第23話 四日目(2)

文字数 1,809文字

自分に罪がないと知り、頬を光らせて喜ぶ寛人と別れた二人は、笑顔を徐々に消しながら事務棟への道を急いだ。既に剣道フリークスの姿はなく、カウンターで待っていたのはスーツ姿の総代ただ一人。
「随分、話が面倒になってますね。」
表情のない総代は、挨拶もせずに話し始めた。剣道フリークスがどこまで話したのか、声色は静かな怒りが滲むレベルである。取敢えず気持ちだけは理解できる鶴来は穏やかに微笑み、賀喜も続いた。
「そうでもないです。いつも通りですよ。」「普通ですよ。」
総代は一瞬で顔の皺を増やした。親子ほど年の離れた彼らの無力さに気付いて、諦める他ない自分が悔しかったのである。
「まあ、あなた達に言っても仕方ないんでしょうけどね。それで、今日はどうします?さっきの人達が言ってましたけど、宗祖に話を聞いても無駄ですよ。」
何も譲る気のない鶴来は小さく頭を下げた。
「仕事です。すいません。宜しくお願いします。」
続いて頭を下げた賀喜の笑顔も変わらない。溜息をついた総代は、彼曰く嘘を語り続ける宗祖の待つ二階へ向かって歩き始めた。

総代は、背後の鶴来と賀喜がアウターを脱ぎ終わるのを待たずに扉を開けた。目に入ったのはリクライニングで身を起こしていた宗祖。静かに視線の先を移す様は、昨日より元気かもしれない。
「アア。」
宗祖の呻き声を聞くと、総代は若い二人を振返った。手の動きは部屋に入ることを促す万国共通のジェスチャー。足を止めたままなので、今日の彼は入室する気もない。この態度に敢えて意味を探すなら、すべてが無駄であることの強めの意思表示ぐらい。拘ることなく頭を下げた鶴来と賀喜は、ローズマリーが香る宗祖の枕元へと足を進め、小さな音を立てて椅子に腰かけた。
「また、お話を聞きに来ました。」
微笑む鶴来が語り掛ける隣りで、賀喜は窓の外に動きを見つけた。樹木葬の墓がつくる林の中を、寛人が一人でジグザグに走っている。きっと、小さな頭の中で彼だけのストーリーが渦巻いている。
「アナタハ話ヲ聞ク気がアルンデスカ?」
第一声が賀喜への説教になるのは二回目。宗祖は彼女を未熟な人間と分類したのかもしれない。そもそも宗祖はそういう人間なのか、戸口で成り行きを見守っていた総代は静かにその場を後にした。
戸の閉まる音を一瞬気に掛けた賀喜は、自分を見つめる皺だらけの宗祖と向き合った。賀喜が綺麗につくった優しい笑顔が宗祖に伝わっているかは怪しい。
「すいません。寛人君が走っているのが見えたので。」
動くものを目で追わずにいられない人間がこの世に一定数存在することを、宗祖はまだ忘れていない。
「マア、イイデス。私ガ世界ノ中心トイウコトハアリマセン。」
謙虚な一面も見せた宗祖は賀喜から顔を逸らし、壁を見つめた。今日の彼は首の動きも調子がいい。
「ソレデ、私ハ何ヲ話セバイインデスカ?」
脳がリセットされた状態である。今日はカーテンを閉めていないことにも疑問を持っていない。少なからず予想していた鶴来は、笑顔を崩さない賀喜と視線を合わせてから、宗祖の記憶を補った。
「昨日の話の続きです。総代が民主カンプチアから沖縄に逃げてきて、農家から外国人の集団に引き取られていったところまで伺いました。録音させてもらいますね。」
鶴来がレコーダーを取出しても、宗祖は怪訝な表情のまま壁を眺めた。静寂。そして静寂。宗祖の声を待っていた鶴来は、しかし何が心を襲ったのか、止せばいいのに例によって目を固く閉じた。時と場所を選ばないのが心の病である。
三人のうち二人がブラック・アウト。刑事事件の最前線は病んでいる。ただ一人、健全な精神状態を保っているかもしれない賀喜は鶴来を暫く眺めたが、何度か瞬くと宗祖と向き合った。
「宗祖様、驚かないでください。こちらの教団の信者の小鳥遊勉さんが奥さんのお墓の前で亡くなっていました。自殺の可能性が高いんですが、遺書がないのでこうして話を伺っています。」
今日の宗祖は軽く口を開けたが皺の動きは少なく、涙も流さない。勉への同情を、昨日の自分を完全に忘れた悲しみが上回ったのである。賀喜の顔を見つめる宗祖の瞳は寂しげ。
「気ヲ遣ワセマシタネ。ソウデシタ。総代ノ沖縄ノ頃ノ話デスネ。」
宗祖の声でこの世に心が戻ってきた鶴来は、何もなかった様に笑顔を見せた。
「総代はずっと駄目だと嘆いてらっしゃいましたよ。」
呟く様に唇を動かした宗祖は、静かに天井を見上げた。昔話の始まりである。
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