第17話 三日目(4)

文字数 1,607文字

宗祖が時に自我を見失いながら語ることが事実なら、総代の森田は日本人ではない。本名はチアの子マカラ。厳しい眼差しの彼が捨てた故郷の名は民主カンプチア、今のカンボジアである。苔むしたレリーフを覆うガジュマルが神の消えた原始共産主義社会を魅力的に彩ることが出来なかったのは、周知の事実。知性が死を呼ぶ世界で教職に就いたばかりの独身の彼は、網から逃げる魚の様にすべてを捨てた。平凡な彼一人が史実の例外になることは確率論的にありえないので、賢明である。
ボート・ピープルが認知されるまでまだ遠い夜、仲間と共に村を後にしたマカラは、別の国を目指すには小さ過ぎる木の舟で闇夜の大海に漕ぎ出した。行先を決めるのは自然の力。九月の気まぐれな南シナ海は木の葉に等しい器の進路を渦巻く様に変え、遂には北へ押しやった。
当たり前に現れた海賊は、仲間の一人の頭を椰子の実の様に割り、躊躇なく海に投げ入れると、残った皆から服に金、次いでに女と子供も奪って姿を消した。ただ無情である。非力を嘆いても死ぬ気になれない男達は、変わる気配のない日射しに身を焼かれながら波に流された。その間、彼らが何を飲み、何を食べたかを、マカラは誰にも語っていない。
意思疎通の消えた小舟が沖縄の遠景に臨み、見慣れない鋼の船に遭遇した時、マカラは一人で碧い海に飛び込んだ。もう何も与えるもののない彼には、それだけが生き残る道だと思えたのである。

話は始まったばかりだが、眉を潜めた賀喜は小さく手を挙げた。
「すいません。」「ナンデスカ?」
宗祖は閉じかけた瞼を震わせた。
「カンボジアで迫害されて、海賊に襲われて、沖縄ですか?」「ソウデス。」
「東京の霊園のお爺さんの話ですよね。」
賀喜はスーツ姿の総代を信じ、寝たきりの宗祖の言葉を疑ったのである。宗祖は皺だらけの首の筋を動かし、頭を微かに浮かせた。気分を害して、顔を背けようとしているのかもしれない。鶴来が賀喜をフォローすることは滅多にないが、皆無ではない。
「あまり凄い話なんで、ちょっと驚いてしまって。」
鶴来の言葉で、請われた昔話への二人の評価が揃うと、宗祖は動きを止め、元通り頭を枕に沈めた。
「アル双子ノ話ヲシマショウカ?」「いえ、すいません。総代の話を続けて頂ければ。」
鶴来が簡単に断ると、賀喜は優しい笑顔を添えた。
「苦労されている方はそうですよね。大体分かりました。」
道を外れた者の人生は、常人にはすべてが理解不能な外道。死を迎える日まで皆が非常識に非常識を重ね、悲劇が更なる悲劇を生む。ある一線を越えれば、共感できる要素は皆無になるが、同じ時間を共有する限り狂気は膨らんでいく。それは刑務所が必要な理由。総代が歩んだ宗教へと続く道は、かなりの確率でその道である。

尖った日射しが透ける濡れた瞼をゆっくり開くと、マカラは雲ひとつない炎天を睨んだ。今までと変わらない空だが、頻繁に顔を襲う波の合間に見るといよいよ無慈悲。下着一枚で海面を漂うマカラは、改めて目を閉じると波に身を任せた。泳がないのは別に何を諦めた訳でもない。無の境地に至るほど精気が残っていないのである。
高めの波がマカラの体をゆっくりと浜辺へ運んだのは小さな奇跡だが、潮が違えば、この昔話がなかっただけ。とにかく、マカラは沖縄に流れ着いた。
この時期に人の姿がないので、そこは海水浴場ではない。何度か魚に体をつつかれたマカラは、博愛よりは食欲に誘われて姿勢を変え、珊瑚が海の色を変えたことを知った。それは浅瀬が近い証。海底に足を伸ばしたマカラは珊瑚で足を切ったが、慌てることなく海中に顔を浸けた。
死んだ珊瑚と海が織りなす白と碧の世界を虹色の魚群が舞っている。国に倫理感に人の繋がり。人間が無意識に囚われるすべてから解き放たれたマカラには、目の前にある世界が自分の目指した理想に思えた。ブドウ糖の足りない脳は、生き物のかたちにとらわれる必要さえ見失っていたのである。
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