や友達と離れて、噂だけ残ります。誰かが時々優しい言葉をかけてくれても、生活の面倒まではみてくれません。そのうち子供を捨てたり、死んだりします。そういう人達が消えると綺麗な国になりますが、それ程残酷なことはないです。そう思いませんか?」
マカラは汚い言葉が聞き取りづらいだけで、子供ではない。時間をかけて、それが詭弁と理解したマカラが眉間の皺を限界まで深くすると、洋子はソファの傍らのギラつくタンスに手を伸ばした。引き出しから取出したのは、液体の入ったプラスチックの容器。
「これは何だと思いますか?」
透明な液体を眺めたマカラは、その先に洋子の瞳を見つけた。
「これを飲むとすぐ死ぬんだそうです。照屋の母親に会ったばかりの頃、死んだ方がマシだと言うと彼女がくれました。他の女の子達も同じものを持っています。私はこれをもらってから考えが変わりました。手首を切ったり屋上に立ったりする人は、死ぬまでの間に誰かに助けてもらおうと思っているんですが、この薬ならそんな余裕はありません。死ぬほど嫌だと思っても、本当に死ねると思うと耐えられます。だって、死んだら全部終わりです。美味しいものも食べられません。皆で笑うことも出来ません。そう思うと、すごく寂しくなります。」
マカラは哀憫の念に駆られて戸惑ったが、それは彼女の本質を知るために避けられないプロセス。洋子は続けて自分を曝した。
「どうして私がこんなことを喋るのか、不思議になるでしょう。それは逃げないといけないと思ったからです。さよならです。弘は私と一緒に逃げようとするでしょうが、そんなことをしたら、あなた達が照屋を探した様に照屋は追ってきます。負けるのが嫌だからです。だから、私は弘が来る前にこの街を出ます。」
何も共感できないマカラには、目の前で微笑む洋子がますます分からなくなった。マカラは言葉を飾らず、本質だけを尋ねた。
「あなたにとって、弘君はどういう人なんですか?」「時々、何をしているのか気になる人です。」
洋子が浮かべた照れ笑いは、見慣れた彼女のそれと重なった。しかし、問いかけはここでは終われない。
「じゃあ、あなたにとって照屋はどういう人なんですか?」「生活の一部です。」
「家族ですか?」「そうですね。でも、あなたの思う家族とは多分違います。水と魚の関係に近いですが、水がドブ川の水だと思ってくれればいいです。汚くてもないと生きられませんし、その中で育てば何も気になりません。ただ、絶対に汚いです。」
嫌悪感がマカラの思考を鈍らせると、洋子は沈黙を嫌った。
「あなたはどうしますか?弘が何をしたって、牧港派には勝てませんよ。いっしょに逃げますか?」
弘を見捨てて、彼の恋人と逃げるなどありえない。マカラの想いは一気に弘へと向かった。洋子の堕落を棚に上げたとしても、肝心の照屋が無実では支離滅裂である。今、一番怖いのは弘が傷めつけられることではない。仲間を間違った道に連れ込んだと彼が知ること。正義が壊れれば、きっと誰も責められない悲劇が待っている。
頭の中の何かが切れる音を聞いたマカラは、言葉も忘れて洋子の部屋から這い出した。
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